459 安心も信頼もできないって、ひどくない?
誰? という問いは宙に浮いてしまった。
なんていうか、その問い自体が不自然な感じ? みたいな……。答えられないんだけど、答えられないことがおかしいんじゃなくて、そんなことを問うのが間違い、みたいな……いやこれも意味不明だな。
あー、ぜんぜん説明できない!
「ルルベルよ、なにか思いだしたのか」
「思いだせないということを、思いだしました」
「ふむ?」
「誰かに警告された気がするんです……いえ、気がするんじゃなくて、確実に警告されたんですけど」
それが誰だったのか、わからない。いつ? どこで? それもわからない。
今日? ……今日だったかもしれないし、たぶんそうなんだけど……でも、今日だった! と断言するのも間違っている気がする。
そう、なにもかも間違って感じるのだ。
記憶ともいえないほど曖昧な記憶は、掴もうとしたところから砕けちぎれ、手の中で粉々になって消えてしまう。
わたしの想念は真実の周りをぐるぐる回るばかり。ぜんぜん近づけない。衛星の軌道みたいなものだ――遠くへも行けないんだけど、ふれることもできない。
「よくわからないんです」
「なるほど」
「聖女様、その誰かというのは……?」
「わからないの。さっきの、その……昼食の席の――」
わたしはナヴァト忍者を見た。
冬の空みたいなブルーグレーの眼は、まっすぐわたしを見返している。そこからは、なにも読み取れない。あの昼食の席で、ほんとはなにを感じていたのか。忘れろというエルフ校長の命令を、なにをもって正当と判じたのか。校長室を追い出された事情を、どう考えているのか。
ナヴァト忍者のこと、なにもわからない――わたしはまた少し、怖くなった。
エルフ校長を、舐めていたように。ナクンバ様を、邪険に扱っていたように。もしかして、ナヴァト忍者にも無自覚に甘えているんじゃないだろうか?
どこか後ろめたい気もちが湧き起こったせいか、つづく言葉は思ったより小声になってしまう。
「――校長先生が、無茶をしようとしたときに、たぶん」
「無茶を?」
ナヴァト忍者は少し困った顔をしている。いったいなにが無茶だったのかと、記憶をあたっているようだ。
そりゃそうか。
エルフ校長が無茶といえるほど強力な魔法を使おうとしたことは、わたし以外の誰にも認識されていないはず。だって、あちら側に行ってたんだもん。こちら側の人間には、観測不能だろう。
わたしは肘を曲げ、手首を目の前にかざした。ナクンバ様が、少し身じろぎする。
「魔法を使おうとしたんです。正確には、途中までは使ったの。……なんの魔法だったか、ナクンバ様にはわかりましたか?」
「わからんな。そも、あのエルフがいつ魔法を使った?」
「わたし、校長先生の魔法に割り込んだんです。ナクンバ様もいっしょに割り込んでませんでした?」
「なにも覚えがない」
ということは、腕にからみついていたナクンバ様も、卓を囲んでいたジェレンス先生やウィブル先生、そしてナヴァト忍者と同じ扱いか……。
よく考えてみたら、あんなヤバい状態になってると気づいていたら、ナクンバ様がなにもしないなんてことはないだろう。緊急事態と判断したなら、ビーム的なものでエルフ校長を焼き払ってでも脱出させようとするはずだ。
……ナクンバ様が気がつかなくて、よかったのかもしれない。
「聖女様……魔法に割り込むとは、どのような状況ですか?」
「あー。えっとね、うまく説明できるかどうか……ちょっとまとめてみるね」
呪文関連の話、あまりしてないからなぁ。だって、言語化するのが難しいんだもん……呪文自体は、言語に依拠する魔法なのに。
まず、呪文とはなにかを、わたしが理解してる範囲でかる〜く説明する。
エルフ語の呪文を唱えればそれでうまくいくものではない、という大前提。
ナクンバ様なんか、呪文の言葉まで一部は知ってるはずだけど、それで呪文が使えるかというと、使えない。ちょうどいいから確認してみたら、無理だという答えだった。
……使えないと踏んでたからこそ、エルフ校長はナクンバ様つきの特訓を受け入れてたんだろうな。
次に、エルフの魔法自体が呪文と非常に近しい形態なのではないか、という仮定。
根拠は当然、どちらもエルフ語を使っていること。そして、呪文を学んで以来、わたしもエルフ校長の魔法がなんとなく理解できるようになったこと。
で、今日だ。
エルフ校長は、魔法を使おうとした。忘れろという命令に強制力を持たせるためではないかと思う――と、説明した。時を戻して「なかったこと」にしようとしてた、とは明かせなかった。なんとなく、いえなかった。
ともかく。
そのことに、ナクンバ様も、ナヴァト忍者も気づかなかったし、たぶんジェレンス先生やウィブル先生もそうだろう。
なのに、わたしだけが気づいてしまった。
強い強制力を持つであろう魔法に反発し、それを止めようとしたことで、わたしは自覚なくエルフ校長の魔法に割り込んでしまい、結果、ものすごく体調が悪くなった。で、わたしの状態を案じたエルフ校長が魔法を途中で止めてくれて……そのあとは、ふたりも知っての通りの展開だったんだけど。
「魔法に割り込んだとき、校長先生がいったんです……『こちら側にいるのは、なぜです』って」
ナクンバ様もナヴァト忍者も無言だ。あ、これはキー・ワードに気づいてないなと思ったわたしは、さっきの会話を掘り返した。
「ナクンバ様、おっしゃったでしょう? たしか『我は半分、あちら側にいたようなもの』とか、そういう感じの」
「……ああ。そういうことか」
さすが、半分あちら側滞在経験者! 一発で通じた!
