319 新解釈として受け入れる余地は大いにある
「ファビウス様、今日は何時に起きましたか?」
「……そんなことも確認するの?」
「手が真っ赤になるまで扉を叩くことになったんですから、その程度の情報は手に入れないと」
ちょっと神妙にさせようと思って口にしたのだが、ファビウス先輩の注意がそちらに向いてしまった。
「ああ、手。そう、手を冷やさないと。怪我は?」
そういって、あらためてわたしの手をとる。
「血は出てませんよ。さあ、座ってください」
「……ごめんね。僕がすぐ応じなかったせいだ」
「ええ、その通りです。座ってください。……喉が乾いてらっしゃるでしょう? なにか持って来ます」
ファビウス先輩を座らせて、白湯がいいかなぁ――なんて考えながら立ち去ろうとしたら、手を引っ張られた。正確には、まっかっかー! の手を見られていたわけで、そこで動こうとしたら手首をギュッとね。
「痛……」
「あっ、ごめん……でも行かないで」
「すぐ戻りますから」
「これ、夢じゃないよね?」
「はぃい?」
思わず声が裏返ってしまったが、許されると思う。
座ったままのファビウス先輩を見下ろすと、それはもう――筆舌に尽くしがたい情けなさだったのである。懇願の表情っていうか?
えっ、ファビウス先輩こそ本物? これわたしの幻覚じゃない? いやいや……どうしちゃったんだよ。このファビウス先輩は少々解釈違いだが、これはこれで……新解釈として受け入れる余地は大いにある。
わたしはファビウス先輩の前にしゃがみこんだ。
「夢じゃないですよ。夢でこんなに痛かったら、目が覚めてますって」
「……痛いよね」
視線を落としてわたしの手をみつめるファビウス先輩の頭髪は、こう……もっさりしているとしか表現しようがない。たぶん、適当に手でかき回したり、突っ伏して寝たり、いろいろやったのだろう。
いつもは、お手入れなしでツヤサラの髪なのに……! こんなのはじめて見たわ。レアだわ。間違いなく、最高等級のレアだわ。
「寝てらしたんですか?」
「起きてたけど、頭がちゃんと回ってなかったみたいだ……。なにか呪符が反応してるなとは頭の片隅で思ってたんだけど、それがなんなのかを把握するのが遅れた」
「計算に夢中でいらしたんでしょう?」
「……たぶんね」
そこで会話が途切れた。
思いっきり叱り飛ばしたいのではあるが……それが憚られる程度に、本人がしょんもりしている。なんかこう……しょんもり。この音感が、しっくり来る。
へたにつつくと、ぺしゃっ! って、つぶれちゃいそうな感じ。
「聖女様……」
控えめにイケボが呼ぶのでふり返ると、トレイを持ったナヴァト忍者が、廊下から入って来るところだった。もう料理が届いたのかと思えば、そうではないようだ――運ばれて来たのは、湯気のたつカップ。
立ち上がると、今度はさすがに手をはなしてもらえた。
「ありがとう」
「お邪魔ではなかったでしょうか」
「ううん、早く水分をとってほしかったから、助かる」
「お声が聞こえましたので」
香りから察するに、カップの中は沈静効果のあるハーブ・ティーだ。ティーといっても、茶葉は配合されてないタイプな! ナヴァト忍者、グッジョブ!
カップをもらうと、わたしはファビウス先輩にさしだした。
「さあ、ファビウス様。どうぞ」
「……ナヴァトはお茶を淹れるのもうまいんだね。いい香りだ」
おっ。ちょっと調子戻って来た感じあるな!
「光栄です」
答えたまま、ナヴァト忍者は中庭の隅で待機するようだ。
配慮してるのかな。男女ふたりきりにさせないよう……今さら感あるけど!
「……ルルベルが出て行って、何日?」
そこからー!?
ていうか表現! それこそ誤解しまくられそう!
