210 くっそ怖いけど待っててシスコ、今行く!
嘘。嫌だ。無理。
そんな言葉が頭の中を駆け巡る。
だって……受け入れられない。そんなの嘘。絶対、嫌だ。ほんと無理!
「落ち着きなさい」
立ち上がったわたしに、ウィブル先生がそう告げた。
……責めるのでも、怒るのでもなく。ただ、止められた。
「……で、……でも先生」
「今、あなたに必要なのは冷静さよ。もしシスコちゃんのことが心配なら、まず、問題を切り離しなさい。感情から。後悔は、後回し。焦りは消しなさい。よりよい結果をみちびくためには、そうなさい」
厳然たる口調でいわれてしまえば、わたしは椅子に座り直すしかなかった。
そう……動揺しても、なんの役にも立たない。だけど、そもそもわたしって、なんの役にも立たなくない? だったら動揺してもよくない? ああもう!
「なにが……なにができるでしょうか、わたしに」
「今は、特になにも。ただ、観察しなさい。現段階ではなんともいえないけれど、シスコちゃんの姿が見えない原因があなたにあるなら、相手はあなたがどういう反応を見せるかを観察したいはずよ。接触を試みる可能性もある。だから、しゃんとして。なにも見落とさないようにするの」
「はい」
「強張った顔しない。笑顔は得意でしょ? ――ここが、店だと思いなさい。あなたは聖女という商品を売るために、ここにいるの。客に値踏みされるだけじゃ駄目。こっちも値踏みするのよ。ただ、相手に悟られないようにね。うんと高く売りつけなきゃ。あなたの価値が高くなるほど、あなたの周りの人間にも価値が出る。意味、わかる?」
わたしが黙っていると、ウィブル先生は静かに告げた。
「死にづらくなるってことよ。はっきりいえばね」
「……それは、つまり」
「利用価値が高いものなら、簡単に壊したり捨てたりしないわ。相手が損得の理屈で動くことを期待なさい。それなら戦いようがあるから」
これがリートなら、い・い・か・たー! ってなってたところだ。
でも、そうじゃない……ウィブル先生だから、考えてこの表現を選んでるんだろう。敢えて、突き放してるんだ……わかるけど……わかるけど、こんな状況で笑顔をキープするのは難しい。
……難しいだけで、無理じゃないけどな! パン屋の看板娘、舐めんなよ!
「戦えますか、わたし」
「大丈夫よ。ルルベルちゃんは、ひとりじゃない」
うん。
わたしは、パン焼きの腕では父に認められることがなかった。でも、売る方は信頼されてた。まかされてた。
だから――そういうことだよ。
できる。わたしは、わたしができることをやるんだ。
「ありがとうございます、先生」
「お礼をいわれるようなことは――ちょっとジェレンス!」
ウィブル先生の横に、ジェレンス先生が出現した。つまり、〈無二〉がいかにも〈無二〉らしいふるまいをしているわけであるが、まぁそれはともかく。
「みつかりました?」
おっといけない、見られてることを意識しなきゃ……もっと落ち着いて……。
でも、どうだろう? 動揺してるほうが、わたしにとってシスコの価値が高いって思わせることができるんじゃない? いや、程度問題かな……あんまりおろおろすると、足元見られるんだな、きっと。
くっそう、難しいな!
「遮音」
「してあるわ」
ジェレンス先生の要求に、ウィブル先生が即応した。なんかもう、阿吽の呼吸って感じだな!
「ファビウスは、まだ戻ってねぇのか?」
「まだよ。どうしたの」
「ルルベルと、呪符がほしい」
「……どういうこと」
「吸血鬼だ」
「校長は?」
「もちろん出てる。だが、相手が吸血鬼本体じゃねぇんだよ」
「あんたも手を出しづらいっていうと……生徒?」
「そういうことだ。ルルベルと呪符があれば、浄化で無力化できるだろ」
「連れてってください! 浄化だけなら、呪符がなくてもできます!」
思わず叫んだわたしのおでこを、ぴーん! と、ジェレンス先生の指が、はじいた。
「いっ……」
たたたたたたたたたーっ! 涙目になる痛さ! なにしてくれちゃってんのー!
