338 世界はもうわたしを受け入れてくれません
はじめての、まともに発動したかもしれない呪文体験……は、強烈だった。
「ルルベル」
名前を呼ばれて気がつくと、エルフ校長が目の前にいた。というか、跪いていた。
わたしの両手をとって――エルフ校長の輪郭がぶれて、心がまた世界に開かれていく。
「ルルベル」
両手をぎゅっと握られる感覚。わたしの名前が耳の中でこだまする。何回も、何回も――ルルベル、ルルベル、ルルベル。
「……ああ」
自分の声が聞こえて混乱した。声をあげたつもりがなかったから。
「ルルベル、世界に挨拶はできましたか?」
エルフ校長の輪郭は、相変わらずぶれている。なんだかこう……緑に金のラメが散ったような……。わたしは握られた手に視線を落とす。そして、気がつく。
「魔力覆いが……」
「無意識にできていますよ。見えますか?」
「はい」
自分の手のまわりに、半透明のなにかが見える。いや、なにかじゃない――これは、魔力だ。聖属性の魔力。
魔力を感じてる! 何日ぶりだろう。自分の中を魔力が巡っているのもわかる。まだ枯渇にはほど遠いことも。
「予想より、深く発動しましたね」
「深く……?」
「もっと表面を撫でる程度かと考えていました。発音は、まだ完璧とはいえないので。ですが、呪文は十全に力を発揮したようです。いえ、それ以上ですね」
エルフ校長は、わたしの顔を覗き込む。なんて綺麗な眼なんだろう。今まで、わたしはエルフ校長のなにを見てきたんだ? そんな風に思う。呆然とするほどの美しさだ。まるで世界の本質。
なぜか、わたしは感じた――わかった、と。
エルフがどうして世界と会話できるのか、人間はなぜ同じようにできないのか。
理屈はわからないけど、見ただけで悟った。エルフは違う存在なのだ。なんとなく人間に似た姿をしてはいるけど、かれらはもっと……なんだろう? とにかく、違う。
「校長先生……どうしましょう」
「どうもしなくて大丈夫です。うまくいったんですよ、ルルベル」
「でも――消えていきます」
そうなのだ。さっきまで見えていた、エルフ校長を覆うキラキラのオーラみたいな魔力や、自分を覆う魔力。みんな、見えなくなってしまう。
それどころか、世界のすべてが自分から遠ざかっているように感じられる。
わたしは、自分が訴えているのに気づく――遠くから眺めてるみたいに。
「先生、世界はもうわたしを受け入れてくれません」
「そんなことはありませんよ」
「だって……なにも感じられません!」
すべて、消えてしまった。ごく短時間の覚醒みたいな体験は、完全に消失した。
今のわたしはもう魔法使いではない。世界の真理を知る者でもない。ただの、下町のパン屋の看板娘だ。
圧倒的な喪失感に襲われて、わたしは泣きたくなった。いや、もう泣いていた。
「大丈夫です、落ち着いて」
エルフ校長は、そっとわたしの頭を撫でた。そして、頬に流れる涙を指で拭ってくれた。
自由になった自分の手を見下ろして、わたしは思う――この手は、世界の秘密にふれていたのだ。
そのときにはもう、ずいぶん落ち着いていた。たぶん。少なくとも自分がおかしくなっていることは自覚できていたから、一歩前進だ。
「呪文って……毎回、こんな風になるんですか?」
「人間で、君ほど深く世界に入り込める魔法使いは滅多にいません。適性があるだろうとは思っていましたが、僕の予想を凌駕しましたね。これは滅多にないことですよ。エルフの読みを上回るなんてね」
「適性、ですか」
エルフ校長はうなずくと、わたしの眼を見て尋ねた。
「もう大丈夫ですね?」
「はい、たぶん」
「お茶のおかわりを淹れましょうか。喉も乾いたでしょう」
エルフ校長が席を立った段階で、ようやく。
はっ……ずか死ぬぅぅ!
いやちょっと待って。わたしなんで泣いてんの? えっ、今なにがあったの? すでにわけがわからないんだが……練習の締めくくりに呪文を通しで唱えてみただけだよね?
