330 そんな理由で世界が虚無になる体験を……
ファビウス先輩は研究室に戻って行き――去り際に、ウィブル先生に宿題を出されていた。不摂生が内臓にどんな影響を与えるかのレポート提出……ガチの課題である――わたしはあらためて休むように指示され、ベッドに横になった。
一応……一応書いておくと、ファビウス先輩が寝てたのとは別のベッドだからね! だからなんだって話ではあるが。
ウィブル先生が少し魔力を流してくれたせいか、ぐっすり寝入ってスッキリ目覚めると、ジェレンス先生の声がした。
「まだ起きねぇのか? 寝過ぎだろ」
「あんたが早過ぎ。今すぐ行っても食堂は開いてない」
答えてるのはウィブル先生だけど、口調が雑。凄んでるわけでもないけど、オネェでもない……ひとことでいって、雑。
「開けさせりゃいいんだよ」
「職員に無理難題を押し付けるな」
「ちょっとくらい……お、ルルベル、起きたか。髪が爆発してるぞ?」
……デリカシー!
わたしは開けたばかりのカーテンを勢いよく閉め、叫んだ。
「すぐ直します!」
「ルルベルちゃん、こっちに来て鏡を使って。ジェレンス、あんたは壁を見てて」
「なんでだよ」
「心ない言葉を発する可能性が高いからに決まってるじゃない。そういうのを聞いたら、アタシもちょっとこう……ね? 凶暴な気分になるかもしれないし?」
「わかった、壁だな」
ジェレンス先生が従順……。どんだけ怖いの、ウィブル先生。
カーテンが開いて、ウィブル先生がわたしの手を取った。
「こっちこっち。櫛もあるわよ……って、知ってるわよね」
「はい。ありがとうございます、お借りします」
ギボヂワドゥイのたびに保健室で寝かせてもらっていたからな……。
「ルルベル、今日の昼飯は俺が当番だが、なにが食べたい?」
「なにって……選べるんですか?」
ジェレンス先生が連れて行ってくれるなら、職員用の席だろうし、学生用とは違う料理も供されるようだけど……。でも、昼はそこまで差はなさそうな気がするけどなぁ。
ウィブル先生の協力を得て髪をととのえながら、ふと思いだして訊いてみる。
「そういえば、今日はスタダンス様はいらっしゃらないんですね?」
「ああ。家の方で用事があるんだと」
「侯爵家主催のお食事会があるらしいの。それで、駆り出されてるみたい」
家の仕事を手伝うといっても庶民とは違うなぁ……なんて思っていると。
「ま、こっち来なくても問題ねぇだろ」
「ちょっとジェレンス、口を慎みなさい」
ウィブル先生が文句をつけるけど、ジェレンス先生は自説を曲げなかった。
「実技の基礎はできてるし、知識は詰め込んでも大して入らねぇ。ってことは研究職には向いてねぇし、単に魔法を使うだけなら必要なことは学べてる。学園にいる必要あるか? 学園があいつにできることも、あいつが学園でできることも、ほとんど残ってねぇよ。寝てるあいだの魔力制御だって、教えられるもんじゃねぇし。家にいた方が安定するらしいしな」
「そうなんですか」
「そうらしいぜ? もう見てもいいか?」
「いいわよ。ルルベルちゃん、ジェレンスを制御するための呪文を教えてあげる」
「呪文?」
そんな簡単に発音できるような呪文があるのかと首をひねるわたしに、ウィブル先生は美しく微笑んでこう告げた。
「ええ。こう唱えるのよ――『ウィブル先生にいいつけても、いいんですね?』って」
……思ってたのと違った! でも強そう。
「覚えました」
「ウィブル、変なこと覚えさせるなよ」
「ジェレンスこそ、言動を慎んでほしいわ。ルルベルちゃん、気をつけて行ってきてね」
昼食に行くだけなのに、やたら心配されている……。
「大丈夫です。ジェレンス先生の無茶には、もう耐性ありますし」
「そんな耐性つけなくていいのよ……。ジェレンス、ほんとにたのむわよ?」
「おまえ、なに心配してんだ。午後は図書館に送ればいいよな? じゃ、行ってくる」
保健室から食堂は、少し距離がある。てれてれと廊下を歩きながら、ジェレンス先生がわたしに訊いた。
「食べたいものは決まったか? 肉がいいか? 魚か?」
「すみません、まだ寝起きでそんなに食欲が……。先生におまかせします」
「おっ、いったな? じゃあ、俺の好きなものでいいか」
「先生はなにがお好きなんですか?」
「麦酒と腸詰めだなぁ。あと、揚げた魚に塩と酢を振ったやつ。好物ってわけじゃないが、塩炒り青豆もついてないと気分が出ない」
魔法使いは肝臓をたいせつにせねばならないのでは?
