493 興味がね……過剰にあるんだ
さぁさぁと、なつかしいような音が聞こえる。
あたたかいような、冷たいような。……寂しいような。
あれ、とわたしは思う。
……あれ?
「おやおや。気をつけなさいと伝えたはずだけどね」
やわらかな声。その音に、まぎれるように。染み込むように。それでいて、浮き上がるように。
あれ、とわたしは思う。
あれれ?
なにをしてたんだっけ? わたし……わたし?
わたしって、なに?
「何回も来るから、ほら、すっかり線がつながってしまった」
線?
なんの話だろうと見上げた視線の先に、緑の眼があった。濃くて、深くて、透明で、どこまでも――。
「ルルベル」
手首で声がして、はっとした。
そうだ、わたしはルルベル。ルルベル……ルルベルって、なに?
いや、わかる。わかるよ。わたしは王立魔法学園の生徒で聖女。現在、同じく学園の教師であるジェレンス先生に連れられて虚無移動中のはず。
えっ。
「置いてかれちゃった?」
「否。ルルベルが、紛れた」
「紛れ? え? なに?」
ふたたび、緑の眼の気配。そちらを見ると、相手はにこりと笑顔を見せた。
「ずいぶん守られている。それだけ線がつながっていれば、戻れなくもないだろうね」
「エルフよ、そなたは何者だ」
尋ねたのは、ナクンバ様。ナクンバ様は腕輪に擬態するのをやめていた。小さな竜の姿でわたしの前にぷかぷか浮いて、声の調子からすると――たぶん、相手を威嚇してるみたい。
でも、緑の眼のエルフには効果がなさそうだ。
すぐそこにいると思ったら、いない。消えてしまったかと思えば、間近に気配を感じる。
見えているようで見えていない。と、いうより――
「存在してます?」
思わず尋ねたわたしに、エルフはくすくすと笑って答えた。
「わたしのようになりたくなければ、早く戻った方がいい」
「あなたは――」
エルフの輪郭がぶれる。もともと輪郭などあったのかと疑いたくなるほど、その存在は揺れて、溶けて、薄れて。でも濃密に、そこにある。
さっきから絶えず聞こえるさぁさぁというのが雨音だと気がついて、わたしはあたりを見回した。
なにもない。
だけど、すべてがある。静かに降りつづける、雨の檻の中に。
「――ここは、どこですか?」
答えたのはエルフではなく、ナクンバ様だった。
「世界の果て」
少し考えてから、わたしは問う。
「……蛇が眠っている?」
「そうだ」
「あまり騒がないように気をつけて。蛇が目覚めたら、世界は終わってしまうからね」
白金の髪が揺れ、波のように視界を覆う。エルフの顔が、なんとなく見える。哀しげな笑みをたたえたその顔は静謐そのものだったけど、眼差しはどこか子どものようだ。純真で、残酷――。
「あなたは、なぜここに?」
「自分のことは、気にならないの?」
質問に質問で返された。
「気にはなりますけど、おおかた、ジェレンス先生の移動魔法で存在が不安定になったせいで、その……線? がつながってる、この場所に落ちてきちゃった……みたいな感じかな? って」
「存在が不安定になる移動魔法って、どんな魔法? 興味があるな」
エルフに訊かれたけど、そんなの答えられるはずがない。
「当代最強の五属性魔法使いの、独自魔法……だと思います」
「高速移動? いや、違うな……ただの高速移動で、ここに来るはずがない。もっと存在の根幹にかかわる魔法だろう」
存在の根幹かぁ〜。
……いや待って、ジェレンス先生ってば、我々の存在の根幹をいじってたの? そりゃ移動のたびに気もち悪いはずだ!