ナヴァト忍者はまだピンと来ないって顔をしてるけど……どう説明すればいいのかなぁ。
「呪文を使うって、世界を書き換えるというか……言い換える? みたいな作業なんだけど、そのために必要なのってエルフ語だけじゃないの。呪文を唱えるためには、今この現実にいたままじゃ駄目なんだよ、たぶん」
「今ここでないなら……あちら側、ということですか?」
「うん」
じわじわと、ナヴァト忍者の眼が大きくなる。
「つまり、その世界の果ての、影の蛇のような?」
「たぶんね。まったく同じ場所ではないだろうけど、似たようなところっていうか? 世界を書き換えるには、自分はその世界の外側にいる必要があると思うんだ。わたしが教わった程度の呪文なら、それこそ、自分が空を流れる雲になった気もちで〜……みたいな程度でも効果を発揮するんだと思うけど、校長先生が使おうとしてた魔法は、もっと強いのだったから」
それこそ、まったく別次元を立ち位置として行使するようなものだったのだ。
「教えた範疇を飛び越えて、わたしが干渉したから……校長先生も、すごくおどろいたんだと思う」
「体調が悪くなったとおっしゃいましたが、大丈夫ですか? 今はなんとも?」
「あ、うん。それはもう、平気。そのときは死ぬかと思ったけど」
なんともいえない沈黙が、ナクンバ様とナヴァト忍者のあいだに流れた。
……あっ、これは護衛を自認するかれらにはデリケートな話題だった! ごめん!
「でも、だから校長先生も途中でやめてくれたんだと思う」
「聖女様が、死にそうだったからですか」
「……いやほら、死にそうっていうのはね? おおげさな表現っていうか!」
ナヴァト忍者が重々しく告げた。
「二度と、そのようなことはなさらないでくださいね」
……なんで、わたしが叱られる流れ?
「大丈夫。わたしも懲りたもの。二度としたくないから、やるつもりはないよ。安心して!」
「安心も信頼もできませんが……阻止する方法も見当たりませんね。俺が呪文を学んでも、聖女様と同じようにできるとは思えませんし」
ちょっと? 安心も信頼もできないって、ひどくない?
「校長先生はもう教えてくれないと思う。呪文を教えたのが間違いだった、みたいな感じだったし」
「もともと、聖女様にしか教えないとおっしゃってましたし。とにかく対策を考えなければ……」
「だから、やらないってば」
大きく息を吐いて、ナヴァト忍者は一回、眼を閉じた。気もちを切り替えたらしい。
「……それで、警告されたというのは? 校長先生以外の誰かがその、あちら側? に、いたのですか」
「うーん……理屈で考えるとそうなるけど、姿を見たとも思えないし、声っていうのもこう……肉声じゃなくて、心の声? みたいな?」
自分でいっておいて、なんだそりゃって感じだけど。そうとしか説明できないのだ。
「誰でしょう?」
「影の蛇ではなかろうな」
ナクンバ様が、怖いことをいいだした! なにそれ、いや怖いけど面白そうだな……。
「影の蛇だったら、なんかすごいね!」
「すごいね、ではありませんよ聖女様……」




