335 隣家の庭で昨日落ちた花の香りを知るような
エルフ校長曰く、わたしの問題点はむしろ容易に他者に心を傾け過ぎるところにあるそうだ。
つまり……自我がそんなに強烈じゃない。
「ジェレンスなどは、わかりやすいのですが……自分に絶大な自信がありますね? 世界を動かす主体となることを疑わない。それどころか、確信している」
「はぁ……」
なにしろ、油断のかたまり人間だもんな。世界と勝負することになったとしても、勝利する予定しかなさそうだ。
「あれが、優秀な魔法使いに必要な我の強さです」
「なるほど」
だからアレか。ウィブル先生がいうように、魔法使いって対人関係の構築が残念なタイプが多い、みたいな……そういうことになるのか!
「ルルベル……だから、実は呪文こそが君にもっとも向いた魔法なのかもしれないのです」
「そうなんですか?」
「魔法は、はじめから終わりまで使い手が制御する必要がある。意志が揺れることは、許されません。だからこそ、自我の強さが必須条件となります。ですが、呪文であれば『なにをどうするか』はすでに言葉の力で決定済みです。きちんと唱えきればいい。世界との境界を溶かし、言葉が世界に、世界が言葉に同一化する必要があるだけなのです」
……それを「だけ」と表現するのは、ちょっと無理があるのでは?
「校長先生、わたしにそれができるとお思いですか?」
「できますよ。実際、もう踏み込んでいますからね。その領域に」
マジか。知らなかったよ……。
「それなら、頑張ります」
「いいでしょう。では、前回のつづきから練習します。次になにを学びたいかは、ちゃんと考えるように」
「はい!」
と、いうわけで。わたしは月を隠す雲になったり、極寒の湖を覆う氷になったりした。霜柱になって氷土を持ち上げ、風となって梢を吹き抜け、数えきれないほどの雨粒となって大地を潤したりもした。
……自分では、ちゃんとできてるのかどうなのかサッパリ実感がないのだけど、エルフ校長が褒めてくれるので……できてるんだろう、きっと。ある程度は。
「呪文は世界を歌う言葉です。いいですか、世界は音楽です。その中で、我々生き物に理解と関与が可能な部分が、歌です。背景に響く大きなうねり、天体の運行が奏でる音楽を、我々が揺るがすことはできません。それでも、その音楽に歌をかさね、世界に少しの変化をもたらすことは可能なのです」
お茶とお菓子で休憩しているときに、エルフ校長はそんな説明もしてくれた。
ふと思いついて、訊いてみる。
「あの、校長先生が魔法を使われるとき、こう……歌をうたうみたいな感じのことをなさるのも、実は呪文なんですか?」
「一種の呪文といっても間違いではないでしょう。君に教えているのは、定型の呪文です。そうですね――挨拶のようなものですよ。朝なら、おはよう。別れるときは、さようなら。挨拶は場面によって決まっているでしょう?」
「はい」
「挨拶をしてもしなくても、無から有が生じたり、あるいはその逆が起きたりもしません。それでも、挨拶をすることで互いの顔や声を覚え、好感を抱き、ゆっくりと絆を育てていくことはできます。人類があやつり得る原初の言葉とは、そういったものです。呪文を詠唱することで、君は世界に挨拶をしているのです。挨拶が世界に届き、世界が君に挨拶を返してくれれば――そのとき、無から有が生じるのです」
ずいぶん長くて煩雑な挨拶だなぁと思いながら聞いてたけど、なるほど。あんまりカジュアルに無から有が生じちゃったら、困るもんな。
エルフ校長の説明はつづく。興が乗ったらしい。
「呪文の限界は、定型文であることでおのずと決まっています。なにがどうなるかは、変えられません。僕が使っているのは、もっと即興性のある魔法ですよ。挨拶から一歩踏み込んで、会話がはじまっていると考えてください」
「じゃあ、このまま呪文の……ええと、原初の言語の発音がうまくなったら、わたしも校長先生のようにできるんでしょうか」
わりと順当な質問だったと思うのだけど、エルフ校長は難しい顔をした。
紅茶の湯気まで絶妙な特殊効果に見えるから、超絶美形ってすごいな……と、質問とはなんの関係もないことを考えていたところ。
「残念ですが、それは無理でしょう」
おっと。無理だそうだ! でも、疑問なので訊いちゃう。
「なぜですか?」
「エルフと人間の差というものです。エルフは、原初の言語と親和性が高い。ですから、自在に扱い得ます。人間は、そうではないのですよ」
「……というと?」
「人間は、原初の言語で規定される側、つまり言語の内側ですから。どんなにうまく発音したとしても、我々エルフのようにはできません」
「言語の内側……」
「あまり難しく考えることはありませんよ。ただ、同じようにするのは無理とだけ覚えてください」
自分でいうのもなんだけど、わたしに甘いエルフ校長が……ここまで断言するということは。絶望的ってことだな……。
「わかりました。そもそも、今練習してるのをしっかり実行するところから、ですね」
「そうですね。呪文を完璧に発音して、効果を発現させる。それが、第一歩です。ところで、次に学びたい呪文は決まりましたか?」
「どんな呪文があるのかわからないので難しいんですけど……わたし、治癒とか治療みたいなことができれば嬉しいです。誰かが苦しんでいるときにできることがないと、無力感を覚えそうですから」
「なるほど。そうですね、戦うよりは向いていそうですが……」
エルフ校長は、また難しい顔をした。
「向いていても駄目な理由が?」
「駄目ではありませんよ。わかりました、その方向で考えましょう」
……いやなんか、この反応微妙じゃない?
