271 ルルベルは999のダメージを受けた!
その夜は、へとへとであった。
へとへとでお茶の準備をし、へとへとしながら中庭で待つ――ファビウス先輩は来ないので、あっこれ駄目だ、なにかに夢中になってるパターンだ……と、理解する。
ひとりでお茶をしても意味がないのだ。夜のお茶会って、ファビウス先輩を寝かしつけるための儀式だからな。呼びに行かなきゃと思ったけど、うっかり一回座っちゃったら、立ち上がれない……。
はぁ〜、今日は疲れたよ。隠密行動のための足音を立てない歩きかたの練習とかさぁ……。リートが、生属性なら聴覚もごまかせるとかマウント取ったから、ナヴァト忍者がちょっとムカッって顔してたし。その流れだと、全力で練習するしかないじゃん!
おかげでずいぶん上達したけど、身体の使いかたをちょっと変えるだけで、こんなに疲れるなんてな。体力だけはあるつもりだったが、入学してからはパン屋の手伝いもしてないし研究室に引きこもってる時間も多いしで、弱っちゃってるんだなー。
「もう、まじ、無理……」
わたしはカウチの背もたれに思いっきり身体を預け、眼を閉じた。
……で、そのまま寝入ってしまったらしい。
気がついたら、向いの椅子にファビウス先輩が腰をかけ、どこか遠くを見るような目つきでお茶を飲んでいた。わたしはといえば、ガチで横になってる上に、超手ざわりの毛布までかけられている始末。
と、ファビウス先輩が視線をこちらに向けた。
「……目が覚めた?」
「申しわけありません!」
飛び起きたわたしに、ファビウス先輩は苦笑で応じた。
「なんで謝るの。疲れ果ててる君にお茶の支度をさせた上、待ちぼうけさせるなんて……悪いのは僕でしょ? ごめんね、ルルベル」
「いえ、いえそんな! あの、毛布ありがとうございます!」
わたわたと毛布を畳んでいると、ファビウス先輩に否定された。
「僕じゃないよ、毛布かけたの。たぶんナヴァトじゃない? 呼びに来たのも、そうだし」
おおう……。さすがナヴァト忍者、なんでもかんでも俺には関係ないと放置しがちなリートとは気の回しかたが違う!
「あの」
「うん?」
「なにを考えてらしたんですか? わたしが起きるまで」
くるくる畳んだ毛布を膝の上に置いたまま、尋ねてみた。だってこう、あんまり見たことがない感じの表情だったから。
「ああ、ごめん。頭の中で計算のつづきをしてたみたいだ」
「計算ですか……? あっ、魔王の出現位置ですね」
「いや、今夜は吸血鬼の方をね。校長先生が老獪というだけあって、次の行動が読めないんだけど……なにか見落としてるのかもしれないし、これまでのことを思い返してた」
でも、とファビウス先輩はまた苦笑する。その顔に疲れが見える気がして、ちょっとドキッとした。
ものすごく不謹慎なことをいうと、いつもサラーッとなんでもできちゃう雰囲気のファビウス先輩に、こういうこの……こう、なに? こういう表情むっちゃグッと来る! ノックアウト済みのわたしを、これ以上ぶっ倒してどうするおつもりなんですか!
……なんてことはともかく。
「もうやめるよ。休まないと、叱られちゃうからね」
「そうですよ」
全力で同意したけど、なにかを「考えない」のは難しいことだって知ってるから。
ほかの話題を提供しなきゃ……なにがいいだろう?
「シェリリア殿下って、子どものときはどんなかただったんですか?」
「……急に、どうしたの?」
無理やり捻り出した感すごい! だって、無理やり捻り出したから!
わたしも寝起きなのである。ただでさえ回転の悪い頭が、さらにのたのたしているのだ。諦めるしかない。
「え、っと、ファビウス様の子ども時代ってどんなだったのかなぁ、って思ったんです。お姉様と遊ばれることもあったのかな? とか」
「姉とは少し、歳が離れているからね。僕は、ちょっと遅れて生まれた弟だから。姉はもう淑女としてのふるまいが身についていて、会う機会も多くはなかったし……あまり相手にされなかったな」
「そうなんですか?」
えー。ちっさいファビウス先輩、むちゃくちゃ可愛いだろ! 可愛いしかないだろ! 国宝級の可愛いのかたまりに決まってるだろ! しかもその頃から魔性の萌芽がちらちら見えたりするに違いないよ!
