385 違和感が過労死しそうなレベルで仕事してる
呪文を唱えていると、世界との境界が曖昧になる。
わたしは世界で、世界はわたし。
そうなるからこそ、世界に干渉することが可能になるんだろう――でも、だから逆に、その場の影響も強く受けることになる。
だって、わたしは世界で世界はわたしだから。
魔王の眷属が大量にいる場所で呪文を唱えるって、うまくいえないけど――わたしが一体化する世界にかれらも組み込まれているって感じ? だから、わたしが魔王の眷属を包み込み、あるいは魔王の眷属がわたしの中に入り込む状態。
それがもう。……それがもう!
耐えがたい気もち悪さ。違和感が過労死しそうなレベルで仕事してるっていうか。
なるほど、と頭の片隅で思う――たしかに、聖属性と魔王の眷属は相容れない。いやほんと無理。
ふるふる 慈雨のごとく
ふるふる 粉雪のごとく
わたしの声が世界を拡張し、どこまでも、どこまでも広がっていく。
それこそ空のように。雲のように。風のように。
聖属性の魔力が呪文と一体化し、黒々とした闇の気配を押し戻す。でも、穢れも負けてはいない。ぐいぐいと、わたしの力を押し戻してくる。
ふるふる 其は日差しに似て
ふるふる 其は命の流れへと
唱えている言葉の意味がわからなくなって、音になり、こぼれていく。
世界を受け止めきれていない。呪文が効果を発揮できない。
わたしは呪文の先に進まず、くり返すことを選ぶ。同じフレーズを、リピート。しっかりと、丁寧に。
ふるふる 慈雨のごとく
ふるふる 粉雪のごとく
豪雨や吹雪では駄目ですよ、とエルフ校長には指導された。
それは地上にあるものを痛めつけるのではなく、やさしく潤すものでなければならない。世界がしんと静まり返って、すべての音を包み込むのを想像するのだ。ただひたすらに――やわらかに。
わたしの言葉が、呪文が、世界が。魔王の眷属の視点を、価値観を、侵食していく。
それは静かな戦いだ。互いの力がぶつかりあい、それでも着実に――リートたちが植えた樹に届く。
種子は事前にエルフ校長の手で「あるべき姿」を埋め込まれている。だから、たちまち成長するのだ。わたしの呪文に応えて、癒しの力を学びながら。
生属性魔法使いたちが、聖属性の魔力玉で育てた樹々に――届け。
届け。
……届け!
魔王の眷属との力の押し合いは、しばらく釣り合ってしまって一進一退、どちらに転んでもおかしくない雰囲気だったけど。
でも、わたしたちは完全にかれらを囲んでいた。魔将軍が率いる眷属たちは、樹々に包囲されて逃げ場もなく。しかも、地上と空にも挟まれて。
一旦、聖属性に天秤が傾けば、あとは一気に進んだ。
そうなってしまえばもう、わたしがやることなんてない。ただ世界を揺蕩う感覚に身をゆだねるだけだ。
世界は……なんて美しいんだろう。
――やあ、また君か。
すべてが虹のプリズムの中にあって、分裂して、万華鏡みたいにどこまでも無限につづいて、その光の奥から。
――気をつけて。ほら。
最後の「ら」のところでグッと背中を押される感覚がして、わたしは手近なものにしがみついた――って。
……あれ?
「いかがした、聖なる乙女よ」
わたしはまだ、ナクンバ様の背中の上だった。
……正直、完全にトリップしてたというか、意識がなかったよね! あっ……ぶねぇぇ! こっぇぇえ! うわぁぁぁ!
