187 可能性だけならつねに無限大
目が覚めたら夜になっていて、ひとりで、お腹が空いていた。
ナイトテーブルに灯る魔法の光の下に、メモが置いてある。署名はシスコで、寮母さんの許可がとれたら戻って来るけど無理かも、でも明日は絶対にお泊まりするから待っててね――と、書かれていた。
マジ女神。
「泣いちゃったかなぁ」
なんとなく、目元がガビガビしてる。泣きながら寝入った記憶はないんだけど、自覚してなかっただけで、メソメソしたのかもしれない。シスコには、みっともないところを見せてしまった。
……一端の大人のはずなのにな!
わたしは起き上がり、用意されていた部屋着に着替えた。制服の替えも……置いてある。至れり尽くせり過ぎて、怖いくらいだ。今着てるやつ、本格的に型崩れしちゃってるし、助かるけど。
思わず、ため息が漏れてしまう。
水差しからコップに水をそそいで、ひとくち。甘くて美味しいなぁ、と思う。
「ありがたい……」
そう思う。そう思わなきゃ、って思う。恵まれている。気遣われている。
また、ため息が漏れて。わたしはコップを置き、部屋を出た。
構造上、部屋を出ると中央にある円形の中庭が見えるわけだけど、今日はそこに――ファビウス先輩がいた。カウチで、うたた寝をしているようだ。
……えっ、風邪ひいちゃわない?
わたしは慌てて中庭に出た。いつもの超手触り毛布がオットマンの上に畳んで置いてあったから、それを広げて。えっと……いや、毛布かけるより起こした方がいいのかな。
ここは空調? っぽい魔法が、ある程度は効いてるけど。だからって、本格的に寝入ってもいいほどは、あたたかくない。
眠るファビウス先輩を見下ろして、わたしは迷ってしまった。
たぶん、起こすべきだとは思う。でも、ファビウス先輩の顔が、とても疲れて見えて。それに……。いや、迷っている暇があったら、とにかく毛布をかけよう!
決心して肩から毛布をかけようとした瞬間、手首を掴まれた。
「えっ」
「……あっ」
お互いに、間の抜けた声をあげてしまった。なお、「えっ」の方がわたし。……どうでもいいね!
ファビウス先輩は眼をしばたたいて、すごく小さな声で尋ねた。
「夢?」
寝ぼけてる! 完全に間抜けな感じのファビウス先輩って、むっちゃレアだな。スーパー・スペシャル・ウルトラ・レア!
「あの……起こしてしまって、すみません。このままじゃ、風邪をひくと思って。あとその……手を」
「手」
まだ寝ぼけているのか、ファビウス先輩は動かない。掴まれたままの左手首には、ひんやりした感触――ええー、大丈夫なの? ファビウス先輩の手、ひえっひえだよ。
「……ごめんね」
「はい?」
「すごく怒ってたって。シスコ嬢に叱られた」
「いや……えっと、はい」
ぱっ、と手がはなれた。ファビウス先輩は座り直し、わたしにオットマン兼用スツールみたいなやつを勧めてくれた。
「よかったら、そこに座って。そして……君が嫌でなければなんだけど、直接、叱ってほしい」
冗談かと思ったけど、顔がマジだ。あと美形。今さらだけど。
マゾですか? と口走りかけたが我慢した。なお、この世界にはマゾッホさんは存在しないから呼び名は違うが、そういう概念自体はあるよ。サドも同じく。
「叱られたいんですか」
「うん。……いや、叱られたいわけじゃないけど、君の言葉で聞きたいんだ。間接的に聞かされるんじゃなくて。そして、理解したい。そうできるなら」
なるほど。なんだこの人格者。マゾとかいって、すみませんでした。
「わたし、文句をいえる立場ではないです」
「どうして?」
「だって――」
一旦、言葉を切って。わたしは、あたりを示すように手を動かし――必然的に、毛布をふりまわすことになってしまった。もうちょっとで、ファビウス先輩の頭をはたくところである。危険。
それでもファビウス先輩は動じることなく、静かに問い返した。
「だって?」
「――だって、こうしてお世話になってますし。この研究室に匿ってもらって、王室とか、そのほかの政治的な勢力とかから、守ってもらってますし。巨人対策だって、ファビウス様が用意してくださった呪符があったからこそ、わたしもお手伝いができただけで」
