172 乙女の髪型を崩すのは罪深い行為である
円を描く。
腰をかがめているから安定しないし、そもそも面も平らじゃないし……つらい。
中央の図形と円の接点をきちんとして、起点と終点の辻褄を合わせれば、最低限の仕事はしてくれるはずだ――それを信じて、わたしは円を描く。
なんとなくだけど、ここで信じるのは自分自身じゃない気がした。
だって、わたしって自信ないしね。
信じるとしたら、これまでわたしを教えてくれた先生たちとか先輩とか――あ、同級生もか。リートの、弧になってない弧なんかもカウントしてあげようかな。
自分が信じられないなら、皆を信じればいいんだ。だって全員、自信満々じゃん?
「先生」
「なんだ」
「魔力の注入具合も自分では制御できてるか、わからないので――」
「大丈夫だ。いい感じだぞ。おかしくなったら、すぐ指摘する。そのまま行け」
「はい」
ほんとに自信満々だよなぁ。どうやったら、こんな風になれるんだろ。
羨ましいなと思いながら、わたしは円を描ききった。
と同時に、ぶん、と空気がふるえて呪符が動作し、周囲のもやもやどろどろがシューッと消えた。ほんと、シューッ……としか表現のしようがない。しかも、呪符を貼りつけた大元のアレも、どんどん縮んで消えていく。
魔法みたい! って思っちゃったけど、そりゃそうだよな。これは魔法だ。
「うまく……いきました?」
「ああ、上出来だ。よし、次だ」
「はい!」
その調子で、ジェレンス先生とわたしは呪符が尽きるまで作業をつづけた。
ひとつの円を描くだけでも、かなり時間がかかっていたみたい。自分で感じ取れない魔力を、経験で……たしかこれくらいの雰囲気、って制御しながら描くからなぁ。
当然といえば当然なんだけど、作業に集中することで、客観的な視点が存在しなくなってたわけよ。もちろん、何枚描けたかもわかってない。一枚、二枚、三枚……くらいまでは数えてたけど、あとはもう全然だ。
だから。次は、とジェレンス先生を見て。
「終わりだ、ルルベル」
っていわれたとき、ぽかんとしてしまったと思う。言葉の意味が、わからなくて。
そんなわたしの頭を、ジェレンス先生は過去最高にやさしい手つきで掻き回してくれた。かっ……髪型が!
「よくやった」
「……呪符が尽きたんですか」
「ああ。おまえはそこに座ってろ。俺は、呪符を回収する」
回収? って思ったくらいだから、ほんとに周りが見えてなかったんだと思う。
かるく押されて、へたっと座りこんで。地面を覆うどろどろは消えてるし、もやもやもない。あの石みたいな排泄物本体も、きれいに消え去っていた。
貼り付けた呪符は、すべて効果を失っているようだ。ジェレンス先生が回収してた手元を見れば、図形が破損しているのがわかる。焼き切れてしまったのだ。
「先生……」
「どうした? 気分でも悪いか」
「いえ、こんなに早く呪符が消えるって……わたしが魔力を込め過ぎたせいですか?」
「んなこたぁねぇよ。これは、そういう設計の呪符だ。効果が高いのと引き換えに、永続性がねぇんだよ」
「永続性……ああ、巨人止めの方とは違うんですね」
あっちは、設置したら随時魔力を補填するだけで、ずっと動作する。まぁ、いつまで保つかは手入れ次第なんだろうけど……とにかく、すぐ消えるとは想定されていない。
こっちの呪符は、そうじゃないんだな。
「あんまり吸い取り過ぎても、観測ができなくなるしな。被害は出さず、追跡はできる濃度にしたいんだろう」
そうだった。巨人を捕獲したのは、そのためだ。
この角度からだと、横たわる巨人の顔は見えないけど……なにを想っているんだろう。そもそも論になるけど、巨人ってなにを考えてるんだろう。目的は? 人間のこと、どう思ってるのかな。
スタダンス様の打ち明け話を思いだしちゃうよね――吸血鬼にとって、人間はあたたかい血が詰まった袋みたいなもの、ってやつ。
じゃあ、巨人にとって人間とは?
「どうした、ルルベル」
気がつくと、ジェレンス先生がわたしの前に立っていた。短時間だけど、意識が飛んでたみたい……寝てたかも?