「し、し……正気に戻りましたっ!」
「そのようだ」
「わたし、どれくらい意識を失ってました?」
「さほどでもない」
どれくらいだよ! っていっても、まぁ……わからんだろうな。ここに時計があるわけじゃないし。ナクンバ様だって、時計なんて概念はご存じないか、知っててもあんまり興味ないだろう。
「……とにかく、戻れてよかった」
なんとなくのつぶやきに、ナクンバ様が大きく息を吐いた。
「まことにな。かつても思ったものだが、呪文とは、人の子には強過ぎる力ではないか」
「……」
「だが娘よ、そなたの詠唱は善きものであるぞ」
「ルルベルです。わたしにも名前があるんですよ、ナクンバ様」
そろそろ、娘呼ばわりは遠慮していただこうか!
「ではルルベル。呪文はもう不要であろう。次は、どこへ連れて行けばよい?」
「あ、えーっと……それは……」
どうしよう。どうせジェレンス先生あたりが迎えに来ると思って、なにも考えてなかったよ。
そもそも、今の状況がもうまったく事前の想定外だからな! 想・定・外!
「リートがどこにいるか、わかりますか? ええと……」
「先に降りた者か。わかるぞ」
「では、そこへ連れて行ってください」
ナヴァト忍者は、ナクンバ様と会ってないから指定しづらいし、ジェレンス先生は瞬間移動して居場所がブレそうだし。ここはリート一択だろう。
それにしても、ナヴァト忍者は先行損じゃない? いざとなったらわたしを別の場所に逃すためとかいわれてたけど……実際には地上と空中に別れちゃって、巡り合う可能性すらなくなったもんな!
もうリートと合流してるかなぁ……。
なんて、呑気なことを考えていたわけだが――ジェレンス先生が迎えに来ない時点で、察するべきだったよね――戦闘は、まだ終わっていなかったのである。
「う……わ」
ナクンバ様が高度を下げるとともに、戦場のようすが見えてきた。
癒しの樹は仕事してた……仕事してたけど、それはやっぱり飛竜の生息地に育ったような大樹じゃなくて。ひょろひょろっと、たよりない感じの木立でしかなかった。
その木立に向けて、一点突破を狙ってか魔物の群れが攻撃をかけている――もちろん、人間側も応戦しているわけで、そこは激戦区となっていたのだ。
はじめて見る、魔物の群れ。それは、なんだか理不尽なものに見えた。わたしが知っている生き物に似ている形もあるけど、どこかが歪んでいて、なにかが不自然だ。見ていると、頭がくらくらしてくる。
皆は、こんな相手と戦っているのか。
……ナクンバ様がここに向かったということは、この激戦区にリートがいるということだ。
「どうしよう……もう一回、呪文を――」
「やめておけ」
ぴしゃり、と。そう表現したくなる勢いで、ナクンバ様に否定された。
「――でも!」
「いうたであろう。人には過ぎた力だと。今日はもうやめておけ。どうせ効果などない」
「なにかあるかもしれないじゃないですか」
反駁しながら、ナクンバ様が正しいって思った。
トリップの危険もだけど、魔力量にも問題がある――さっき、念を押すようにくり返しまくったせいで、前回よりずっと魔力を使ってしまったのだ。魔力切れまではいってないけど、けっこうカツカツだという自覚はある。
「今日は無理だ」
「でも、わたしにできることが、なにかあるはずです」
「我に命じればよい」
「え?」
「焼き払えとでも」
一瞬、考えた。考えてよかった。
「味方ごと、焼けてしまうじゃないですか」
「それは困るか?」
「困るに決まってます!」
あぶない。ナクンバ様の意識、ちょっとヤバい。人間だからといって守らねばとか思ってない!
「では、退避を呼びかければよい」
「そう都合よく味方だけ逃げられませんよ……」
そのとき、魔物がわたしたちに――というか、たぶんナクンバ様に気がついた。
ギヒャ、ギヒャ! という変な鳴き声。それが警戒音みたいなものだったのだろうか。戦場にいる魔物の多くが、ぐりっと目玉を上に向けたのである。
視線を浴びたとたん、全身が総毛立った。ぶわぁ! って音がしそうな勢いだ。