同じことをいうようだけど、エルフ校長って、わたしに甘いのである。だから、ちょっと無理めなことでも、わたしが望めば頑張ってくれちゃいそうというか?
で、今回のケースでは、頑張るのはわたし自身になるんじゃないの?
「大丈夫ですか? ……そうだ、校長先生のお勧めの呪文があれば、それを教えていただくとか」
「いいえ。みずから望んだものを優先すべきです。君は我を通すことを学ぶ必要がありますからね、ルルベル」
という感じで、話はそこに戻ってしまった。
まぁいいや。どっちみち、治療関連はできたらいいなと思ってたんだ。なにかあったとき、いちいちウィブル先生のところに駆け込んだり、駆け込ませたりするの、気になってたし。
できるようになるといいなぁ!
休憩のあとも訓練は順調に進んでて、エルフ校長曰く、もう八割は成功したも同然だそうだ。
「じゃあ、通して唱えたら一瞬、魔力感知が戻るとか……あり得ます?」
「一瞬戻るというより、ごく淡く感知が可能になると考えてください。つまり、隣家の庭で昨日落ちた花の香りを知るような」
これは昔話にまつわる慣用句。雑にいうと、そんなこと知ってるわけある? みたいな意味で使う。
……さらに雑に日本語変換すると、一キロ先で針が落ちた音が聞こえる的な? これなんの設定だっけ……なんか特撮かアニメのヒーローの設定だった気がするけど、なんだっけなぁ。
それでも、ちょっと面白そうだったので。
「通して唱えてみていいですか?」
エルフ校長の訓練では、通して読まなくなっているのだ。なんでかというと、魔力切れが生じやすいから。そして、本人にはわからないまま急に倒れかねないから、である。
……不便!
「もちろんです。では、今日の訓練の締めくくりは、それにしましょう。魔力は――まだ大丈夫ですね?」
「はい! 今日は疲れた感じがしません」
昼にあんな事件があったとはいえ、わたしは魔法を使ったわけではないし。ジェレンス先生の無茶な移動のせいで、気もち悪くはなったけど……今はもう平気である。
その後の訓練でも、疲労感はない。
「君の原初の言語の発音が正確になってきているからです。魔力が無駄に漏出せずに済んでいるのでしょう。喜ばしいことです」
「上達してるなら、嬉しいです。……では、詠唱してみますね」
便箋一枚使うだけあって、呪文はけっこうな長さである。
暗記しろといわれたら嫌だなぁと思うレベルだけど、毎日読み上げてたから、さすがに覚えてきた。それでも紙に書いたものがないと不安だし、その紙に書いてあるのも古代エルヴァン文字だから、まぁ……いろいろ不安は残る。
だけど、思った以上にすらすら読めて――気がつくと、なんだか視界が揺れていた。
視覚だけじゃない。聴覚もおかしい。それこそ一キロ先で針が落ちる音だって聞こえそうな、全能感がある。
壁の向こうだって見通せそう。校長室まわりの無人の廊下、寒々とした木々の枝、高空を過る猛禽の羽の一本一本、その翼が孕む気流が運ぶ冬の匂い――。
そのとき、わたしは理解した。
これが呪文を唱えるということなんだ。




