445 まったくわからないことがわかったのである!
エルフ校長は、しぜんな立ち姿のまま――不意に、歌うように語りはじめた。
螺旋の奥に見ゆるは過去か、偽りか真実か
その声が響いた、まさにその瞬間。
世界が、ざっと音をたてて広がった。
なにいってんだと思われるかもしれないが、これ、いわゆるアレですよ。つまり「あ……ありのまま、今起こったことを話すぜ」ってやつだ。
世界が音をたてて広がった……としか形容しようがないんだよなぁ!
校長室に立っていたと思ったら、部屋が世界になっていた……というか?
なにをいってるか、わかってもらえないと思う。正直、わたしもわからん。なにが起きてるのか、サッパリわからん。
だけど、エルフ校長がいつも使っていた魔法って、やっぱり呪文の亜流というか近縁種? みたいなもので、今ならわたしにも多少はわかることがわかって、でも、わかるといってもまったくわからないことがわかったのである!
……意味わかんないよね! それが正常な反応だと思う!
だけど――。
そこには世界があった。校長室の中なのに、なぜか広くて。自由で。
エルフ校長の声に応えて風が起き、床が波打ち、家具だったものは自然の草木となり、陶器の蝶はカップの持ち手からひらひらと飛び立ち、椅子の背もたれに彫られていた鳥は翼をひろげて舞い上がり、書棚の縁に刻まれていた植物文様からは、ほんものの蔓がみるみるのびあがって葉を茂らせ、その陰には葡萄がたわわに実っていた。
柱の輪郭はほどけて波飛沫に、そちらへ目を向ければどこまでもつづく大海に日が照り映え、無限の冒険へと誘っている。のどかな雲が空を渡り、鳥がその前を過る――蒼穹の奥には永遠に広がる宇宙が、星々が眠っていることがわかる。
なぜか、胸が痛くなった。
焦がれてたまらないものが、そこにあるのに――それでも、ぜったい手が届かないってわかっているような。わかってるというか、そう決定づけられてるっていうか。知っていても、どうにもできない。……そういう苦しさだ。
エルフ校長の呪文はつづいているけど、もはや言葉が言葉として聞こえることはなかった。
それは世界そのもので、エルフ校長の願いはそのまま真実として受け入れられていた。
……そう。
世界と対峙する、世界と会話する、世界そのものを変えてしまう――今、目の前で起きているのは、そういうことだ。
呪文って……呪文って本来、こういうものなんだ!
雷に打たれたように、わたしはそう悟った。
気づいてしまった。
呪文やばい。これたぶん、本質的には無限の可能性があるやつだ!
自分でも使ったことあるだろといわれるだろうが、いやこれ違うんだって。端的にいって――わたしは呪文のポテンシャルをぜんぜん引き出せてなかったんだ……!
「ルルベル」
名を呼ばれて、我に返った。
エルフ校長の眸は静かで、世界がこれほどダイナミック且つドラスティックに変動していることなど、気にもとめていないようだった。
「ナヴァトが見えますか?」
「……見えます」
そう答えたときには、わたしの感覚する世界はもう――いつもの校長室に戻っていた。
べつに世界が縮んだとは感じなかったけど、ただ、元通りだ。違うのは――扉の脇に立っているナヴァト忍者の姿が、はっきり見えていることだけ。
視線が合っても、ナヴァト忍者は動揺しない。そういうとこがプロっぽいなと思う。わたしがナヴァト忍者の立場だったら、絶対に顔色が変わっちゃうよ。
だって、得意魔法が破られたんだよ。
「ナヴァト、魔法はかけたままですか?」
「はい」
声はたしかに、ナヴァト忍者が立っている場所から聞こえていた。
「わかりましたか、ルルベル。見顕しの呪文とは、こういうものです」
「わ……わかったというか……」
なにが起きたかわからねーんだわ! わからねーけど、ナヴァト忍者は見えてるわ!
「ナヴァト、魔法をかけ直してみてください」
「はい」
「移動はしなくていいですよ」
「はい」
たちまち、ナヴァト忍者の姿が……見えたままだった!