「えっと、寮の自分の部屋で寝たのは二晩じゃないかと思いますが」
「それだけ? もうずっと会っていない気がする」
重症ー! えっどうしよう、このひと。
思わずナヴァト忍者に助けを求める視線を投げてしまったが、ガン無視された。巻き込まないでください、任務に含まれていませんって雰囲気をビシビシ感じる。
……でもまぁ。
「そうですよね……」
実のところ。
夕食につきあってくれるのが教師陣だったり、スタダンス様があらわれたり。ファビウス先輩じゃないとね? がっかりするんだよ。
だから今は、つまり……正直いうと、嬉しいよね。会えて。
「困ったな」
「困りましたね」
「……ルルベルは、ぜんぜん困ってないのかと思ってた。僕がいなくても」
「そんなことないですよ。今夜も、食堂でお会いできなくてがっかりしてました。スタダンス様には申しわけないんですけど」
「ほんとに?」
「すごく困ってます。このままじゃ、危惧してた通りになっちゃいますから」
「危惧? ああ……あれか。頭の中が恋愛でいっぱいになると困るって?」
わたしがうなずくと、ファビウス先輩も俯いた。ハーブ・ティーの湯気が遠慮がちに顔の輪郭をなぞっていくの、なんだか絵みたいでとても綺麗だ――この距離だと、髪型もわからないし。
「……眠くなりました?」
「せっかく君がいるのに眠くなるはずないよ。もったいない」
「もったいない……」
「なに?」
視線を上げたファビウス先輩に、なんとなく笑ってしまう。こんなかっこいいのに、髪型はもっさりなんだな、って思いだしちゃって。
「ちょっと庶民的な表現だな、って思いました。貴族っぽくないです」
「じゃあ、ルルベルに影響を受けたのかも。……まずいな」
「なんです?」
「このまま寝てしまいそうだ」
「お休みになるのでしたら、カップをいただきます。危ないですし」
小さく息を吐いて、ファビウス先輩はハーブ・ティーを飲み干した。
「これで危なくないし、今の場面はそうだな……たとえば、膝枕を申し出てくれたら完璧だったな」
「……それは難易度高いですね」
未婚の女性が男性に膝枕を申し出るとか、完全にアウトだからな! この世界の常識的に!
世界っていうか、我が国?
「そう? 簡単だと思うけどなぁ。今なら『いいですよ』って、ひとこというだけ」
とろんとした目つきでいわれると、うっかり許可しそうになる。
「駄目ですよ。……東国って、そういう問題は……つまりその、男女関係の問題については、どうなんですか?」
「どう、って?」
「ええと、つまり……未婚の男女の距離感ですよ。常識的にどこまで許されるのか、みたいな……」
「東国なら膝枕も常識の範囲内って答えたら、やってくれる?」
「え、無理です。ここは央国ですから」
「即答かぁ」
困ったようにいって、それでも気分を害した風ではなく。
いや、むしろ楽しそうに笑って、ファビウス先輩はわたしにカップを預けた。
「君のそういう身持ちの固いところも好きだよ」
「す……」
「『す』って言葉の意味も、もうわかった。つづきを口にするのが恥ずかしいなら、それだけで大丈夫だよ。いくらでもいって?」
いや、今のは絶句しただけ……! そんな甘々の顔でわたしを見るなッ!
なにこの……なんなのこれ破壊力高い! ファビウス先輩、無敵モードに入ってない? このひと睡眠不足でこうなるの?
「……どうしちゃったんですか、ファビウス様」
「どうもしないよ。君が好きだなって実感してるだけ」
「膝枕はしませんよ?」
「してくれたら嬉しいけど、しなくても好きだから気にしないで。……ああ、ひとつだけお願いがあるんだ」
「お願い?」
「さっき、料理を注文してたよね? 僕が食べるあいだ、一緒にいてくれる? そうしたら、おとなしく食事して、ちゃんと睡眠もとるから」
……交渉してくるじゃん。まぁその方が安心だから、それでいいかな。
そのとき、玄関の方でなにか音がした。お、料理が届いたかな? 即座にナヴァト忍者が動き、誰何の声が聞こえてきたのだが――。
「ファビウスは無事ですか?」
校長先生だわー! 呼んだというか、リートが吹っ飛んでった事実を忘れてた!




