283 ただの文章がそのまま呪文になったりはしない
ひと通り「日常会話でいつも発音している音をあらわす発音記号」の学習が終わった頃には、当然、夜遅くなっていた。
途中でファビウス先輩とナヴァト忍者も帰って来たし、ふたりにも夕食休憩タイムに事情を説明した。
教師役を代わりたそうな雰囲気を見せたファビウス先輩だったが、途中で教えかたが変わるのもよくないかもと自分で納得し、自身の書斎に引っ込んでしまった。
もちろん、わからないことがあったらいつでも呼んで? ではある。
ファビウス先輩も、たよってほしいタイプだからな……。でも、エルフ校長と比較するのは失礼だろう。あれは拗らせ過ぎというものだ。呪文を教えてくれたことには感謝するけど。
そうそう、研究所での分析結果の方は。
聖光ハイブリッド魔力は捕縛中の吸血鬼によく効いたそうだ。ただ、ハイブリッドだからといって強化されてはいないらしい。でも、弱化もしてない。つまり、属性は変化しているのに眷属への効果は同じ。
これ、なにもメリットがないかというと、そうでもない。なにより、属性が混ざることでナヴァト忍者が魔力を扱いやすくなるのが大きい。残置性や物理干渉力は落ちるものの、代わりに個体をすり抜け、液体に混ざり、微粒子として拡散させることもできる。光に溶けるから、完全に不可視。
簡単にいうと、応用力がパネェ! ってこと。
実戦向きの使いかたを考えるだけで楽しいらしく、ナヴァト忍者は上機嫌だ。このひと、思ったより表情あるよねぇ、ほんと。
「じゃあ、寝るまでのあいだに辞書で呪文で使われてる単語を調べて、わからない発音記号があったら抜き書きする……で、いいかな?」
「そうしてくれ。大丈夫だとは思うが、文法的なところを無視して単語だけ並べないように」
「わかってる」
「大丈夫だと思える事実が意外過ぎるな。少々、受け入れづらい」
相変わらず失礼ね!
わたしが前世日本人であり、日本語とエルフ語の文法が意外と近かったという、そんなことってあるー!? コンボが発生したからだよ、悪かったな! とは説明できないが。
「問題は、これからでしょ。日常の会話では使わない発音ってやつ」
「それもそうだな。非常にむかつく事実だが、エルフ語の発音ならまかせてくれていい」
「……喋れるの?」
「喋れる。だが、この話題はここで終わりだ」
「ハイ」
地雷原に突入したくないので、わたしは口を閉じた。
「先に風呂を使え。俺は魔力玉の使いかたについて、ナヴァトと話がある」
「わかった」
リートもハイブリッド魔力に興味津々なんだろうし、ずっとわたしの教師役をやらせて悪かったなぁ。……まぁ、興味があるのはわたしもだけど、さすがに今日はもう脳が疲れた。お風呂で寝ないように注意しなきゃ、ってくらいの疲労度だ。
ここは高級ホテルですかってレベルの充実アメニティを満喫し、ふわっふわタオルで身体を拭いて部屋着に身を包む頃には、もう頭が半分夢心地である。
いかん……このままでは便箋三枚目をチェックする前に夢の国に旅立ってしまう。
全館暖房なのが、さらにやばいよね。これが実家なら、冬のお風呂上がりって、いかに寒さを感じないように素早くベッドに潜り込むかのタイムアタックが開催されるんだけど。この研究室、どこもかしこもぬくぬくしてるんだもの……。廊下で倒れて寝ても風邪ひかないんじゃないかな。
自室に戻って照明を調整し、しまってあった便箋を取り出す。
……おお。
抽斗に入れたときは、意味がわからなかった文字が! 意味のある文字に見える! 数時間で大進歩じゃん!
「あった、特殊文字!」
使ってる可能性が高いからとリートが教えてくれた、一文字で一単語をあらわす特殊文字!
魔力――エルフ語での発音は〈インブラ〉である。このラは、少し舌をふるわせるらしい。リート曰く、できそこないの巻き舌みたいな音、だそうで、これは我々の日常言語ではしない発音……なので、発音記号もまだ教わっていない。
発音自体を教わったんだから、魔力についてはそれでいい。
ほかの単語を辞書で引いて発音を確認し、まだ教わっていない発音記号があったら抜き書きだ。
読めるところだけは音写してみようかな? つまり、英文の「pen」を「ペン」って書き直すみたいな……。あっ、そうだ!
