296 危機意識の焦点がおかしい
というわけで、せっせとパンを配っていたところ。
「警戒」
リートが低い声で告げて、わたしは急に現実に引き戻された。
引き戻されたということは、現実を離脱していたのか? うん、そう。
つまりだね……この集まりが吸血鬼おびき出しのためだってことは、わかってたわけ。でも、パンを配りはじめたあたりから、すっかりパン屋モードになってしまっていたのだ。
すると、どうなるか?
吸血鬼のことなど、忘れ去ってしまうのである!
途中、シェリリア殿下の離宮でパンを焼け発言なども挟んだせいで、きれいさっぱり!
……リートに知られたら、危機意識について上から目線でいわれまくるだろう。可能な限り、秘匿したい。
「魔力玉用意」
「了解」
護衛のやりとりは、我々聖女チームにしか聞こえないことになっている。こんなん、擬似インカムじゃん。いやインカム以上の性能かもしれないよね? だって、仲間以外には聞かれたくないことを喋れるんだもんな。そこに誰がいるかを気にせずに。もちろん口が動くのはしかたないし、通話可能な距離ではインカムに負けるんだろうけど。
そして、いつもの結論――生属性魔法、こっわ!
このグループチャットみたいなやつ、わたしは聞かない方がいいんじゃないか論もあったんだけど、聞いてなければ聞いてないで急な動きに対応できない恐れがあるのでね。
このように、聞かせてもらえることになったわけだ。
「対象は、次に並んでる女性。黒髪、黄色い帽子。……子爵夫人だな。想定内の人選だ」
わたしはさすがに無駄な口パクする余裕はないので、聞いてるだけだけど。
そう、それより接客接客!
……いや接客じゃないけども……まぁ、接客みたいなものだよね!
「お会いできて光栄です、聖女様」
「こちらこそ、本日はお運びくださりありがとう存じます。さあ、パンをどうぞ」
今、相手をしてるのは品の良い老婦人。名前は知らん。爵位も知らん。平民じゃないだろうなってことしかわからん。
「聖女様のパン……食べるのがもったいないですね」
「食べずにおく方がもったいないですよ! 焼きたてが最高なんです。お早くお召し上がりください」
「はい、ありがとうございます……よく味わいますわ」
次が、問題の黒髪さんだ。
こんなときこそ、いでよ! 鉄壁の看板娘スマイル!
「こんにちは、パンをどうぞ!」
「まぁ、聖女様……じきじきのお声がけ、なんと畏れ多いことでしょう」
綺麗なカーテシーをキメられてしまった。
黒髪さんは、レモンイエローの帽子に白い薔薇を飾り、ドレスも品のいい黄色の小花柄にベージュのレースをあわせた、大人ファンシー・デザイン。今風のIラインなんだけど、ストールの素材が軽くて半透明なので、適度なひらみが演出されている……。ちょっとした動きで、ひらっとするの……すごく良い。
「そんな風におっしゃらないでくださいませ。わたしは、ただのパン屋の娘なんですもの」
「聖女様は、特別な存在でいらっしゃいますわ」
やたら趣味のいいドレスをお召しの女性は、横合いからすっと差し出されたお皿を手に取る――かと思いきや、わたしの手をとった。
……えっ。待って待って、やめて!
「パンが落ちてしまいます!」
「……危機意識の焦点がおかしい」
耳元でリートの声がした。例のインカム音声だ。
相変わらず、ムカつくけど正しいよね。そうだな! これはパンの心配ではなく自分の心配をするところだな!
そこで、まず丁重にお伝えした。
「お手を、おはなしくださいませ」
「あなたがどれだけ特別な存在か、そもそものはじめからご説明いたしましょう」
「……そもそもの、はじめ?」
「ええ。そこのエルフも知らないような、魔王と聖女のかかわりですわ」
えーっと……これは、どうすれば?
ここからは、引き伸ばし作戦なんだけど。
「おい、硬直するな」
してないよ! 考えてただけだよ!
なんで詳しいのか訊いたら駄目だろうしなぁ。思わせぶりな流れから即、正体バレ展開になりかねない。
……ああそうか、相手に喋らせないで、わたしが喋ればいいんだな!