「わたしはお酒は遠慮します。たぶん、親衛隊のふたりも」
「親衛隊? ああ、リートとナヴァトか……。おまえら、昼飯は好きにしていいぞ。俺はちょっと、ルルベルと話があるからな」
「いえ、ご一緒します」
すぐ後ろからリートの声が聞こえて、飛び上がりそうになった。びっ……くりしたぁ! リートまでナヴァト忍者みたいになってきたぞ。
「ご一緒? いいぜ、ついて来れるならな」
ジェレンス先生の横顔は、それはもう楽しそうで。
この時点でようやく、わたしは不安を覚えた。これって……職員用の席からは閉め出すぞ、みたいな意味じゃなさそう? 呪文の出番? えっ、早過ぎない?
「今日は毛布がねぇからな。足は閉じとけよ」
毛布? ……あっ! 空を飛ぶ気か! っていうかこれっ……ちょっ――
ちょっと
思ってたのと違
ぎゃあー!
「虚無……」
「飛んですぐ声を出せるなら、上等だな」
内臓の位置がよくわからないよ。ふだんから、ちゃんとわかってるわけじゃないけどさぁ! でもさぁ!
「どこです、ここ……ていうか、景色すご……」
今いるのは空の上だけど、眼下に広がるのは森林だ。赤や黄に色づいた葉が、どこまでも波のようにつづいている。「死ぬまでに見ておきたい絶景リスト」とかにランクインしていそうな眺めである。
でも、ジェレンス先生はなんの感慨もなさそうに答えた。
「こないだ話した伯母の領地だ」
……こないだ……伯母? ……あっ! 血まみれの伯母様か。
「すごくお強い、生属性魔法使いの……?」
「それそれ。つまり、ここは西国の近くだ」
「じゃあ……魔将軍を見に来たということですか」
わたしの問いに、ジェレンス先生は笑って答えた。
「さすがに、生徒連れて魔将軍見物はしねぇな。その必要がなければ」
ジェレンス先生ならやりかねないと思ったのだが、違ったらしい。
「じゃあ、どういう用件で?」
「いったろ。昼飯だ、昼飯」
「……はい?」
「ここにあるんだよ、うまい腸詰めと揚げ魚を出す店がな」
そ……そんな理由で世界が虚無になる体験を……。
「先生、正直に申し上げますが、あの移動法だと、食べたものを吐く恐れが」
「気にすんな。休憩して帰りゃ平気だろ」
そういう問題じゃ……とゴネるわたしをスルーして、ジェレンス先生は高度を落としはじめた。ついでに、デリカシー的にいかがなものかという台詞を吐くのも忘れない。
「できるだけ人が少ない場所を選んではいるが、足は閉じとけよ」
気を回すところが、なんかおかしいよ! ……切実な問題ではあるけど、そもそも論として、こんな空の高いところへ連れ出さないでほしいわ!
「瞬間移動なら、空を飛ぶ必要ないじゃないですか」
「必要あるからやってるんだ。移動先を地上にするってのは、地面の高さがちょっと推定と違うだけで足がめり込んで物理干渉で破裂しかねないってことだが、いいのか?」
よくねーよ! ていうか、こわっ!
「いいはずないですよ……」
「だろ? 空なら障害物が少ないから簡易排除で対応できる。雲とか雨とか鳥とか、こっちが出るときに壁をつくって押してやれば、避けられるからな。地面だと、うっかり落ちてた岩にめり込んだり、いつのまにか生えてた木と合体したりするし、壁で押しても押した先には別のものがある確率が高い。押し返されて結局衝突、みたいなことに――」
「そんな怖い移動法を使わないでくださいよ、そもそも!」
「だから、怖くないように空に出るって話だろ」
そこまでして食べたいほどの腸詰めなのか! って話だよ。ていうか、食べたいものじゃなく、どこで食べたいかを指定すべきだな……次があるなら。
ちょっと歩くぞといわれた通り、それからしばらく、紅葉した木立の中を歩いた。なんとなく道はあるけど、落ち葉のせいでわかりづらいし、ジェレンス先生とはぐれたら遭難必至である。
「先生、うっかりわたしを置き去りにしないように気をつけてくださいね」
「そうだな。今、ファビウスの紐がついてねぇだろ、おまえ」
「紐……?」
「位置情報発信装置、っていえばいいか?」
はじめに連想したのはスマホだが、ジェレンス先生がいっているのは没収された指輪のことだろう。第一、この世界にはスマホはないしな!
「そのはずです」
「だから、気晴らしにどっか遊びに行っても邪魔されずに済むだろうと思ってよ」
「気晴らし……ですか?」
「おう。おまえ最近、いつ見ても難しい顔してるからな。今だけでいい。なにもかも忘れてのんびりしろ」
そういってジェレンス先生はわたしの頭をワシッと撫でた。……髪が乱れるからやめてほしいし、乱れたらどうせ笑うんだろうから迷惑きわまりないけど、でも。
ちょっと、グッと来てしまった……。




