284 もう一波乱くらいは盛り上がりがほしいですね
お茶の準備をしている最中に、どうせなら湯上がりに飲みたいかも? と、ファビウス先輩がいいだした。ルルベルは先に寝てて? とか胡乱なことを主張するので、わたしはビシッと断った。
だってこれ、夜更かしするパターンだからね!
さっきの情景から推測するに、ナヴァト忍者も今夜は信用ならなさそうだ。わたしに仕えてることになってるから、依頼すれば忠実にファビウス先輩を寝かしつけてくれるかもしれないけど……ごまかされそうな気もするし。
というわけで、わたしは中庭でずっと待っていることにした。そうすれば、ファビウス先輩も仕事に戻ったりはしないからね。
「だからって、起きて待っていなくてもいいのに」
「部屋で倒れてらっしゃるのを発見したくないですから」
「……これ、一生いわれるのかなぁ」
「どうでしょう」
ファビウス先輩の心がけ次第では? という意味で首を傾げて見せたのだが。
「それって、僕と生涯をともにしてくれるかどうか、わからないって意味?」
その返しは予想してなかったわ!
ちょっと呼吸が苦しくなったけど、落ち着け、どうせからかわれてるんだと自分を諭す。
「……それも、どうでしょうね」
湯上がりファビウス先輩は、気だるげに椅子に預けていた上体を起こし、少し前のめりになった。
「ルルベル……僕は君とずっと一緒にいたい。どんなときも」
まるで婚姻の誓いの言葉みたいだ。ちょっとドキドキする。いや、かなり。
考えたくないけど考えずにはおれなかったことが、頭の中をぐるぐるしはじめる。
「そう思ってるってことを、知っていてほしい。それと……君はどう思っているのかも知りたい」
「わたしも、そう思いますけど」
「けど?」
「……無理です。身分が、違い過ぎます」
ファビウス先輩とわたしは、いわゆる両思いってやつだ。アンビリーバボーではあるが、そういうことになっている。
今はそれでいい。納得できる。だけど、この先は?
聖女だなんだといっても、わたしは平民だ。王位継承権を放棄したといっても、ファビウス先輩は王子様だ。そして今でもお貴族様だ。
階級社会だぞ。生涯をともにする、なんて気楽にいえる? わたしには無理。
なのに、ファビウス先輩はかろやかに微笑む。
「そんなくだらない理由?」
「くだらなくないです。これが物語なら、よかったです。……平民の娘が王子様に見初められて、結婚する。めでたし、めでたし、ってお話なら」
「僕はもう王子じゃないけど」
「でも、生まれも育ちもそうですよ。わたしたちは違い過ぎます。常識も、なにもかも。たとえば同じものに対して、どうするのが当然って反応も」
「そんなの、違う方が楽しいに決まってる」
「そういう問題じゃないんです。わたしには教養がありません。これから学ぶことはできるでしょうけど、一生かかっても、ファビウス様の世界に追いつけるかどうかもわかりません」
「じゃあ、一生かけて教えてあげるよ」
どういえば、伝わるんだろう。
伯爵令嬢たちに囲まれているときに感じる、あのアウェイ感。持ち上げてくれるけど、わたしの感性が貴族と「違う」から面白がられているだけだってわかる。
ファビウス先輩といるときも、たまに思う――この学園に来てから、ずっとそうだ。ここは知らない世界だ。わたしの常識が及ばない、皆が知らない知識を共有している世界。
わたしは違うから面白がられている。その違いが消費されてしまったら、どうなるの? 残るのは、無教養なイタいやつだ。皆と同じコースに乗ろうとしても、スタートラインにさえ立てない落ちこぼれだ。
「……そうですね」
「ルルベル、どうしたの」
ファビウス先輩は立ち上がると、わたしの隣に座り直した。
わたしは下を見る。膝の上に置いた、自分の手を。
入学して店を手伝わなくなったせいか、ずいぶん綺麗になった。前はもっと皮が剥けてたり、ざらざらしたりしてたんだ……庶民の手だった。
でも今でも、貴族のお嬢様の手とは比ぶべくもない。はたらいた経験のある手だ。
「どうもしません。ずっと考えていたことが、つい口から出てしまっただけです」
「僕を嫌いになった……わけじゃないよね?」
「そんなことないです」
