235 す……つまり、『す』です
「あの……」
近いって。見るなって。もうほんまに無理やって!
ファビウス先輩はわたしの前髪をかき上げ――いやこれがまた無理やって! 前髪上げないでほしいって! マジで!
「少し血が滲んでる……ほんとにごめん。やっぱりリートを呼ぼう」
「リートはこういうの不得手じゃないかと思います。他人の身体制御はどうとか、いってましたよね」
ここは譲れなかったので、わたしは急にハキハキと喋れるようになった。ありがとう、リート!
「……そうか。自分の傷ならすぐ治せても、他人のは別種の訓練が必要なんだろうな。そういえば、治療に関する魔法は生属性の中でも操作が難しく、専門性が高いと聞いたことがある……生属性といえば、一般的には治癒促進とされていることを考えると、意外ではあるけど」
さすが反応が魔法オタク。……じゃない、研究員。
「たぶん、自己強化の方が簡単なんでしょうね」
「リートは総演会ではなにをやってたんだっけ?」
「総……。あー、たしか豆の成長でしたよ。えっと、総合魔法……演習会?」
「惜しい。総合魔法実技演習会だね」
笑顔が近い。と思った瞬間、ポタッ、と音がした。
……ポタッ?
それで気がついた。ファビウス先輩の髪、濡れてるじゃん。これ、湯上がりじゃん! うぼわー! っと、脳内に変な悲鳴が響き渡った。発声しなかったのが、せめてもである。でも、こんなん、うぼわー! としかいいようがないじゃん!
「ファ……ファビウス様、御髪が乾いてません!」
「ああ、すっかり忘れてた」
よっぽど念入りにお手入れしてこその、つやっつや! かと思ってたら、違ったのか。あのサラツヤ髪、自然乾燥で実現してたの……なんかこう、絶望的な気分だよ。もっと頑張ってほしい。頑張ってるから綺麗であってほしい。天然自然に綺麗だなんて!
「早く乾かさないと、風邪ひきますよ」
「残業禁止令だけじゃなく、風邪禁止令も出すの?」
「禁止できるなら、もちろんです。風邪をひかれると困ります」
「僕の方がずっと困ってるよ。額に傷をつけてしまうなんて……」
「そんなの、全然です。明日まで傷が残ってるようなら、ウィブル先生が解決してくださいますよ。また保健室に来るようにいわれてるので、そのときにでも」
「そう? じゃあ、それまでなんともないように」
そういって、ファビウス先輩の顔がぐっと近くなり……えっ。
えーっ!
デコにキ……キ……キ、スされ……たよね? されたよね、今のそうだよね?
呆然とするわたしの頬に、ファビウス先輩の髪から水滴が落ちて。一瞬遅れて、ぽろっ……と流れた。
「い……今、なにを」
「おまじない。痛くないように。あと、早く治るように。……嫌だった?」
びっくりしてるけど嫌じゃないから困っている!
むしろ、うっとりしそうで困っている!
わたしの中の下町庶民が「てめぇは聖女なんだから聖女の仕事をちゃんとしろ、色気づいてんじゃねぇぞ!」と叱ってくるのだが、その声に耳をふさいで、このまま……このまま?
このままどうしようというのだ、ルルベル!
「こういうの、駄目です」
「……うん」
それまでちょっと調子に乗ってた感じのファビウス先輩が、急にしょんぼりした。
可愛いけど、駄目だぞ!
「わたし、隠しごとができないって、ファビウス様にいわれてますけど、その……だから、正直に申し上げます」
「なんでもいって。覚悟したから」
「経験も浅いし、これがほんとにそうか、わからないんです。でも、たぶん、ファビウス様がその……す……つまり、『す』です」
ファビウス先輩が、眼をしばたたいた。今のアイカラー、濃いめの紫で魔性マシマシである。
「す……?」
実をいうと、下町ならこれで通じる。ファビウス先輩の反応を見るに、上流階級では通用しない表現みたいだな!
ほっとしたような、残念なような……いや残念じゃないぞ、ルルベル!
「身の程知らずなことで、たいへんな失礼を申し上げていることはわかります」
「いや、そんな――」
「だけど、それ以上に……いえ、それ以前の問題なんです。駄目なんです」
「――って……どういうこと?」
当惑気味の声がまた可愛いけど、駄目だからな!