そう。すごく役に立った気になってたけど、巨人対策にはすべて前提条件があるのだ。ファビウス先輩の呪符、という。
ファビウス先輩はわたしをまっすぐに見て、こう告げた。
「君だから、呪符の効果が高かったんだ。ほかの誰かでは、無理だったはずだよ」
「でも、ジェレンス先生がいれば巨人の捕縛くらいは問題なくできました」
「穢れの浄化は、彼には向いていない。大勢の魔法使いがかかりきりになって、呪符も何十倍も用意しなければならなかっただろう。非現実的だよ。君はすごいことをやったんだ。東国の人間を、どれだけ救ったかわからない」
「……そうだとしても、わたしひとりの手柄じゃないです」
「人間がひとりでできることなんて、限られてる。君だけの話じゃない。共通の目的のために協力するのは、当然のことだ」
どこまでも冷静に正しく答えてから、ファビウス先輩は口をつぐんだ。
暫しの沈黙ののち、不意にファビウス先輩は立ち上がった。わたしの横を通り過ぎて、あ、これこのまま部屋に戻る感じか! と思ったら。
「……あの!」
「なに?」
思わず呼び止めてしまった……なんで呼び止めたのかと問われても、答えられない。
捻り出したのは、こんな言葉。
「……まだ、叱ってません」
ファビウス先輩は、微笑した。
「やっと叱ってくれる気になったの?」
「いえ、べつに……叱りたくはないんです」
「そう? じゃあ、表現を変えようか。話してくれる気に、なった?」
話す……。それなら、いいかな。
そう思って、こくんとうなずくと、手をとられた。
「じゃあ座って、お姫様」
絶妙な力加減で、さっきまでファビウス先輩が座っていたカウチの方へ追いやられる。このリードされる感じ、上級者! って思っちゃうな。なんの上級者かはわからんけど。上級者!
でも、わたしはなんとか踏みとどまった。
「ファビウス様が、こっちに座っててください」
「なんで?」
「脚が長いからです」
オットマン的なやつだと、ほら……ファビウス先輩の脚が、余るんだよね!
ファビウス先輩はちょっと面食らったような顔をして、それから笑った。楽しそうに。
「わかった。じゃあ、こうしよう」
って、なんでふたり並んでカウチに座ることになっちゃうのかなぁ! まぁ……真正面から顔を見るよりは、並んで座る方が、話しやすい可能性はある。可能性だけなら、つねに無限大。
そして、ファビウス先輩の手は、相変わらず冷たい。
「手がすごく冷たいです」
「君の手は、とってもあたたかいね……まだ握っていてもいい?」
……断れないじゃん、この流れだと!
「やっぱり、お部屋に戻ってお休みになった方がいいんじゃないですか」
「君の話を聞いたらね」
「……ファビウス様って、交渉がお上手ですよね」
「下手でいるわけには、いかなかったからね」
あああ、なんか重たい過去を背負ってそうな発言だけど、まぁ! そのへんは! 無視させていただきまして!
「それじゃあ、お話ししますけど」
「うん」
「なんだったんですか、あれ。シェリリア様の」
「君に庇護を与える、ってやつ?」
「その交換条件として、ファビウス様はなにを差し出したんですか、って話です」
「特には、なにも」
しれっと! レア度そこそこの綺麗な横顔で、しれ〜っと!
「そんなはずないです。だって、撤回は許さないとか、高くつくとか……」
「大部分は、君も知ってる事情だよ」
「……わかりません」
「王位継承権を放棄したって話」
……えっ。
わたしはちょっと考えた。東国の王位継承権って……どうなってんの? ぶっちゃけ庶民にはわからんのだけど……前世知識で考えると、結婚したからってもともとの王室の血筋にまつわる諸権利がぜんぶなくなるってわけじゃなかったような……この世界でどうかは知らん。
「それが、シェリリア様にとって重要なことなんですか?」
「央国とは、継承順位のつけかたが違うからね。央国の王室は、女性でも男性でも長子が優先されるだろう? だから、今の王太子はウフィネージュ殿下なわけだし」
「……東国は、違うんですか?」
「そう。基本的には、男子が優先される。同じ両親から生まれた兄弟姉妹の中では、男子優先なんだ。だから、僕の王位継承順位は、第三位だった」
ちょ、まー! 急にそういう強いワード出すのやめて! ド平民には刺激が強過ぎます!