「じゃあ、なんでそんな顔をしてるの」
「……どんな顔ですか」
ため息をついて、ファビウス先輩は答えた。
「泣きそうな顔。ねぇ、僕がなにかしたなら教えてほしい」
「なにも。ただほんとうに……これが物語ならよかったなって」
なにをいってるんだろうと思う自分と、ほんとにそうだと願う自分がいる。物語ならよかった。この先を心配しなくて済む、ちょっとしたお楽しみだったなら。
「物語なら、僕らはどうなるの?」
「そうですね……もうひと波乱くらいは盛り上がりがほしいですね。ファビウス様にもっとふさわしい姫君があらわれるとか」
「僕が、実は国のために君を取り込もうとしてた……とか?」
「そんな感じです」
「でもそれは誤解で、僕はむしろ君のために国を捨てたってことがわかって、幸せな結末を迎えたいな」
「わたしのために、なにかを捨ててほしくないです」
思わず口にすると、隣のファビウス先輩が少し笑った気配がした。
「物語の話だよ、ルルベル」
「……たとえ物語であったとしてもです」
「じゃあ、物語ではなく――現実に。僕は君を取り込むように命じられていたとしたら?」
わたしは眼を閉じた。
そんなの、何回も考えた。何回も、何回も、何回もだ。考えても無駄なのに。
「同じです」
「同じ?」
「わたしがファビウス様を好きになってしまった事実は、変わらないです。だから……たとえそういう事情があったとしても、同じなんです」
長い沈黙がおりた。
やがて、ファビウス先輩がささやいた。枯れ葉が落ちるように、乾いた声で。
「……ごめんね。意地悪なことをいってしまった」
「どこかから命じられていたとしても、なんの不思議もないです。そんなことは、わたしでもわかります。だけど――気遣ってもらって、のぼせ上がっちゃったんです。あり得ないのに」
膝の上に置いた手に、手がかさなった。こわれものを扱うように、そっと。
「ルルベル、僕も同じだとは考えてくれないの?」
なにが同じなの? と。問い返すことはできなくて、わたしはふるえた。
怖いんだ、と頭の片隅の冷静な自分が思う。ちょっとした勢いで、本音を喋ってしまった。ファビウス先輩にどう思われるか、わからない。めんどくさい女になってる自覚はある。
嫌われたくない。嫌われたくない。嫌われたくない。
「前に、いっただろう? 僕が君を口説いていることにしてほしいって。断れない筋から依頼があったからって話」
「……はい」
「あれは嘘じゃない。実際に、聖女を取り込めって命じられた。断ると面倒なことになるから、かたちだけでもやっておこうと思ったんだよ。それで君に会ってみたら、もっと一緒にいたくなって」
ルルベル、とファビウス先輩がわたしの名を呼ぶ。顔を上げて、と。
わたしは閉じていた眼を開き、顔を上げる。乞われるままに、ファビウス先輩を見る。
「泣かないで」
手を引かれたと思うと、わたしはファビウス先輩の腕の中にいた。
抵抗もできなくて、むしろほっとして、でも怖くて。頭の中がぐちゃぐちゃだ。
「……はじめはね。口説けって命令に従ってると思うことにしてた。でも、だんだん自分をごまかせなくなった。罪悪感もひどかったし、君に僕を詰ってもらえた方が楽になれる気がして――裏があるんだって匂わせたりもした。だけど、それじゃなにも解決しなかった。だから縁を切ったんだ。そのへんの話もつけたんだよ。このあいだ帰国したときにね。今後、あの方面から命令を受けることはない。恩着せがましくなるのは嫌だからいわなかったけど、僕は君のために国を捨てたんだ」
おどろいて顔を上げようと――つまり、身を離そうとしたが、わたしを抱きしめるファビウス先輩の腕が、それを許さなかった。
「ファビウス様」
「生まれはしかたがない。でも、僕はもう王子じゃない。自分で選んで捨てたんだ。君が望むなら、爵位だって捨てる。世間が僕らを認めないというなら、世捨て人のように遠くで暮らしたっていい。だから、そんな風に勝手に諦めないで。……僕だって、傷つくんだよ。君に信じてもらえないと」
その声に痛みを感じ、わたしははっとした。
自分が可哀想って考えに凝り固まってた。周囲が見えていないのは、わたしだ。こんなことさえ、わからないなんて。
「……ごめんなさい」