「今日、ウィブル先生と話したんです。聖属性魔法使いだから聖女として生きなければって思ってたら……もう、そう生きるしかないって。ほかの人生は選べないって。それは窮屈だし、大変なことでもあるとは、わかってるんです。でも、わたし……役に立ちたいんです。自分がこの力を持って生まれたことに、意味を感じたいんです」
「……うん」
「だから、わたしは聖女としてのつとめを重視したいです。今はそういう、その……れ……恋愛的な? そういうものに、現を抜かすわけにはいかないんです」
「それじゃあ、いつならいいの?」
「え」
思わぬところから攻め込まれてしまったわたしは、当然、答えなど持っていない。
「魔王を封印できたら、って思ってる?」
「ええと……はい、まぁそうですね」
「聖女としての大変さって、魔王を倒しても終わらないと思うよ」
「はい……」
そういう話、ずーっとしてるよな。実際、舞踏会に出てから実感してはいる……聖女っていう看板かけて生きるの、難儀だなって。チャチャフが来るんだ、チャチャフが!
「いつなら許してくれるの?」
「……とにかく、魔王を封印するまでは駄目です」
「何年かかると思ってるの? 魔王封印」
「え」
またしても、意識の範囲外から問題を指摘されてしまった。
何年? わかんないよ、そんなの!
わかんないよ……。
もしかして、おばあちゃんになるまで達成できなかったりするのかな。そうだよな、その可能性もあるよな……っていうか、死ぬまでできないかもしれないし。そもそも、魔王や眷属との戦いを生き延びられる保証もない。それどころか、人間に殺されるって線もある。大暗黒期という立派な前例があるからな!
「今じゃ駄目なの?」
「駄目です」
「……そこは迷いがないんだね」
ファビウス先輩は、大きく息を吐いた。それから、まだ湿っている髪をかき上げる――うっへぇ、色気指数が馬鹿上がりですぞ! USSRですぞ!
……なんて、ふざけたことを思ってる場合じゃないんだけど。
よく考えると、勢いまかせでわたしはなにを口走っているんだ。急に正気に戻ったというか、いわゆる賢者モードになっちゃったよ。
よし、今だ。今なら、いえる!
「ありません。なにより、吸血鬼が王都で犠牲者を増やしている今、そんなことは考えられません。わたしは……わたしにできることは、なにもないのかもしれませんけど、でも、優先順位を間違いたくないです」
「……そんな風にいわれたら、どうしようもないじゃないか」
「どうもしなくていいです。ただ、その……」
「なに?」
「距離が近いです」
もう一回、ファビウス先輩はため息をついた。ちょっとせつなげで、ぐっと来る感じのやつだ。天然魔性怖い。
「……じゃあ、一回だけいい?」
「な、なにをでしょう」
「君を抱きしめても、いい?」
「駄――」
答える前に、ぱふっと顔に服が当たった。つまり、ファビウス先輩の。あと、湿ってる髪も。いい匂いがする。背中に手が回されて――でもそれは、限りなくやさしくて。なんだか、壊れものを扱ってるみたいな、そんな力加減。
「駄目、以外の言葉も聞かせてほしいな」
耳元でそんな声がして、このひと、今まで何人くらいこうやって抱きしめてきたんだろうなぁ……なんて考えちゃって、ますます賢者モードが深まった。なんかこう、悟りを開きそうだよ。
「駄目です」
「……残念だな」
「わたしがその……それだからって、調子に乗らないでください」
貞操観念はあるんだからな! なにかしようってなら断固拒否だからな!
「そんなの無理だよ」
「ファビウス様ならできます、絶対。だって、信じて、たよっても……いいんですよね?」
「……今、それを持ち出すんだ?」
そういって、ファビウス先輩はわたしの背中にまわした手をほどいてくれた。
わたしはじわじわ後退して距離をとると、おやすみなさいの挨拶をした。
「では、休ませていただきますね。ファビウス様も、髪をかわかしたら早く休んでください」
なにかいわれると困るので、さっと踵を返して部屋に戻った。
あ〜……抱きしめられるって、こういう感じなんだなぁ。なんか、幸せっていうより……泣きたい気もちだけど、なんなんだろう、これ。