「……せっかくだから、かな文字で書いちゃおうかな?」
まだ書けるかな? ……発音を書き写すんだから漢字は使わないし、問題ないだろう。むしろ書けなかったらショックだ!
わたし以外に誰も読めないだろうし、ちょうどいいじゃない? グッド・アイディアってやつだね、これは!
というわけで、わたしは辞書を引いてまず単語の意味を確定させ、発音がわかるものは音写し、わからない部分は発音記号をそのまま書いた。
一行目を訳すると、こんな感じだ。
『隠されし魔力の痕跡を語れ、我が目に見せよ、世界の理よ』
ちなみに、この「世界の理」っていうのも特殊文字。リートがいうには、エルフ語で文章を書く場合は末尾で韻を踏むことが多いんだそうだ。いわゆる脚韻ってやつね。
で、「世界の理」の音がエルフにとっては行の終わりとして心地よい音とされるそうで、頻出するんだって。
……ほんとに出てきたわ。リートすげぇ!
エルフの知識が豊富なんだね、っていったら地雷爆発間違いないけど。
「世界の理」の発音は〈レンディユース〉で、これは「ユー」のところを高く発音することで意味を弱める効果があるらしい。弱めるってどういうことかっていうと、韻を踏むために採用しただけで意味はそんなにありません、ってことね。
「末尾にあるってことは、これは脚韻を踏むためって考えていいかな……」
すると、ユーを高くする発音だろう。
次の行の末尾は、一部不明な発音記号を含む単語だけど、最後のところは〈シュース〉と読めそうだから、間違いない。韻を踏むためのものだ。
そもそも論として、原初の言語は力があるといっても、ただの文章がそのまま呪文になったりはしない。韻を踏み、同じ音をかさね、意味を強めることで呪文として成立するのだ。……って、リートがいってた。
うーん。
「迂闊に読み上げないようにしないと……」
呪文として効果が出る段階ではないけど、部分でも読み上げたら誰かが聞いてて消えました、なんてことになったら困り過ぎる。
そりゃね? エルフ校長に直訴したら、懇切丁寧に教えてくれると思うよ? でも、ここまで来たら自力でなんとかしたいじゃない。自力っていうか……思いっきりリートに教わってるわけだけど。
まぁそれはともかく。この調子なら、必要な発音記号の洗い出しは難しくなさそうだ。文字を学んだから辞書も引けるし、文意も問題なくとれそうだ。
残る問題は発音になるなぁ、やっぱり……。エルフ語特有の発音、うまくできればいいけど。
「あっ。もうこんな時間!」
わたしは便箋を丁寧に畳んで抽斗に戻し、ファビウス先輩にお茶を入れるべく部屋を出た。
すると、なんということでしょう! 男子は三人で頭を寄せ合って実験室にいた! ……どういうことだってばよ?
「なにやってるんですか。もう寝る時間ですよ。解散、解散」
「……気がつかなかったな」
ファビウス先輩が困ったように微笑んだのには胸がキュンっとしたが、それはそれ、これはこれ! ごまかされはせんぞ!
「でしょうね。皆さん、お風呂は済んでるんですか?」
誰も返事をしなかったので、そういうことだな。
わたしは両手を腰に当て、大きく息を吐いた。ため息〜! そして、吸って〜!
「はい、解散! 今日の疲れは明日に残すな! お風呂で流してらっしゃい、順番に!」
「……毎日入浴しなくてもいいのでは?」
ナヴァト忍者が控えめに尋ねたが、毎日入浴が難しい環境ならともかく! こんな素晴らしい入浴施設があるのに無駄にするのは許しません!
「いいえ、健康のためにも清潔がいちばん。おサボりは許しません!」
「この件でルルベルと争うのは時間の無駄だぞ、ナヴァト。覚えろ」
「覚えました」
「じゃ、俺から行ってくる。ナヴァトはさっきの練習してろ。で、聖女様は癒しの時間を提供するんだな、家主殿に」
さくさく仕切ると、リートは部屋を出て行った。
癒しの時間……。
視線が合うと、ファビウス先輩はやっぱり困ったように微笑んだ。やめろ、キュン死するからやめろー! いやもうほんと好物ですけど! 素晴らしいけど!
「一緒に、お茶を淹れようか。おいで」
……おいで! おいでって言葉にこんな破壊力があるとは知らなかった!




