307 回収できる目処がない投資など、誰もしない
ジェレンス先生の指示を受けて、わたしは図書館に移動することになった。
……せっかく教室に戻れたのにな! 結局こうなるのか!
リートは当然ついて来たが、図書館の扉を開けるなりナヴァト忍者が姿をあらわしたのには、びっくりした。いるんだろうとは思ってたけど、やっぱりいたんだ! ……みたいな。
ここでびっくりするの、お約束っぽい。でも誓っていうけど、毎回本気でびっくりしてる。たぶん、出現するときの距離感と位置のせいだ。ナヴァト忍者、実は狙ってるんじゃないだろうな……。
「聖女様、閲覧室の準備ができました」
だが、もし狙ってやっていたのだとしても許してしまう。書類を揃えてくれるから!
ジェレンス先生指定の文法書は禁帯出だったので、そのまま閲覧室へ。
「いっつも指定図書が禁帯出って気がするわ……」
「そら恐ろしいな」
「え? それだけ稀覯本が揃ってるってことが?」
「そっちじゃない。ジェレンス先生が禁帯出本の内容を把握していることが、怖くはないか」
わたしがきょとんとしていると、リートは顔をしかめた。あっ馬鹿にされた!
……まぁ、いつも馬鹿にされてるんだから、問題はないな。うむ。
「どれだけ図書館に通い詰めたのか、って話だ。あるいは自前の蔵書ということも考えられるが、ジェレンス先生の家はそこまで裕福ではないはずだからな」
「そうなの?」
「これがスタダンスだったら、家に国宝級の図書室があるんだろうなと納得するところだが」
……ありそうだな。あるんじゃないかなー!
侯爵家の豪華図書室を想像しているわたしをよそに、リートは話を結論づけた。
「どちらにせよ、読んで内容を覚えていることに違いはない。怖いのは、そこだろう」
「ああ……エルフでもあるまいし、って感じかぁ」
覚えるまで何回でも読んだ……のだとしても、何冊何回読んだんだよってなるし。一読しただけで覚えてるんだったら、それこそエルフかよ! って話である。
えっ。冷静に考えたら、こっわ!
「ジェレンス先生がエルフだったら、図書館の蔵書をすべて読みきっていても、それを覚えていても、なんのおどろきもない」
「校長先生も、図書館の本をぜんぶ覚えてたりするのかな?」
「ひと通りは読んでいそうだな」
エルフは暇だから、って顔で答えられてしまった。
そこへ司書さんが問題の文法書を持ってきてくれたので、わたしはそれを読むことにした。さすがジェレンス先生お勧めだけあって、よくまとまっている。
「これはさ、安価に買えるように印刷すべきじゃない?」
シスコが本屋に通っていることでわかるだろうが、我が国の文明は「印刷した本を個人が購入する」段階まで発展している。なのに、稀覯書として図書館にしまいこまれているだけで、いいのか? よくないぞ!
わたしの提案を、リートは鼻先で笑い飛ばした。実にリートだ。
「印刷するってことは、大量生産だぞ?」
……あっ。皆までいうな。わかった! わたしにも、わかった!
「買う人がいないのね……」
「古代エルヴァン文字だのエルフ語の文法だのに興味をもち、本を所有したいと思う人間がいない――とまでは、いわない。だが、多くはないだろう。大量生産の廉価版では、利益が出るほど売れないはずだ。回収できる目処がない投資など、誰もしない」
見込みがあるとしたら、蒐集家用の豪華本だろう……と、いうのがリートの意見だった。
残念だけど、賛成しかできない。
「そうね……エルフが流行でもしない限りは、無理そう」
「校長に派手な活躍でもしてもらえばどうだ?」
「校長先生なら、容姿をぼんやりさせる魔法みたいなやつを解くだけで、大人気になると思う」
「それだけだと弱いな」
……我々はなんの話をしているのかッ!
この本、持ち出せないんだからなー。集中して読もう。
持ち出せれば便利だし、わたしも一冊手元に置きたいのが正直なところだけど、リートの意見は正しいだろう。たくさん売れるほどのポテンシャルはない……。
すごく良い本だけどなぁ。文法書なんて、読みはじめた瞬間に眠くなるんじゃないかと思ってたのに、そんなことない。面白い。たぶん、著者が書き手として一流。
だけど、商売は厳しいのだ。わたしは知っている……パン屋の娘として身に染みて理解している。良い商品なら売れるわけではない、ということを! ……せつない。
いやいや集中、集中!
読み進めるほど、実感する。エルフ語の規則、ほんっと、日本語に似てる!
