25 エルフ校長のありがたい申し出
絶句したわたしを、エルフ校長は黙ってみつめている。
あたたかく見守っているようでもあり、それでいて――見極められているようにも感じる。この小娘に、どこまでまかせられるのか、と。
まかせないわけにはいかないのだ。聖属性に目覚めているのは、現状、わたしひとりなのだから。
わたしはカップをソーサーに戻した。音が複数回鳴って、手がふるえていることを自覚する。ええい、鎮まれ、俺の右手!
「どこに? どれくらいの規模で、でしょうか」
「リシュテンの峰――は、わかりますか」
「はい。北の大壁の中央近くにある霊峰、ですよね?」
北の大壁とは、はるかな昔に建造された巨大な壁のことだ。誰が築いたのか、なんのためだったのか、すべてが謎。おそらく魔王とその眷属との戦いのためだろう……と、いわれている。
なんらかの保護魔法がきいているらしく、今も聳えつづける壁は有名だが、もちろん、ルルベルは行ったことがない。知識としては、知っている。おとぎ話なんかには、よく登場するからだ。
「まだ壁の向こうですが、どうやら強力な眷属らしく、あたりの魔物の動きに統制がとれてきたという報告が上がっています」
魔物とは、魔王の眷属とは、なにか。いや、そもそも魔王とは?
昨晩途中まで読んだ、聖属性魔法使いを網羅する本のおかげで、今なら少しは答えられる。
原初、世界は混沌の海からなっていた。混沌のうねりは全体を均質に混ぜていたが、悠久の時の流れを経て、その中で凝ったものがある――それが、魔。反対に、澄んでいったものがある――それが、聖。
混沌の海はやがて陸地をなした。陸地は凝ったものであるから、本質的には魔だ。残された海は、聖の領域。
でも、陸地をなしたことで魔はその形質を失い、地中に溶けて消えた。同様に聖もまた、ゆっくりと蒸発していったはずだった。
それでも、聖と魔の属性はこの地上のすべてのものに微量に含まれている。数多の命が生まれては死ぬことが、ふたたび、混沌の海と同じような現象を誘発させる。
つまり、魔が凝るのだ。こうして出現するのが、魔物。多くは微量の魔によって形成された、弱く儚い存在に過ぎない。
「眷属の種類は?」
「はっきりしたことは、まだ。ただ、吸血鬼のたぐいではないかと推測されています」
魔物は、単体では大した脅威ではない。うっすらとした幻に過ぎないし。
それが魔王の眷属の影響下に入ることで実体を得、知性を高め、群体として行動するようになる――と、本には書いてあった。
魔物だけなら無害なのに魔王やその眷属が出てくると有害になるのは、魔王の性質にある。考えようによっては気の毒な話なんだけど……魔王って、生まれたくなかったらしいんだよね。
存在したくないのに、世界の強制力で出現する。だからもう、この世界なんてぶち壊したいと思っている。べつに支配とかしたいんじゃなくて、ただ破壊したい。それが魔王の生得的衝動――と、これも本に書いてあった。
ついでにおさらいしておくと、聖属性魔法使いの方は、世界が存続しつづけるために、魔王へのカウンターとして生ずるのだそうだ(前にも書いたが、これを聖魔均衡論という)。
「吸血鬼って……かなり高位の眷属だと本に……」
ジェレンス先生に課された本で読んだ知識によれば。
世界を滅ぼしたい魔王は、封印がゆるんでくると眷属を生み出す。眷属は魔王の一部であるとする論と、完全に別の自由意志をもって動く存在だとする説があるが、まぁどっちにせよ、やばい。
巨人 (デカくてやばい)、魔獣(身体能力がやばい)などは単体でも戦闘力が高い。それから、知恵がまわる魔人族。数多の魔人族の中でも、ひときわ強烈なのが吸血鬼。魔物だけじゃなく、人間も部下にくわえることができちゃうからな!
