334 君はどんな呪文を覚えたいですか?
一触即発って感じの先生たちのあいだに、わたしは素早く割り込んだ。
虚無体験の直後なので、少し気もち悪いというのに……生徒に気配りさせやがって、この教職どもめ!
「校長先生、大変です」
「どうしました、ルルベル」
「ハル様に遭遇しました」
エルフ校長の眉が、ぐぐっと持ち上がった。……こんなに上がるんだな。
「彼女は……君が誰かわかったのですか?」
「いえ。お若かったです。それはどうでもいいんですけど」
「どうでもよくはありませんよ。知遇を得た相手の前にハルが姿をあらわすということは――」
そこでエルフ校長は言葉を切った。ジェレンス先生をなんともいえない表情で眺めてから、わたしに視線を戻す。
「――ハルは、名告ったのですか?」
「ええと、はい。それより先生、ハル様がおっしゃるには、えーっと……ジェレンス先生の伯母様のご領地のあたりで、今後どうも……その……はっきりとはおっしゃらなかったんですけど」
……あれっ?
思い返してみると、ハルちゃん様は魔王出現を匂わせただけだ。はっきりしたことは、なにもいってない。
わたしはジェレンス先生をちらっと見た。
なんか不機嫌そうにエルフ校長を睨んでいる先生は、わたしの視線には気づいていないにもかかわらず、みずから口を開いた。話を早く進めたかったらしい。
「この先、大変なことになると予言されましたよ。俺たちの属性も、すぐに看破してました。また『あれ』と戦うのは嫌だそうです。俺には、大いに頑張れ、と。ルルベルには、頑張らなくていいから生き延びろ、といって消えました」
「そこにいたのがなぜか、訊きましたか?」
「隠遁するための場所を探している、と」
「……ハルだ……ほんものだ」
エルフ校長の鑑定結果が出た。ていうか、真贋鑑定が必要な話なの?
「俺の理解するところでは、魔王復活、あるいは非常に強力な眷属の出現を、彼女は予見したようです。校長はどう思います?」
「そうですね。そう……先日会ったときは、なにもいってませんでしたが」
「ふだん、こういう話はしない――と、前置きしてましたからね。校長と会ったときは、ふだん、ってやつだったんでしょう」
「僕が『ふだん』で君が特別だなど……」
エルフ校長が、不快げに顔を歪めた。あー、ハルちゃん様にはけっこう思い入れあるっぽいから……。
でも、ジェレンス先生は気にすることもなく。
「時宜を得ていた、ってことじゃないですか? 魔王関係でまずいことが起きそうな場所で、たまたま、聖属性魔法使いに遭遇したら――そりゃ、話しておいた方がいいって判断するでしょう」
「それは、そうかもしれませんが」
「その近々っていうのがいつか、このへんっていうのがどれくらいの範囲なのか、具体的なことは不明です。……で、校長は彼女を知ってるんですね?」
「……ええ。彼女のことは、よく知っています」
一拍置いてから答えたエルフ校長の表情は、なんともいえない微妙なものだった。
自分が会いたかったのか、まだ特別ってのを引っ張ってるのか、あるいは――ハルちゃん様を表舞台に引きずり出してしまいかねない展開を恐れているのかも。
ジェレンス先生は、そんなエルフ校長の様子は一顧だにせず。
「では、予見が実現すると想定して行動します。校長は、こいつに呪文を叩き込んでください。明日から、ふつうの勉強は後回しです」
エルフ校長は、途方に暮れたようにわたしを見た。
今のところ……口止めされてたのに話しちゃった件については不問に処してくれているようだが……機嫌をとっておくに越したことはない。全力の看板娘スマイル召喚!
「よろしくお願いします! 魔力感知を、一日でも早く取り戻すために!」
「それはもちろん……でもジェレンスが意図してるのは、それ以上の話では?」
「可能であれば。こいつに使えそうな呪文があったら、教えてやってください。手札は多い方が望ましい」
「しかし……ルルベルを危険な場所に連れて行くわけには」
予想通り、エルフ校長は難色を示している。
まぁそうよね……より多くの呪文を使えるようにするってことは、わたしも役に立とうとするってことだもんね。
「そこは、本人と話し合ってください。俺も止めたんですが、本人がやる気に満ちあふれてるのでね。だったら、できることがある方がいいでしょう」
「……わかりました。で、君は?」
「情報共有を許していただけるのであれば、領主に話しに行きます」
その発想はなかったけど、いわれてみれば必要だよね。領主はジェレンス先生の伯母さんだし、なんかすごい魔法使いだっていうし。
エルフ校長は少し考えてから、うなずいた。
「いいでしょう。ハルが君たちに話をしたなら、事態はかなり切迫しています。出現するのが魔王なのか、あるいは高位の眷属なのかはわかりませんが、〈真紅〉に話しておかないという選択肢はありません」
「ルルベルがいうには、ハルという人物は自分の正体を隠したいと考えているそうですが。彼女については、どのように説明すれば?」
ジェレンス先生の問いに、エルフ校長はため息をついて答えた。
「時空属性の魔法使いが予言したとだけ。僕の知人で実力は保証できる――そういえば、納得してもらえるでしょう。〈真紅〉が納得しなかったとしても、それ以上の説明は必要ありません。……君はどこまで知っているのですか?」
「校長を『ルル』と呼ぶ程度には親しくて、魔王の相手を『また』したくないと考えるってことは、前回は肩を並べて戦ったんだな……って程度には」
……おお。
ジェレンス先生、お見事! わたしが説明しなくても状況証拠でだいたいここまでわかる、というラインで開示した!