「見てみたいな。君には使えない?」
「無理です! わたしは聖属性魔法が少し使えるだけなので」
「それと呪文だね」
静かに指摘されて、ああ、と思った。
それでなぜか、思いだした。
「こっちに来るなって、注意してたのは……あなた?」
眼差しが揺れ、はじけて光になる。声をあげることもできないわたしの前で、砕けたはずの像がふたたび結ばれる。風が描いたような、淡い影。
「ちっとも聞き入れてもらえていないようだ」
「あの……最近は、気をつけてました」
「今、ここにいるけどね」
エルフは微笑み、また消えた。それこそ、存在の根幹に不具合を抱えていそうだ。
「今回のは事故です」
「いつも事故なんだろう。狙ってやっているわけではないなら」
それもそうだ。呪文を唱えてぶっ倒れるのは、だいたい事故だ。
なんとなく……ぶっ倒れるたびに、ここに足を突っ込みかけていた気がする。だいたい忘れちゃうんだけど……そう、前にも来たことがあって、今まで忘れてたって感じがある。
「君に呪文を教えているのはエルフだね?」
「はい」
「それは誰?」
「あの……わたしがお願いしたんです。自分の属性以外の魔法が、使えるようになりたくて」
「だから責めないで、ということ?」
わたしがうなずくと、エルフもうなずき返した。
「大丈夫。名を訊いたのは、興味があるからだ。それに、わたしは現実に影響を及ぼすことはできないからね。責めたくても、どうにもならない。安心して教えてほしい」
「興味……ですか」
「そう。興味がね……過剰にあるんだ、わたしは。だから、こんなところまで来てしまった。ああ竜よ、君は彼女にしがみついておいた方がいいよ。幻獣の方が、ほどけやすいからね」
ほどけやすい……つまり、見えているようで見えていないようで見えているエルフみたいな存在になってしまう、ということだろうか。あわてて、わたしは腕を差し出した。
「ナクンバ様、巻きついててください」
「諾」
「うん、それでいい。……で、君に呪文を教えたのは誰?」
「……エルトゥルーデス」
さらっと名前が口をついて出てしまい、自分でびっくりした。
えっ、エルフ校長の名前なんて、ふだん意識してないし……ほぼ忘れてるくらいなのに。なにかの魔法でも使われたのかと疑いたくなるところだ。
それか、この場所自体が特殊なのか。想いと行為が直結する、みたいな。言葉が本質をあらわしてしまう、というか。
「エルトゥルーデス? あの子、今は人間と暮らしてるのか」
なんと、知り合いらしい。エルフは少し意外そうな顔をした。一瞬しか見えなかったから、よくわからないけど。
わたしを見て、エルフはまた笑顔を新たにする。
「彼はね、わたしの甥っ子だよ」
甥……甥? ってことは、このエルフは、もしかして。
「漂泊者ルールディーユス?」
緑の眼が、ぱちぱちとまばたく。
「人間なのに、わたしを知っているんだね」
「万物融解装置」
もはや、思いついたことが自動的に口から出ている状態だ。
「万象の杖のことまで、知っているの? エルトゥルーデスは、君をずいぶん信頼しているようだ」
正式名称ではなかったのに、ルールディーユスには伝わったらしい。さすが製作者。
「あなたは……世界の果てを目指したんですか?」
「そういうことになるね。最終的に、ここが世界の最大の謎だと思ってしまったから」
なるほど……。
さっきから興味って言葉を頻繁に口にしていたのも納得っていうか……謎があれば解き明かさずにはおれない性質なんだな。
「でも、ここは危険なんですよね?」
「留まるべき場所じゃないね。来てしまうと出ることは難しい。だから来ないように忠告していたんだ。わたしのようなエルフでさえ、そろそろ擦り切れて消えてしまいそうだしね。人の子のように短い人生と少ない記憶しか持ち合わせていなければ、そう長くは保たないだろう。もう帰った方がいい。帰りたいと心を向ければ、うまくいくよ。わたしも後押ししてあげよう。少しだけれどね」
そう告げるルールディーユスは、はじめに会ったときより少し輪郭がしっかりして来ている。わたしと喋るために、存在を呼び戻してるとか? なんか、そういう感じなのかも。
「あなたは? いっしょに帰りませんか?」
素直な気もちだったのに、ルールディーユスの落ち着いた表情が拭ったように消え、あざやかな緑の眼が大きくなった。ほんとうに、子どものようだ。
「望んでここにいるわたしの心配などしなくていいんだよ。外から君を呼んでいる線がたくさんある、意識を向ければ戻れるだろう」
さぁー、と雨の音が強まって。
世界の果てを覆う雨が、わたしを洗い、つらぬき、そして――。




