282 エルフには、言葉を崩すという発想自体がない
古代エルヴァン文字は、エルフが人間との意思疎通のために考案した文字らしい。
気の遠くなるような昔。
エルフたちは、人間と交流を持つべきかについて激論を戦わせたことがあったらしい。だがそれは、一部のエルフが「退屈に負けた」――リート談――ことで、なし崩しにお互いを認知する流れに。
当時、エルフと人間はまったく違う言語体系を使用していた。そこで、まずエルフが人間の言語を学んで覚え、次に自分たちの言語を人間が学べるように配慮した。このときエルフの言葉をあらわすために作られたのが、古代エルヴァン文字だという。
「それって、エルフ同士では言葉を文字にする必要がなかった……ってこと?」
「書いて残す必要がないからな」
「え、手紙とかは?」
「必要ないな。エルフには魔法がある。校長の部屋を見ろ。あるいは、君が渡された叩くだけで転移する紙。あんなの人間の魔法にはない」
「それはつまり……手紙なんか書かないで、直接会いに行ったと」
「そういうことだ」
「本も書かずにぜんぶ覚えてる……」
「その通り」
エルフー!
「無論、文字はあればあったで便利だから、考案後はそれなりに使っている。日記とかな」
「日記」
神秘の古代文字の無駄遣い! いやエルフの日記ならそれも神秘なのか?
「校長の親戚で、秘宝を作った旅行者がいるだろう」
「……ああ、漂泊者ルール……ルールなんだっけ」
「そいつなんか、ものすごく分厚い旅行記を書いてるはずだ。エルフ同士のつきあいが嫌いで話をしたくないから、報告を求められたとき提出するために書いたそうだが」
ちょっとおかしい理由だな! いや、かなり。
「なにそれ……ああ、思いだした。漂泊者ルールディーユスだ!」
「思いださなくてもいいが、そいつの旅行記は古代エルヴァン文字で書かれているはずだ」
なるほど、知っていてもどうしようもない豆知識!
古代エルヴァン文字は、表音文字だ。つまりアルファベットみたいな。日本語なら、かな文字? ただし、特別な何種類かの単語――たとえば〈聖〉とかね――は、特別な一文字であらわす。ある意味、漢字みたいなものね。
特別な文字ってやつは、漢字ほどの数はない。あんなに数があったら、すぐにエルフ校長のところに走って行くよね……短期間に把握できっこない。辞書を引くのだって大変だろう。
幸いなことに、特別な一文字ってやつはそう多くないそうだ。よかった。
「じゃあ、古代エルヴァン文字っていうのは、古代エルフ語を記述するための文字なの?」
「古代もなにも、エルフ語はずっとエルフ語だ」
「……里で会ったエルフは、わたしにもわかる言葉で喋ってたけど……それは気を遣ってもらってたってこと?」
「いや、今のエルフは住んでいる土地に近い人間の言葉を使う」
「そうなの?」
「その方が面白いからな」
面白い……。
「どういうこと?」
「人間の言葉は変化が激しいだろう。百年前の言葉はもうわからなかったりする」
わからない、とまではいわないけどまぁ……意味変わったりするな。
「その変化を楽しんでるってこと?」
「そういうことだ。エルフには、言葉を崩すという発想自体がないからな。人間が言葉を変えていくのが興味深いんだろう」
「興味深い……」
「自分にないものは、新鮮に映るってことだ」
そうだろうけど、我々人間はべつに言葉を変えようと思って変えているわけではないような。言葉なんて変化しない方が古語を勉強しなくても昔の文書を読めて便利だよね!
……この世界の場合、古文書の多くは大暗黒期に失われてるんだけど。
「そういうものなのかな」
「そういうものだ。それに、原初の言語は世界の本質に近過ぎて、迂闊に使うとそのまま魔法になったりする」
「なにそれ怖い」
「だから呪文にもなるわけだ」
なにそれ怖い、アゲイン。いやなるほど……なるほど?
「え、じゃあ呪文って要はエルフ語なの?」
「エルフたちは原初の言語と呼ぶのを好むが、そういうことだ」
「原初の言語……」
「世界創世とともにあらわれた言葉だと主張してる」
エルフがそう主張するんなら、まぁ……それでいいんじゃないだろうか。そもそも、わたしが判断できる問題じゃないし!
