525 もっと強い魔法使いならよかった
その夜、ファビウス先輩が部屋に来た。
もう出自もなにも隠してないので、きらきら金髪の魔性の美少年……いや、美青年全開である。
「ルルベル」
わたしの名前を呼ぶ声の甘いことといったら! 綿菓子みたいだ。ふわふわで、口に入れる端から溶けてしまって。
ちょっと、ぼうっとしちゃったよね。なにこれ夢? って思ったし。
わたしは呪符を描いていた。リートが指示した、一角残して描いておけ、の一角を埋めているところである。ナヴァト忍者の描画は正確で、線を入れるのも躊躇われる美しさ……でもまぁ、 やるけどね! 多少乱れてもなんでも、聖属性魔法使いであるわたしが線を入れると効果が上がるのでね! ていうか、ナヴァト忍者どんだけ描いたのよ、一角入れても入れても終わらないよ! ……なんて思っていたところだ。
ぼんやりしているわたしを見下ろして、ファビウス先輩は困ったように微笑んだ。
「僕のこと、見忘れちゃった?」
「え? いえ、まさか!」
「少し休憩しよう。お茶とお菓子を持って来たよ」
ふっと手が軽くなったと思ったら、筆記用具を取り上げられていた。そうなってはじめて、なんか手が重いな、と思う。
一角入れるだけのわたしが疲れているのだから、ナヴァト忍者も相当……と思ってそちらを見ると、リートに手当してもらっている。わー……!
「ナヴァト、大丈夫?」
「今、大丈夫になりました」
「君もやろう、手を出せ」
手を出すより先に引っ張られて、ジュッ! と力が流れる。
よくわかんないんだけど、なんかシュワシュワするんだよね、リートのこういう魔法。たしか、治療はそこまで得意じゃないみたいな話だったはずだが、こんな頻度で使っていたら、上達するんじゃないかな。
でもまぁ、得意じゃないっていうのもわかる。シュワシュワの次に、ちょっと強めのジンジンがくるのだ。ひどいときは、ピリピリすることもある。
うまくいえないけど、力任せに治してる感があるんだよなぁ。ウィブル先生とは全然違う。
そのウィブル先生はといえば、聖女護衛隊に名目上は滑り込んだんだけど、なかなか同行はできない状態がつづいている。
なぜ? それは、治癒力が高過ぎるせいで、引っ張りだこだからだよ! ……当然だよね。
聖女チームにはすでにリートがいる。なんなら、わたし自身も治癒が使える――そりゃ、後回しにされるよ。
カップからたちのぼる湯気を見ながら、考えてしまう。
こんな風に休憩して、お茶やお菓子をいただいて……そんな暇、あるんだろうか? これって、ただの贅沢じゃない?
だって――。
「ルルベル」
いつの間にか、わたしの手を握っているのはリートではなくファビウス先輩になっていた。
あれっ? これって都合のいい幻影だったりしない?
「少し痩せたんじゃない? 心配だな」
「いえ、わたしの場合は少し痩せるくらいでちょうど……」
自分でいってて悲しいが、学園で仲良くしてくれてる女子生徒、全員、わたしより痩せてるからね!
わたしはほら……元がパン屋の娘だから……純粋な貴族階級のご令嬢や、平民でも富裕層のお嬢さんたちとは違って、なんかガッチリしてるのよね……体型が。
いや〜、恥ずかしいな!