わたしはこの世界で生まれ育ったルルベルであるからして、SVOを意識せずに使いこなせるが。もし、異世界転生ではなく異世界転移でここに来て、翻訳魔法みたいな便利なものがなかったとしたら! ……詰んでたわ〜。
……翻訳魔法があったら古代エルヴァン文字でもエルフ語でも翻訳し放題だよな?
「言語を翻訳する魔法ってないのかな?」
リートに訊いてみると、また妙なこと口走ってやがるという顔で見られた。
「俺は聞いたことがないな。存在するとして、属性はなんだ」
「知らないから訊いてるんだよ。あったら便利なのにな、って思ったの!」
「便利か。……真面目に考えると、それこそ呪文ならあるかもしれん」
「呪文?」
「原初の言語なら、言葉の意味を変換できる可能性がある……かもしれん、という話だ。エルフの魔法だから研究も進んでいないし、呪文自体が廃れて久しい。かつて存在していたものが忘れ去られていても、なんら不思議はない」
「よくわかんないけど、なるほどって気がする」
……この視線は、君は馬鹿か? だな。声にされる前に、本に戻った方がよさそうだ。
そのまま閉館時間まで文法書を読みつづけそうになったけど、リートが冷静に、ひと声。
「放課後」
「……あっ!」
「忘れてるんじゃないかと疑ってはいたが、まさか」
「目先のことに集中すると、ほかのことを忘れちゃうんだよね……」
マルチタスクができないのでな!
たぶん、父が満足するパンを焼けなかったのも、これが原因じゃないかと思う。
パン屋って、複数種のパンの仕込みを同時にまわしていく必要があるのだ。
あっ、もちろん前世日本の街のパン屋さんみたいなスーパー・ウルトラ多種展開はしてないよ。それでも、単品で勝負してるわけじゃない。それに、種類は同じでも何回も焼くから、次に焼くやつの発酵の具合を確認しつつ、その次に焼くやつの成形を済ませ、さらにその次に焼く生地の発酵の具合を確認、おっと第一陣が焼ける頃合いだ! ……って感じで、並行処理が必要になるんだよね。
兄はこれができる。日常生活では不器用だし、あれもこれもなんてできないのに。パン焼きでだけは、きっちりできるのだ。なんなんだよ。パン焼き属性の魔法かよ、と嘆きたくもなろうというものだ。
現実には、わたしの魔法は聖属性だし、兄は魔法は使えないものの天性のパン屋だ。早起きの才能も所持している。
なんでかな。わたしもパン屋の娘なのに……なんで聖女になっちゃったんだろ。
本を司書さんに返し、わたしたちは図書館を出て校長室に向かった。
「よく来ましたね、ルルベル」
エルフ校長は、完全にスタンバイOKって感じだった。つまり、わたしが来るのを待ち構えていた。
「君たちは外で待機していなさい」
しかも親衛隊は門前払いされた。複数形だから、姿を消しているナヴァト忍者もお断りされている。
まぁ、しかたないだろう。だって、エルフ校長はわたし以外の人間に呪文を教える気がないわけだし。
校長室にある応接セットのテーブルには、芸術的なカップと芸術的な皿と芸術的な菓子が並んでおり、なんかもう……ここエルフの里? ってレベルのヴィジュアルが存在感をアピールしている。準備万端過ぎる。
これ、本を読むのに夢中になってすっぽかしたら、許されなかったのでは? エルフ校長は絶対に忘れないわけだし。
恐怖しかない!
「どこまで読めるようになったか、はじめに呪文を読んでみてもらっても?」
「あ、はい……でもメモがないと……」
「君が自分でつくったメモは用意できませんが、呪文自体はこれですよ、どうぞ」
あらかじめ準備されていたらしい、呪文を書いた紙が差し出された。これだけでも、ないよりはずっといい。
わたしはつっかえながらも、七割くらいは発声した……と、思う。
エルフ校長は、感激した。
「……素晴らしい!」
素晴らしかったのかどうかは、あやしいところだ。
でも、とりあえず喜んでおこう。褒められたら喜ぶのは、悪いことじゃない。
「ありがとうございます。まだ読めないところも多いことは、おわかりいただけましたよね?」
「ええ。ですが、人間がこの言葉を口にするのを聞いたのは……何年ぶりでしょう。そのことだけでも、僕は感動しています」
リートが聞いたら、いいからさっさと正確な発音を教えてやってください、って顔しそうな台詞である。
でも、わたしはリートじゃないのでね。
「まだまだですよ、先生。わたしが完璧に発音できるようになってから、感動してください」
そして、魔力感知を取り戻すのだ。すみやかに!




