138 静まり返った夜の保健室って
「しかたがないな……君の同意を得られないのでは、しかたがない。まことに、どうしようもない」
そうつぶやいて、エルフ校長は去った。正確には、かき消えてしまった。
……魔法? あのひと気軽に瞬間移動系を使えるっぽいよなぁ。エルフの魔法って独自体系だから、真似はできないと思うけど……研究書くらいはあるだろうから、ゆとりができたら探してみよ。
それより今は……おなかすいた。
わたしは起き上がった。ベッド脇にある小さなテーブルには、水が入ったグラスが置かれている。……水かぁ。水じゃねぇ、おなかすいたは癒されないんだよぉ!
靴を履いて立ち上がると、少しふらついた。魔力切れを起こした直後にまた魔力を絞り出したから、多少寝たくらいでは元気にはなれなくて当然だ。気もち悪さがないだけ、ラッキーだと思おう。
保健室は、ほぼ真っ暗。ウィブル先生の机に置かれた常夜灯っぽい魔道具が、唯一の光源だ。
わたし、放置されてるのかな。いや、それよりアレだ。
「リート?」
返事がない。ちゃっかり寝てるのかもと思ったが、カーテンが引かれていたのはわたしのベッドだけ。ほかに並んでいるベッドは、無人である。
……ちょっと待って。これ、なんかヤバくない?
なにが起きているのか、見当もつかないけど……常時張り付いてるはずのリートの姿が見えないっていうのが、決定的にヤバい。
ひょっとしてトイレ休憩とか? だったらすぐ戻るんだろうけど……。
わたしはごくりと唾を飲み込んだ。おなかすいた、なんてどこかへ消えている。
静まり返った夜の保健室って、シチュエーションとしてこう……考えないようにしてるけど、妙に怖い。ああ駄目だ、考えちゃったよ! なんなの、この謎の怖さ。
怪談系恐怖っていうか……駄目だ駄目だ駄目だ、考えちゃ駄目だと思うけど、考えちゃ駄目だと思った時点でもう負けよね。
前世で聞き覚えた、学校を舞台にした怪談が、わたしの記憶の底から這い上がってくる……ええい、おとなしく忘れられてろ! こんなときに出てくんな!
「リート、いないの?」
返事がない。ここで急にリート以外の声で返事があっても怖いし、リートの声で返事があったからと安心して気を抜いたところでリートじゃないものが出てきても怖いし、あるいはリートだと思ったら顔がなかったとか……ああもうマジで!
考えるなーっ!
変な汗が出てきた、変な汗が!
「ウィブル先生?」
そろそろと歩いて、わたしはドアの前に立った。寝る前、リートがウフィネージュ様を撃退したあのドアだ。外に出てもいいものか、迷ったけど……ノブに手をかけ、回してみる。
ガチャガチャと金属がぶつかる音がしただけで、ドアノブは回らなかった。これは……鍵がかかってるな!
じゃあ外に出たら駄目なんだろう……外の方が危険なんだ、きっと。そういう状況には慣れたよ、うん慣れた。このところ、ずっとそうだったからね!
でも、リートがいないのは……なんで?
納得がいかない。
「……よし!」
わたしは手に魔力を集め、その状態でドアノブを捻ろうとした。聖属性魔力なら、魔王関連の魔法は破れるはずだからだ。つまり、ガチの敵対勢力に閉じ込められているのかどうかを確認しようとしたんだけど。
やはりドアは開かない。
それより問題なのは――魔力が感じられないことだ。
「おかしい」
思わず、つぶやいてしまう。最近ようやく、自分の魔力を少しは感知できるようになってきていたのに。なにも感じられない。
頭の中で、ウィブル先生が顔をしかめる――短期間で連続して魔力切れを起こすのは厳禁だって、何回も教えたわよね?