「そうです。前回も、かなり手こずらされた相手です」
さらっと前回とか……エルフ校長、長生き美形なだけじゃなく、歴戦の勇士じゃん。すごい。……ああ、人物評にも語彙がたりない。
「高位の眷属が生まれているということは、封印がかなりゆるんでいる、と理解して間違いないですか?」
「ええ、そうです」
こっちは魔法学園に入学したてで、実技の実施に至るレベルにない……っていわれてるのに、向こうはそんなかぁ。
転生コーディネイター、もうちょっとタイミングを調整できなかったの? これ、マジのガチでやばくない?
「校長先生……わたし、間に合うんでしょうか」
エルフ校長は、優雅に微笑んだ。
「あなたにその気概があって、僕は安心しました」
「……え?」
「聖属性に目覚めたからといって、魔王や眷属と戦う必要はないだろう。そういって、逃げだす者も少なくはないのです」
まさかそんな。
「でも、本には――」
「本に残るのは、おのれの責務をまっとうしようとした勇敢な魔法使いの事績のみですよ」
……なるほど。
深く納得しちゃったよ、なるほどー! えっ、でも逃げるってアリなの?
「わたしが逃げたら魔王が暴れ放題になるんじゃないですか?」
「ええ」
エルフ校長の儚い微笑みが、胸にくる。こう……なんか、くる。
「ご経験がおありなんですね、先生は」
「聖属性魔法使いが頑張ってくれる時代ばかりではないですね」
何百年も生きているらしいエルフ校長の口から出ると、重たい言葉だ……。きっと、おびえて逃げた魔法使いにも遭遇したんだろうなぁ。
「そういうときは、どうなるんですか?」
「凡人たちが、持てる力を結集して戦うのみです。最近では、大暗黒時代がそれにあたりますね」
「ああ、あの……国がたくさん滅びたやつ」
聖属性魔法使いの取り合いで、最悪の結果を招いちゃった件だ。
「そう。たくさん、たくさん滅びました。……ルルベル」
「はい」
「それでも僕は、なによりもまず、自分の幸せを選んでほしいと思っています」
「わたしの……幸せ、ですか?」
思わず、口ごもってしまった。
幸せって、なんだっけ?
「ええ。義務感で厳しい戦いに赴いた者を、僕は知っています。あるいは、罪悪感を抱いて。脅迫されて、魔王のもとへ向かった者さえいるのです。そういう戦いかたを、僕はもう見たくはないのです」
えっ。ちょ……。待って。待って待って、聖属性魔法使いの歴史、重過ぎない?
わたしなんて、こう……アレですよ。乙女ゲームっぽいイケメンがたくさんいる世界に転生したいですぅって、なんの考えもなく口走った結果、やる気を出した転生コーディネイターが……っていうのが前世的な事情で、これだってたいがいだ。うん、ひどい。
でも、今を生きるルルベルの方だってねぇ。パン屋の娘に降ってきた大チャンス、やった、平民脱出の予感! ……そんな感覚でいたもんね、入学するまで。
魔王と戦わなきゃいけないなんて、転生コーディネイターにいわれるまで気づいてなかった。
そんな深刻な話、急にされても!
どう答えていいかわからず黙っていると、エルフ校長はわずかに上体をかたむけて、ささやいた。
「だから、あなたが姿をくらませたいというなら、手助けする準備があります」
そういうことか、とわたしは得心がいった。
魔王の眷属が目撃されたという情報を、わざわざ、こんな邪魔の入りようがないところまで連れて来て明かしたのって。わたしが望むなら、今すぐ逃してくれようという心遣いなんだ。
やっぱり推せるなぁ、エルフ校長……。
そんな想いを噛み締めつつ、わたしは正直に話すことにした。
「ありがとうございます、校長先生。ご親切なお申し出に、心から感謝します。でも、わたし……まだ、わからないです」