「このように、うまく使えば暫くは効果が持続します。ただ、永続性はありません。ものごとは変転するものですからね。ナヴァト、自由な場所に動いてみてください――魔法をかけ直しながら」
「はい」
ナヴァト忍者が歩きはじめる。
一歩、二歩。わたしの方へ近づいてるのに、なぜか輪郭が薄くなって。いや、輪郭だけじゃなく存在感というか、なにもかも曖昧に……あっ、消えた!
「見えなくなりましたね?」
「はい」
室内を見回しても、ナヴァト忍者の姿はない。はじめに消えたとき同様、どこにいるのか見当もつかなくなってしまった。
「僕もです」
「えっ」
エルフ校長なら、校長室で起きることはすべて掌握してるんじゃないかと思ってたんだけど……違うのか。
「もちろん、姿を消した誰かがいるとわかっていれば、対策はできます。見顕しの呪文を使うまでもありません。ですが、気づけなければ暴くこともできない――ナヴァトのこの魔法は、非常に強力です。しかも彼は身体能力が高い。魔法で見た目をごまかすだけでなく、身体をうまく使うことで魔法の効果をさらに上げています」
「それは……ほんとうに。わたしも感心してます」
「ナヴァトの魔法は、実に完成度が高い。長年生きていますが、僕もここまで使いこなしている魔法使いを見たことがありません。ナヴァト、君はそれを誇りに思っていい――もう姿をあらわしていいですよ」
「はい」
ふたたび出現したナヴァト忍者は、さっきと同じ場所にいた。
ちょっと頬が紅潮しているのは無理もないだろう。だって長命種のエルフ校長をして「見たことがない」といわしめたんだもの。
「すごいね、ナヴァト」
「過分なお言葉をいただき、光栄です」
「最高峰と評価していいでしょう――ですが、見顕しの呪文はそれさえ暴く」
話が戻った!
ナヴァト忍者にちょっと申しわけないな……上げて上げて、落としちゃった感じで。
……ところが、である。
「素晴らしいです」
これ、わたしの反応じゃないからね? ナヴァト忍者だから!
なぜか眼をきらっきらさせて、すごい興奮してる。
「す……素晴らしいかな?」
「素晴らしいです。聖女様がこの呪文を自在に使えるようになりさえすれば、警護が飛躍的に楽になります」
あー……。そりゃそうか。
悪意ある第三者の仕掛けとかそういうの、なんでも見顕しちゃうんだろうしなぁ。エルフ校長に最高峰と評価されたナヴァト忍者の魔法でさえ貫通するんだから。
「この呪文であれば、魔王の眷属がどこに潜んでいるかもわかります。ルルベルの魔力量では、あまり広範囲にはできないでしょうが、たとえば吸血鬼が潜伏しているとして、地域の絞り込みに使うこともできます」
「質問してもいいでしょうか?」
エルフ校長の説明に反応したのもナヴァト忍者である。えっ、すごい積極的!
「どうぞ」
「ありがとうございます。これは魔王復活の場所を見顕すといった用途には使えますか?」
「難しいですね……単体では、否です。ほかの呪文と組み合わせれば、未来予知にも使えます」
おおお……。
えっ、ますますヤバない? 呪文ヤバない?
「それは、聖女様の魔力量でも可能でしょうか?」
「範囲の問題になりますね。予知でいえば、非常に近い未来に限られます。僕の読みでは、最大でも一日以内。場所を絞ればもう少し伸びるかもしれませんが、それでも難しいでしょうね」
少し考えてから、エルフ校長はにっこりして言葉をつづけた。
「前提として、複数の呪文を覚える必要がありますし、まずは見顕しの呪文からですね」
デスヨネー。
「聖女様、頑張ってください」
ナヴァト忍者からも、アツい励ましを受ける。
デスヨネー……。護衛対象がみずから罠を暴いてくれたら、そりゃ助かるでしょうよ。
わたしだって、助けてあげたいとは思う。
「うん、頑張るね」
「では俺は外へ」
「そうですね。ルルベル、つづきをやりましょうか」
「はい」
やる気はある!
……と、思うんだけども。
結局、その日も見顕しの呪文は、完成するどころか……一歩前進って感覚を掴めることさえなかったのである。
なんでぇー……。