そして、スタダンス様が生真面目な顔で語る――身体が防衛反応を起こします。つまり、魔法を使えなくなる場合があります。記憶の中のわたしが、ご経験がおありなんですかと問うと、スタダンス様は答えた――使えなくなりました、一時期は。
まさか、とわたしは思った。
自分の手を見下ろして、そこに魔力を集めようとする。手に魔力を集めるのは、ジェレンス先生の指導を受けはじめた頃から、何回もくり返してきたことだ。すぐできる……はずだ。
なのに、なにも感覚できない。
スタダンス様は、なんていってたっけ? たしか、測定してもらうと魔力はあるのに、なにも感じられない、とか……。
「どうしよう」
こんなの困る。あってはならないことだ。
なるはやで一人前の魔法使いにならなきゃいけないのに。ただでさえ、力不足を痛感してるのに。絶対に、駄目。嫌だ。認められない。だって、こんなの。
……こんなの!
怒りにまかせてドアを叩こうとしたとき、そのドアが開いた。
「起きたのか」
なんでもない顔で入って来たリートが、わたしの拳を難なく受け止めた。
「……どこ行ってたの」
「便所だ」
マジか。思わず真顔になっちゃったし、深刻に悩んでたことが一瞬、頭からふっとんだよね。
それで思わず口をついて出たのが、これ。
「おなかすいた」
便所に対する返しとして、どうなんだろう。最低じゃないだろうか?
「俺は先に済ませた」
聞いてねぇよ!
「……先生を呼んで」
「どの先生だ」
「誰でもいいよ……事情を知ってて、相談できそうなら」
「なんの相談だ」
「……魔法」
顔が勝手に下を向いてしまう。どうしよう、という言葉で頭はいっぱいだ。ぐるぐる回りつづけている。どうしよう。どうしよう!
「魔法にもいろいろあるぞ。なんの話だ。そもそも、事情ってどれだ」
「……なんでもいい。もうわかった、いい! なにもしなくていい、放っといて!」
「わめくな、耳に響く」
ドン、と音がした。え、なにこれ……壁ドンじゃん……よりによって初壁ドンが……このシチュエーション?
全然甘くないし、ほろ苦でさえないよ! 脅迫の構図だろ、これ!
「いいか、俺だって疲れてるんだ。君のわがままにつきあう理由はない。なにひとつない。それなのに、話を聞いてやってるんだぞ。ありがたく思え」
こんな壁ドンは嫌だ選手権があったら、堂々の一位を狙えるじゃん。さすがリートじゃん……。
わたしが俯いたままでいると、リートはあからさまに嫌そうな声で告げた。
「で? 説明してくれないか。なにが問題なんだ」
「魔力が……感じとれない」
「よく聞こえないんだが」
「魔力が感じられないの! 自分の魔力が!」
「なんだ、そんなことか」
そんなことか、だとぅ!
思わず顔を上げたわたしを、リートは心底くだらないものを見るような顔つきで見下ろす。
「もともと、君は魔力感知がへただろう。今さらだ」
「そういうんじゃないの。自分の魔力がなにも感じられないんだよ」
「……魔力切れだからだろう?」
「ちょっと手に魔力を集めてみる。リート、感知できる?」
「待て、無理するな。しばらく魔法は使わせるなと指示されているんだ」
「無理するほどのことはしないから、確認して」
リートの返事を待たず、わたしは手に魔力を集めた。さっき、ドアノブを捻ろうとしたときみたいに。
「かなり微弱だが、魔力は出てるぞ」
「……自分では、感じられない」
「だからなんだっていうんだ」
「短期間に頻繁に魔力切れを起こすと、魔法が使えなくなるの」
「それは知ってるが……魔法が使えないことはないだろう。魔力は出てるぞ?」
「全然なんにも感覚できないのに、まともな魔法を使えるわけないでしょ」
リートは眉根を寄せた。馬鹿にしたような雰囲気が消える。
それはそれで、なんか困る。いっそ、ずっと馬鹿にしててほしい。そんなの意味ない、気にする必要ない、なんてことない、すぐ治る……って。
でも、そんな願いはかなわない。
「わかった。誰か呼んで来る」
てきぱき対応される方が気が滅入るなんて、想像したこともなかったよ……。