「わかりました。それも話す必要はありません」
「了解です。では行って来ます。ついでに、なんらかの異常が生じていないかも聞き込んできます」
「それがいいでしょう。気をつけて」
「戻るまでに、学内のどこからどこまでにどう知らせるかってことを決めておいてください。では」
ヒュッ! と、空気が吸い込まれるような音がした。
……あーそういうこと? ジェレンス先生の瞬間移動で虚無が生じたから……そこに空気が勢いよく流れこんで、こういう、この……なんか変な音が出たってことだよな。
となると、瞬間移動って隠密行動には向かないのかな、実は。それとも、気をつければ音無しでできるのかな……。
「……ルルベル」
「はい」
「ハルは元気そうでしたか?」
「それはもう。お若いせいか、言動もなんかこう……勇ましい感じでしたよ」
なつかしいですね、と。エルフ校長はつぶやいて。
それから、わたしの手をとった。
「はじめに聞いておきます。君はどんな呪文を覚えたいですか?」
「えっ?」
「魔力感知を取り戻すための呪文は、もうじき完成します。ですので、僕は『次』を踏まえて練習を進めたいのです」
「はぁ……なにか関係あるんですか?」
「ありますよ」
エルフ校長は、厳粛な表情でうなずいた。
そうなのか……あるのか……どういうことだろう。共通の発音がある呪文を優先するとか?
「呪文においては、言葉に没入する感覚が重要なのです。呪文とは、言葉を通じて世界を動かす手法ですからね。効率よく次の呪文を学ぶには、君の心の枠が、そちらの方向にはずれるように誘導する必要があります」
「心の枠、ですか?」
「原初の言語では『エリセクト』といいますが、人間の言語にはこれを表現する単語がありません。ですので、君にわかりやすく説明すると――」
「心の枠?」
「――そういうことです。僕が呪文の発音のために要求したのは、君が人間の――ルルベルという女の子であるという固定観念を、捨てるとまではいわずとも、中心をずらして『別のものになる』のを学ぶことでした」
ぽかん事案である。
エーディリア様に見られたらお叱りを受けるに違いないが、開いた口がふさがらないとはこのことだ。人間以外になりなさいの連発って、そういう訓練だったの……?
「あるいは『自我を捨てる』といえばいいでしょうか。ただ、魔法使いにとっては強烈な自我もまた必要なものです。忘我の域が長くつづくと、制御を失います。意識は強くせねばならず、同時に固定されてはなりません。不動でありながら、自由でなければならない。そうした矛盾を抱えることができなければ、呪文の効果を十全に得ることはできません」
む……難しい……。
エルフ校長の話はつづく。
「呪文を捨て去ったことについて、人々は多くを語りません。残されたわずかな情報といえば、呪文を唱えたら狙いが相手にも伝わって対策されるとか、発動までに時間がかかるからといった否定的なものばかり。今では無詠唱魔法が当然のものとなり、誰も呪文を顧みることはない……ですが、僕にいわせれば、それらはすべて後付けの見苦しい自己弁護に過ぎない」
「そうなんですか?」
「人類は、世界と一体化するすべを失ったのです。その傲慢さ、みずからが生物種の頂点に立っているという勘違いが、呪文をあやつる心構えを失わせた――結果、呪文は効果を上げづらくなっていき、かれらはそれを使えないものと位置づけ、忘れてしまったのですよ」
「え……それじゃ、わたしもうまく使えないのでは?」
危惧を抱いたわたしに、エルフ校長は慈愛の笑顔で告げた。
「大丈夫です。ルルベルが奢っているなど、誰にいえますか? 誰にも、です」
反語表現のあとの丁寧な念押し来たー!