「ちょっと、ぼうっとしてしまいました」
「疲れただろ。野営地に戻って、なんか食え」
「はい。……ズボン、汚しちゃいました。借り物なのに」
「んなもん、名誉の汚れだろ。聖女様のお仕事に随伴いたしました、ってやつだ」
名誉の汚れ……。新たな概念だな!
ほれ、と。さしだされた手を握ると、引っ張り上げられた。うーん……足ががくがくしてる。力が入らない。なにこれ。
「なんか……立ちかたを忘れちゃったみたいな感じです」
「疲労だよ、疲労。あ、そうだ。魔力量の残り、かなり乏しいからな。今日はもう、なにも使うなよ」
おおぅ。いやもう使えといわれても使えない気がするけどね。
「わかりました」
「じゃ、帰ろうか」
といった次の瞬間には、ビューッ! と上空に上がっており、巨人を見下ろして観察する暇もなく、気がつくともう野営地上空だよね……。なんなのこのスピード狂みたいな移動速度!
「先生、は、お疲れじゃない、んですか」
「俺は今日はなにもやってねぇだろ。おまえの送迎係だ」
いや、そうだけど。移動してるときもしてないときも、大規模に空気と魔力をコントロールしつづけてたわけだし。そんなのふつうは疲労困憊するだろってより、無理だろ!
ジェレンス先生、底なし説を唱えたい。賛同者は無数にいるだろう。
まぁ、わたしはジェレンス先生ではないので! 魔力を使い切ってはいなくても、ノンストップで半日作業したらからヨレヨレである。
案の定、着地しても立てない。足は地面にくっついてるが、自分の体重を支える役目を果たしていないのである。いやもうマジで、支えてもらえなくなった瞬間に倒れる自信がある。
ああ、なんでこんなところにだけ自信があるんだろう! でも自信がある。
「おーい、〈矢継ぎ早〉」
ジェレンス先生が声をかけたってことは、どこか見える範囲にハーペンス師もいらっしゃるんだろうな、どこだ……。ああヤバい、視界もちょっと霞んでるぞ……ねぇ、わたしほんとに魔力使い切ってない? 大丈夫?
靄った視界の中に、誰かと話し込んでいる風のハーペンス師が見えた。相手は黒髪に黒いマント。誰だろう……応援の風属性魔法使いさんかな? ふたりで書類を見ていたようだけど、すぐにハーペンス師が顔を上げた。
「ジェレンス、戻ったか」
視界を塞ぐように、リートが出現。
「うまくやったか?」
ご挨拶だな!
わたしが回答のために息をととのえているあいだに、ジェレンス先生がリートに話しかけた。
「リート、こいつを天幕に連れてって、食事を運んでやってくれないか」
「わかりました」
「まかせた。ルルベル、今日はよくやった。あとは、しっかり休め」
ジェレンス先生は、再度、わたしの頭をくしゃっとやった。今は疲れていて対処できないが、なんとしても近日中に、乙女の髪型を崩すのは罪深い行為であるという話をしておきたい……今後のために。
「ハーペンス、例の観測器具はどこだ? 時間があるから、今から行って付けてやる」
……ジェレンス先生が、底なし過ぎる!
わたしをリートに委ねてさっさと歩み去った後ろ姿を見送る元気もなく。正直、顔を上げる力さえ使いたくなかったので、地面を見てしまう。
あれ……せっかく大役を果たして帰還したというのに、ご挨拶係のリートしか出迎えてくれないの、ちょっと寂しいな……。
なんてことを思った、まさにそのとき。
わたしの手を、誰かの手がとった。
「ルルベル」
名を呼ばれ、あれっ、と思いながら顔を上げる。
そこにいたのは、黒髪の見知らぬ――ひとじゃないな! えっ。
「ファ――」
黒髪ファビウス先輩は、くちびるに指を当てて見せた。……あーそーだった、そーだった。帰国してるの内密にしなきゃいけないんだった!
「リート、僕も手伝おう」
「なら、ルルベルを天幕に連れてってもらっていいですか。俺は食事の手配をして来ます」
「わかった」
リートからファビウス先輩に。次々と支えてくれるひとが替わるんだけど、ファビウス先輩の手つきが、いちばんやさしいな。女の子の扱いに慣れてるからかな……。
「できましたよ」
「うん?」
「ちゃんと円、描けました」
「君ならできるって信じてたよ。でも、僕も近くで見たかったなぁ」
わたしも見守ってもらいたかったなぁ。そしたら、もっと安心して描けただろうし。
……そう。なんだか安心して、わたしはそこで意識を手放してしまったのである。