……想像して興奮してしまったではないか。わたしよ、落ち着け。
「年頃の女の子にとって、年下の男の子って面倒なんじゃない?」
「わたしにファビウス様みたいな弟がいたら、絶対、かまい倒す自信があります!」
「そういえば、ルルベルは弟がいるんだったね」
「はい。伸び盛りですし、次に会ったらもう全然可愛くなくなってるかも……」
弟の方のリートが父や兄のような分厚い体型になっているところを想像し、わたしのテンションはだだ下がった。いや、筋肉は筋肉で悪くはないが、弟はずっと弟でいてほしい。
「そうだなぁ、姉にとって僕はそんな感じかもね」
「そんな感じって、どんな感じです?」
「次に会ったら、もう全然可愛くなくなってた」
「ファビウス様は可愛いですよ!」
おっと。思わずエキサイトしてしまった。
わたしの勢いに面食らったファビウス様の表情が……ほらぁー! 可愛い! はい優勝!
「それは……ありがとう?」
「すみません、ちょっとあの……ご不快でしたか?」
「いや、君の評価はなんでも受け入れることにしてるから」
菩薩か!
「いやいや……」
「姉と僕は、こんな風に気安く言葉をかわせる間柄じゃないよね。仲が良くはない。でも、仲が悪いわけでもない。よく考えてみると……互いをよく知らないってことなのかもね」
姉と弟なのに? という言葉を、わたしは飲み込んだ。
下町のド平民とは違うのだ。住んでいるところは王宮で、会わずに済ませようと思ったら何日でもそうできる。顔を突き合わせずにはおれないような狭い家で一緒に暮らしているわけではないのだ。
「高貴なお生まれのかたがたって、大変ですね」
「君の家に行ったとき、こういう場所で育ったんだなと思って……なんだか、愛おしかったな」
ぐはぁーっ! ルルベルは999のダメージを受けた!
なにこの……直接的な告白とは別種の大打撃!
「そ……そうですか」
「ご家族もだけど、まわりのひとたちにも好かれてるんだなって思った」
……いやいやいやいや。ファビウス先輩、それは誤解です! あのとき、近辺の女性全員の心をあなたが溶かしただけであって! いつもあんなじゃないです!
斜向かいのグレンジャさんみたいな、周りに文句をつけるのが生き甲斐みたいなひともいるわけでございますし! 退治してもらった、粘着質の客みたいなのもいるし! ……いやでも、あのお客には好かれてはいたのか。いたのかもしれんな。ようわからんけど。
「たぶん、僕は疲れてるんだな」
「そうだと思います。……肩でも揉みましょうか?」
わたしの提案に、ファビウス先輩は儚げな笑みで答えた。
「やめた方がいいと思うよ。こんな夜更けに、無防備に近寄るのは」
「えっ……と……でもアレですよ? わたしが叫んだら、たぶんナヴァト様が飛んで来ます」
「リートじゃなくて?」
「リートは来ません。賭けてもいいですが、あー……今わたしが『賭ける』といってしまったから、逆に来るかも……。で、『来ます』っていったから来るのをやめる方向で考え直しそう」
真面目にリート・シミュレーションを進めたところ、ファビウス先輩が吹き出した。
「なにそれ」
「まぁ、基本的にはこんなことでは来ないですよ」
「こんなこと、ねぇ……」
「つまり、わたしが命の危険にさらされるとか、そういう事情なら来ますよ。ファビウス先輩とその……イチャついてるだけだと判断したら、来ません」
「なるほど。ナヴァトは違うの?」
「ナヴァト様はお役目に忠実でいらっしゃいます。ですから、わたしが叫べば来てくださると思います」
「僕はちょっと違う意見だな」
そういって、ファビウス先輩はずっと手にしていたカップを置いた。
こういうなにげない所作が、すっごい綺麗なんだよなぁ。なにがどう違うのかわかんないけど、わたしがカップを持ったり置いたりしても、綺麗〜! とはならない。絶対に。
「どう違うんですか?」
「ナヴァトは君が呼ばなくても近くにいると思うよ。ほら、そこの茂み。……ルルベル、命令して? 姿を見せろって」
「……ナヴァト様、いらっしゃるならお姿を見せていただけますか?」
ファビウス先輩が視線で示した先、ゆたかな緑の輪郭がゆらっと揺れて人影が生じたの、見た目はホラー、実態は忍者!