「すごく古い言語ってことだけ把握しておけばいいよね?」
「雑にいえば、そうだ。……しかし、基本文法は意外にすんなり理解したな」
褒めている割には不本意そうな顔つきのリートに、わたしは曖昧な笑顔を返した。
だってエルフ語――いや、エルフの皆様に敬意を表して原初の言語と呼ぼう――ってさ……日本語に似てるのよ。文法が。
つまり、英文法みたいな主語述語目的語って並び順じゃなくて、主語目的語述語が基本の語順なのよ。単語の活用の法則とか、重要視する要素なんかも理解しやすい。
たとえばさー、前世日本人だった頃に学んだ英語だと、なんか時制の問題で引っかかった記憶があるのね。日本語ではしないような区別がいろいろあったから。原初の言語には、それをあまり感じない。
一応いっとくと、今わたしがルルベルとして喋っている言葉は、主語述語目的語のタイプ。つまり、現代央国人にとって、原初の言語の文法は直感的に把握しづらいはずなんだ。
前世日本人のわたし、こんなところでメリットを感じるとは! ありがとう日本語!
「うん、まぁ……なんか行けた」
「君は論理的じゃないから、こういうのが得意なんだろう」
……失礼だな! 妙に説得力があるのが、さらに失礼!
「天才的な言語能力を有する、って認めてくれてもいいのよ?」
「誰が天才だ。天才なら発音記号も一瞬で覚えろ」
「……すみません、天才じゃないです」
発音記号はすごかった。
とにかく種類が! 多い!
リートによると、その半分くらいは我々が日常使いしている言語では必要ない記号らしい。
いやそれどうなの? 考えてみてほしい。わたしは日常発声しないような音を大量に練習する必要があるってことじゃないのか? どうなんだ、そのへん!
わかりやすい記号から覚えられるようにと、リートが抜き書きをはじめた。
「……ねぇ、リート」
「なんだ」
「これ、本に載ってるのと微妙に形が違わない?」
「そりゃ手書きだから当然だ」
いや、そういう問題じゃなく……。
あっ! そういえば、リートって円が描けないタイプだった。そうか、抜き書きさせちゃ駄目だ。形が正確にならないぞ。
「わたしが自分で書き写した方が、よく覚えそう。ねぇ、あらためてリストつくるから、どれがどの音か教えてくれながら、一文字ずつ指さしてくれる?」
「なるほど、たしかに自分で写す方がいいな。じゃあ、この紙に」
というわけで、まず「日常使いしている発声で理解しやすい発音記号」から写しはじめる。
……おかしいな。今日から手首が楽になるはずだったのに……また酷使している気がするぞ!
「これは両方とも『ア』だが、上の行のは喉の奥を大きく開いた明瞭な『ア』だ」
「両方とも『ア』?」
「次の行のは、『エ』に近い『ア』だな」
「アエ〜」
「……そうじゃない、そうじゃない」
「エア〜?」
「違う。『ア』とも『エ』ともつかない中間の音だ。いつも使ってるだろう」
「そうだっけ……あらためて意識しようとすると、難しくて」
「女性の名前の末尾に『ア』がくると、だいたいこの発音だぞ。ほら、エーディリア嬢とか」
「エーディリア……ほんとだ、なんかちょっと『エ』っぽい『ア』だ! 意識したことなかった!」
「あまり混ぜっ返すな。覚えなきゃいけない記号はたくさんあるんだぞ」
なるほどそうだね、もうやだ、おうち帰る!
「思いついたんだけど、先に辞書で単語を調べて、どの発音記号が必要かをリストアップした方が効率よくない?」
「……それだと、呪文の内容を俺に話すことに近くならないか? 誓約魔法があるんだろう」
「誰かに聞こえるように読み上げるなっていう禁はあったけど、発音記号を訊くな、なんてなかったよ」
「いや、とにかくまず基本の音だけ把握した方がいい。その上で、呪文本文を読み解くのに不足している発音記号があったら、それをリストアップして俺に教えろ。それなら、第三者である俺が全体の音を把握することがなくなるから、安全だ」
用心深いなぁ。あ、忘れないうちに話しておかないと。
「わたしが読み上げるときは、事前にリートに聴覚切ってもらわないとだね」
「周辺にいる全員の聴覚を切ってやるさ。だからまず、読み上げられるところまで進歩しろ」