「まぁ、その話題にはとても興味がございますわ。魔王と聖女のかかわり……きっと、はるかな昔に遡るものなんでしょうね? はじめの聖女様って、どんなかただったのかしら。気になりますわ。まさかパン屋の娘ということはないでしょう?」
「ええ……そうですわね……」
「ですわよね!」
熱心に、わたしはうなずいた。
なにが「ですわよね」なのかは、自分でもよくわからない。はじめの聖女がパン屋でもべつにいいじゃん?
「パン屋の娘が聖女になるって、ずいぶん変なことのように思いますわ。お詳しくていらっしゃるなら、教えていただけます? わたし以外にも、聖女になったパン屋の娘がいるのかどうか……」
「それはちょっと、難しいお尋ねですわ。そうですわね、でも――」
「まぁ、難しいんですの?」
エーディリア様がいらしたらマナー違反を咎められるに違いない、他人の話の途中に割り込みかけるやつ! だが今は、やるしかない。
相手のペースに持ち込まれたら負けなのだ。
「ええ、そういう観点では――」
「そうなんですのね。やはり平民で聖属性魔力を持つ者は少ないのでしょうか。魔法といえば、貴いご身分の皆様のものでございましょう? わたし、自分に魔力があると判定されたときには、なにかの間違いだと思いましたの。ですけれど、聖属性の魔力はそれは稀少なものだと教わりました。魔王を倒せるのは、聖属性の魔力だけなのだと。でしたら、パン屋をつづけるよりも、ずっと有意義でございましょう? 学園で魔法を学ぶことに決めたのですわ」
「まぁ、聖女様……なんて素晴らしいお心掛けかしら」
「ありがとう存じます。お褒めいただけて、嬉しいですわ。……あら、わたしとしたことが。興味のある話だったので、つい夢中になってしまって。パンをお渡ししていませんでしたわね!」
ねぇ、どれだけつづければいいの? そろそろ厳しいんだけど!
ていうか、この手! 手を、はなしてくれないかなぁ!
わたしは平民だから文句をいえる立場じゃないけど、パーティーの主賓の手首をガッと掴んではなさないって、おかしくない? おかしいよ。
どうしても掴みたいなら、せめてトング持ってない方の手にしてくれ。パンを落としたくない。食べ物は、だいじ!
「ルルベル、もう少し引っ張れ」
魔法インカム越しに、リートからの指示が飛ぶ。
ええー、もう限界なんですけど! つづけてもいいけど、参加者の皆様にわたしが大変人と思われる危険性がすごいぞ!
「さあ、パンをお渡しさせてくださいませ」
「いいえ、パンよりもお話をさせていただきとう存じますわ……聖女様もご興味がおありなのでしたら、なおさら」
「ですが、わたしは根がパン屋ですから! パンを後回しにするなんて、とてもできることではありません。ええ、無理です。そこに焼きたてのパンがあるのに、お配りすることができないなんて。焼きたてを食べていただけないなんて! そんなに悲しいことが、この世にあるでしょうか?」
なにいってんだ、わたし。
「悲しいことなど……この世には、いくらでもございますわ」
そりゃな。パンを配れないとか食べてもらえないとかより悲しいことは、いくらでもあるだろうな! わたしだってそう思うよ、はい同意。
「たしかにそうでしょうけれど、今のわたしにとって、せっかくここまで来て焼いたパンが無下にされるのは、とても苦しいことなのですわ」
「大丈夫、もっと苦しいことだって、この世にはいくらでもございます」
それ、大丈夫っていわないから!
ねぇまだ? まだなの?
「準備完了」
その声を待っていたかのように――いや、実際待っていたんだろう。ファビウス先輩が、わたしの隣に並んだ。
「サローラン子爵夫人。お久しぶりです」
「……まぁ、閣下。その手はどういうことかしら?」
ファビウス先輩の手は、わたしの手を掴んでいる黒髪子爵夫人の手を掴んでいるのである。……マトリョーシカみたいだな!
「聖女様が、嫌がってらっしゃいます。手をはなしてください、という意味の手ですね」
にこやか且つおだやか。そして冷淡に、ファビウス先輩は告げた。
いやでも……ファビウス先輩? 大丈夫? チーム内で戦闘力は最低じゃないかな、失礼ながら……。
と、思ったんだけど。
「ひっ……」
子爵夫人が、子爵夫人らしからぬ声をあげた。
ファビウス先輩が掴んでる手のあたりが、ジュワ〜って音を立ててる。あの……つまり……肉が焼けるような?
……えっ。
えーっ!?