思わず視線を下げてしまう。あと一角で完成する呪符。わたしの作業を待っている束。それから……握られた手。
「今日、ひどい言葉をかけられたと聞いたよ」
「……いや、えっと……そこまでとは、思ってないです」
だって、当然だと思うもの。同じ立場なら、わたしだって。
「ルルベル、今は我慢しなくていいんだ」
わたしは視線を上げた――けど、ファビウス先輩の顔を見ることは、かなわなかった。
握った手を引かれて、抱き締められたから。
ドキドキするより先に、あったかいな、って思った。あったかい……。
「僕しかいないから。少しは弱音を吐いたりしてくれないかな」
「そんなことは」
「本音で会話したいんだ。……頭の硬い爺さんたちを化かすような話しかしてないから、僕も限界なんだよ。助けると思って、ね、ルルベル?」
なんで、こんなに。
なんで……と思いながら、わたしはファビウス先輩の胸に顔を埋めた。柑橘系の香水が、うっすらと鼻をくすぐる。戦場にいても食えない爺さんに囲まれてても、ファビウス先輩はファビウス先輩だなぁ! なんて思った。
「わたし……悪口雑言には耐性があると思ってたんです。パン屋で、接客してましたから。食えたもんじゃねぇとか、金返せとか。……その、ファビウス様のお耳に入れるような言葉ではない卑語も、たくさん聞いてきたんです」
ファビウス先輩が、少し笑ったのがわかる。呼吸とか、身体のふるえとかで。
「それは面白そうだな。そのうち聞かせてくれる?」
「わたしの口からは、ちょっと……」
生まれも育ちも、下町だからね。そりゃもう聞くに耐えない表現が、山ほどあるわけよ。上流のかたがたと違ってさ、気の利いた名言とか素敵な詩なんかを覚える必要ないからさ。記憶のスロットが、汚い言葉でどんどん埋まるわけ。
だから、思ってたんだ――罵られても大丈夫、って。
「ねぇ、ルルベル」
「はい」
「頑張ってるのに非難されても平気なひとなんて、いないんだよ」
「……でも、わたしのその……頑張りが、たりなかったような気がして」
あの場所では、たくさんのひとが怪我をして、命を落とした。
移動してる巨人を先にしたのは、間違ってなかった? そもそも、毎日ゆったり呪符を作るだけで仕事してる気になってた日だって、あった……。
「君を批判することは、誰にもできないよ。ちゃんとやってる。頑張ってるよ」
「それは、ファビウス様もですよね」
「まぁそうだね。褒めてくれる?」
「すごいです」
「ルルベルだって、すごいよ。ほかの誰にもできないことが、できるんだから」
頑張ってないひとなんて、いないんじゃないか。皆が頑張って、頑張って――そして助けが間に合わず、死んでしまったりするんじゃないか。
ほかの誰にもできないことができる、わたしだからこそ。頑張りの方向性を、考えるべきでは?
「わたし……」
「頑張れてるよ。少し頑張り過ぎて、心配なくらいだ。たてつづけに巨人を屠ったりして……疲れていないはずがない。少し休んでほしいな」
「でも」
「聖女さえ送り込めば解決、なんて皆が考えるようになったらどうする?」
「え?」
そう思われても当然では? ……って。わたしは素で首をかしげたくなったんだけど。
ファビウス先輩の手がわたしの後頭部をおさえてて、無理だった。
「そのままで聞いてほしい。今、ちょっと悪い顔してるから」
「……悪いお顔も、拝見したいですけど」
「また今度ね。その機会は、たっぷりあると思うよ。僕は、君が思ってるより悪い人間だから」
「でも、表情は取り繕ってしまわれるでしょう?」
わたしの問いに、ファビウス先輩はまた少し、笑った。
「うん。だから今は、取り繕わなくてよくて楽なんだ。ルルベル、しっかり聞いてね。聖属性が魔王の眷属に有効なのは、皆、知識として知ってはいた。だけど、あくまで『なんとなくそうだと思う』とか『いわれてるほどじゃないだろう』みたいな感覚でとらえていた――過去形だね」
「過去形、ですか」
「そう。君は、一般の部隊では手に負えなかった巨人を、たてつづけに負かしてしまったんだ。前線に出ていない者でも、思うだろう――これは使える、って」
わたしは、ぎゅっと拳を握った。
「使ってください。そのために、わたしがここにいます」
「ナヴァトに聞いたよ。リートが君を兵器だといったこと」
「そうです。わたしは強い兵器なんです。だから――」
「君は、意志のある兵器だと返した。そうだね?」
「――そうです」
大きく息を吐いてから。ファビウス先輩はささやいた。
「君を兵器だと考える者は、これから増えるばかりだろう。でも、僕は――僕らは、けっして忘れない。等閑にもしない。君には自分の意志があって、誰よりもやわらかな、やさしい心があるということを」
ルルベル、とファビウス先輩の声が落ちてくる。わたしの中に染み込んでしまう。
「ひどいことをいわれたら、憤慨していい。悲しんでもいいんだ。……どうしても無理だというなら、せめて僕の腕の中でだけは、弱くなって」
「……わたしのこと、そんなに甘やかしちゃ駄目です」
「それは困るな。駄目なんていわないでよ」
「愚痴がとまらなくなりますよ」
「僕にだけ弱音を吐いてくれるというなら、嬉しがらせるだけだ。知ってる?」
「知りません」
「それも過去形にしてくれるかな。今、教えたから」
暫しの沈黙。互いの呼吸の音だけが聞こえる。それと、ファビウス先輩の心臓の音。
「……わたし」
「うん」
「もっと強い魔法使いならよかった。もっと早く、もっと多くのひとを救えたらよかった!」
ファビウス先輩は、わたしを抱き締めた腕に力をこめた。
――誰かに抱きしめてもらうって、こんなに安心するものなんだなぁ。