なにが起きたの。
たしかに魔力感知はちょっと戻ってきたが、それだけじゃなかったぞ……というか、そっちはもはやオマケ要素って感じで、メインはこう……世界?
うまく説明できないけど、世界とつながってたというか、受け入れられて、こう……幸せだったんだ、一瞬。自分を忘れるくらいの多幸感。
そのつながりが消えたときには絶望したし、あまりにも不幸だと思った。
今も少し、その感覚がある……。勘弁してほしい。
「落ち着いたようですね」
戻って来たエルフ校長が手渡してくれたカップは大きめで、いつものエルフ的備品とは少しデザインが違っていた。厚手の、ぽってりしたシルエット……癒されるけど、エルフの里製品ではなさそうだなぁ。なんか珍しいな。
「ご迷惑をおかけしました」
「迷惑? なにも迷惑ではありませんよ。むしろ、僕の教えをこんなにも吸収して、まっすぐ自分のものにしてくれたことに感動しています」
「いや……ははは」
なんとなく笑ってしまった。ほかに、どうしようもなかったのだ。
幸い、涙はもう引っ込んでいる。落ち着いたといえば、そうなのかも。
「どうでしたか、呪文を唱えた気分は」
「すごかったです。その……世界と一体になれたような感覚でした」
「訓練をはじめて間もないのに、その領域に至れるとは。素晴らしい」
「でも、今は……なんのつながりもありません。わたしは、すごく……なんだかこう、孤独で。寂しいです」
……あぁぁああー! 口にしてしまった! 恥ずかしいよぉ……ああもう。
でも、実際そうなの! とにかく寂しい。むっちゃ寂しいし、見捨てられた気分がする。誰に見捨てられたって、世界にだよね……。
「君の表現を借りるなら、エルフとは、常時、世界と一体になっている存在なのでしょう」
「それがエルフなんですね」
なんとなく、わかる気がする。さっきの体験があるから。
そりゃ、エルフ校長は会話できて、わたしは定型文の挨拶で精一杯だわ……って納得しちゃったよね。
「そうですね。それがエルフです」
「じゃあ、校長先生は世界と語り合っても寂しくなったりはしないんですね」
「ええ。これから君は、この現象に慣れていくことになります。もし呪文を使いつづける気があるなら、ですが」
「慣れる……」
そりゃね、人間ってなんにでも慣れるもんだなってことは理解してるよ。でもなぁ……。
慣れるってことは、何回もくり返すってことだ。さっきのアレって、何回くらいリピートすれば慣れるものなの? ぜんっぜん、慣れそうな気がしないんだけど?
「でないと危険ですからね」
「危険、なんですか?」
「複数の意味合いがあります。まず、呪文の先にある世界に魅了され、常時発動しようとする危険性」
あー……。それはヤバいな。ヤバい。
その気もち、わかるわ! と思っちゃったあたりがもうヤバい。
「そうなると、用もないのに呪文を唱えつづけたりとか……そういう感じですか?」
「ええ。そして、そういった術者を世界が受け入れることはありません」
依存症なのに、依存対象に蹴り飛ばされる感じか。禁断症状すごそう!
「気をつけます……どうすればいいんですか?」
「必要ないときは呪文を唱えないようにするだけです。当面、呪文を使うのは僕が同席しているときに限定してください。いいですね?」
「はい」
「次に危険なのは、戻って来られなくなることです」
「戻って……? それは、まさか……さっきの状態から?」
ある意味、至福だけどな!
「その通りです。この場合は、人間として存在をつづけるのが困難になります」
「はい?」
「肉体の維持が難しいですから。わかりやすいところでは飲食ができなくなり、周囲がそれをおぎなっても身体機能は低下しつづけ、やがて崩壊します」
こわ……。
「校長先生……呪文って、ひょっとしてすごく怖くないです?」
「そうでもないですよ」
エルフ感覚でいってないか? エルフにとっては日常でも、人類には危険過ぎるのでは?
「わたしは怖くなってきたんですが」
「大丈夫です。ここまでの問題は、慣れれば解決します。もうひとつは、慣れても問題が解決しない部分です」