「浄化だけで済むと決まってるわけじゃねぇんだよ。おまえを連れ出すのを、本体が待ち構えてるかもしれねぇだろ。呪符があれば、おまえの出力を上げるのに役立つだけじゃなく、俺でも少しは聖属性が使えるようになる。とっさの対処も可能になるんだよ。……しかたねぇ、ファビウスも探してくる」
「そんなに複雑な呪符なの?」
言外に、あんたでも描けるでしょといわんばかりのウィブル先生である。そういや、特訓はじめたときの誓約魔法の呪符って、ジェレンス先生が準備したんだっけか……。
「うろ覚えでやって、ルルベルに怪我でもさせてみろ。取り返しがつかねぇだろ。ファビウスにやらせるのが確実だ」
「そうね。……あ、本人が来たわよ」
ホールから休憩室に戻って来たファビウス先輩は、わたしたちの雰囲気を敏感に察したらしい。早足に近寄りながら、尋ねた。
「どうかしたの?」
「聖属性の呪符が必要なの。描ける道具、持ってる?」
「描いたのを持ってるよ。十枚くらいだけど。もっと必要?」
あっ、やばい……ファビウス先輩に後光がさして見える……ただでさえキラキラしい存在なのに!
ファビウス先輩が上着の内ポケットから出した紙束を、ジェレンス先生が掴んだ。
「よし、じゃあ行ってくる」
「ちょっと待って、いったいなにが――」
「ウィブル、おまえルルベルの抜け殻作れ」
「なにいってんの、そんな急にできるわけないでしょ」
……抜け殻ってなに?
と思う暇もなく、わたしの腰にジェレンス先生の手が回された。
えっ。
これはつまり、〈無二〉的な移動手段にわたしも巻き込まれるということですね、なにがどうなるかは知らんけど!
知らんけど……まぁいいか、それでシスコを助けられるなら! 望むところだ!
「リート、おまえは自力で来い。図書館の裏手だ。見当たらなかったら探せ」
「了解」
「行くぞ」
さすがに今回は、毛布でくるまないんですね! つまり、ふつうに飛ぶわけじゃないんですねーっ!
くっそ怖いけど待っててシスコ、今行く!
ひゅんっ!
世界がふっとんで
なにも
ない
そして復活!
うわぁ、なんだ今の、なんなの今の!
「ルルベル、呼吸しろ」
えっ? あっ、わたし呼吸してない、く……くるしい!
いやだから呼吸するんだ。呼吸……こ、呼吸ってどうやるんだっけ?
あらためて意識すると難しいのが、不随意運動――つまり、ふだんは無意識にやってる身体操作だ。呼吸は、その中では随意にもおこなうものだから、まぁ、なんとかなるけど……これ、呼吸以外にもあっちこっち齟齬が出ててもおかしくなくない?
虚無だったぞ。
わたしは虚無を通過したぞ。あるいは虚無に通過されたぞ。ようわからんけども、なんか消えたぞ、なんかが! 世界が消えた気がしたけど、実はわたしが消えていたのでは?
「大丈夫だ、なにも心配ない」
「いやだって……虚無でしたよ先生」
「呼吸は戻ったな。よし。静かにしろ」
そうだ、それどころじゃないんだった!
わたしたちがいるのは、木立の中。あたりはもう、真っ暗だ。
講堂の方から楽の音が響き、たまにあざやかな光が建物からあふれるのまで見える。
でも、ここは暗い。ほんとうに、暗い。
その闇の奥から、歌うような声がかすかに聞こえた。木々の葉がざわめき、下生えの草が風もないのに揺れ、ひとつの方向へぐんぐん伸びていく――エルフ校長の魔法だ!
「巨人のときと同じ要領だ。俺がおまえを必要な場所に運ぶ。おまえは呪符を使って力を増幅させろ。十枚しかないからな、一枚ずつ渡す」
「はい」
「それと、これ改良型だな……円がほとんど描いてあって、ちょっと結ぶだけで完成するぞ。前回よりずっと楽だな。あー、ペン忘れた。魔力でやれ、魔力で」
えっ……魔力で呪符を描く練習は……やったけど……感知できない状態でやるの?




