108 スマイルだけでは対応しきれない
そして昼である。
迎えはなかなか来なかったし、お腹は空いたが、わたしは待った。気をつけているのである。ただし、閲覧室は出た。そうしないと、司書さんが昼休みをとれなかったからだ。
午前中は、ずっと呪符魔法の本を読んでいた。見た範囲では、ファビウス先輩に渡されたあの魔法の正体は、まったく、皆目、なにひとつわからなかった。……なんなの、あれ。気になるぅ!
ファビウス先輩に会ったらすぐに訊こう、と思っていたのに。
やがて姿をあらわしたのは、スタダンス様だった……えっ、意外。
図書館の巨大かつ芸術的な扉を開いた立ち姿は、絵になるといっていい。皆さん姿勢がいいんだよなぁ。貴族って、姿勢にうるさい生き物なの? そうかもしれない。たぶんそうだ。
「ルルベル嬢。お待たせしてしまった」
「いえ……なぜ、スタダンス様が?」
「頼まれたのです、ウィブル先生に」
ってことは、今日も保健室直行だったのか……ええー、このひと大丈夫なの?
「そうでしたか。お手数をおかけして、申しわけありません」
「いえ、なにほどのことでも」
というわけで、わたしはスタダンス様と図書館を出た。エスコートの手が出てこなかったのには、逆にほっとした……もうね、ほんと、下町娘にそういうの不要だから。
「ウィブル先生は、お忙しいのですか?」
先を行くスタダンス様の背中に、聞いてみる。
「そのようです」
一歩ごとに、ひとつに結んだ長い黒髪が揺れている。
高貴なかたがたは、男女を問わず長髪が多いんだよねぇ。髪の手入れって時間がかかるから、これも一種のステータス・シンボルみたいなものなのかもだけど……それにしても、髪質! さらっさらの直毛……憧れだよ。
「怪我人が出たとかでなければ、いいんですけど」
「さあ、詳しいところは聞いていません」
今日は空に雲が出ていて、日差しは弱々しい。木々の葉をくぐり抜けて届いたわずかな光には、もうぬくもりなんて残っていない。
過ごしやすい季節は終わりだなぁ、と思う。これからどんどん冷え込むんだ。
今後は、屋根の上で立ち往生しないよう、もっと気をつけねばならない。マジで凍え死んでしまう。王都の冬は厳しいのだ。昨晩だって、ジェレンス先生が来てくれなかったら、どうなっていたことか。
周囲にもだけど、自分自身の愚行にも気をつけないとだよなぁ……。わたしは間抜けで、口が軽くて、……あとなんだっけ? そうそう、結果をともなわない努力で自己満足してしまうタイプなのだから。
……はぁ。つらい。
スタダンス様は、迷いのない足取りで進んでいく。落ち葉を踏むたび、やわらかな音がする――。
図書館からまだそう遠くない。ふり返れば、見える。
だけど、歩いているのは道ではない。木立の中だ。学園を囲む、それなりの大きさの森に分け入ろうとしている。
「スタダンス様は、もうお昼はお済みなのですか?」
「いえ、これからですよ」
わたしたちが向かっているのは、食堂とは反対方向だ。
「どこで、お食事をいただくのでしょう?」
「この先ですよ。用意があります」
……貴族の皆さんのこういう気まぐれっていうかなんていうか、趣深い? とか、そういうの? まぁ、文化ってやつなんだろうけどさぁ……正直、わからん。なんだって、この薄陽しかさしてない寒々しい日に、外で食事をしなきゃいけないんだ!
さりとて、用意があるといわれてしまえば、無下にもできない。
しかたなく、わたしはスタダンス様のあとをついて歩きはじめた。……せめて、食事の内容には期待していいんだろうな? すっごい美味しいものが出てくるんだろうな? 期待しちゃうからな?
スタダンス様は、どんどん歩いて行く。
わたしも歩く。会話もないまま。
急にわたしの世話を押し付けられて、迷惑なんじゃないのかな、なんて考えてしまうよね。あー、駄目だ駄目だ、お腹が空いていると、ろくなことを考えない。
とはいえ、今すぐ食べ物を出せるわけじゃないから……なにか、話をしよう!
「今日は寒いですね」
「そうですね」
轟沈! やっぱり、スタダンス様なんとなく……なんとなくだけど、機嫌がよろしくない雰囲気では? なんかこう。
いや、簡単に諦めるな! 話題を広げろ! なんだろう、スタダンス様が食いつきそうな話題……最近なにかで盛り上がっていたのを見た記憶が……。
あっ。合金だ!
「そういえば、その眼鏡の合金ですけど」
「合金?」
「ええ、流行しているというお話でした」
「……ああ、そうですね。流行しています。合金の眼鏡」
シスコとスタダンス様は、やたらと盛り上がっていたけど。わたしは聞き流してたからなぁ……。
「ちょっと不思議な色だなぁとは、思っていたんですよね」
「そうでしょうか」
「そうですよ」
合金の名前や特徴は覚えていないが、形と色は……見てたはずだ。
わたしは少し足を早めてスタダンス様の隣に並んだ。眼鏡のつるを見上げて、ほら、と思う。艶消しの、ちょっと青緑がかった灰色、っていえばいいのかな。今日は天気のせいか、つまり光がたりないせいか、くすんで見えるけど。
「その色、綺麗ですよねぇ。なんていうんでしたっけ、その合金の名前」
わずかに頭を巡らせて、スタダンス様はわたしを見た。
「さあ。興味がないので」
「え?」
興味がない? いや、そんなはずはない。
だってあのとき、シスコとふたりで楽しそうに合金の流行について話してたのに……あれがすべて嘘だったなどといわれたら、大ショックである。だいたい、なんのために嘘つくのかわからないし。
「……ああ、なるほど。興味があるべきだったのか。合金に」
思わず、わたしは足を止めた。スタダンス様もすぐに立ち止まった。
……でも、これは……このひとは。
「いえ、興味があるべきなんて、そんなことは」
「失敗してしまったな」
わたしを見て微笑む表情に、見覚えがない。スタダンス様なのに、スタダンス様じゃない……。
やばい、なんだこれ、よくわからないけどつまり……。
「なにを失敗なさったんですか?」
気づかないふりして、ごまかすべき! と思ったわたしは、全力で看板娘スマイルを顔に貼り付けた。
やばいやばいやばい! 絶対これやばいって!
なにかやばいことになってる、それは間違いない。もうずいぶん歩いて来ちゃったぞ、図書館まで走って戻る? 追いつかれずに行ける? 踵を返した瞬間に相手が手をのばしたら、それでもう捕まってしまうのでは?
「後ずさっても無駄ですよ、ルルベル」
無意識の行動で墓穴を掘っていた! 駄目だ……スマイルでは対処が追いつかない。
「あの、お腹が空いたので、自分で食堂に行こうかなぁって」
「どうして?」
やわらかな問い。ああ、もう全然違う。喋りかたが。声の出しかたまで違う。
これは、スタダンス様っぽいけど、スタダンス様じゃない……いったい何者だ? 見た目はそっくり。だけど……。
「あなたは、誰?」
「スタダンスですよ。あなたの忠実な下僕になると誓った、スタダンスです」
眼鏡も同じ。記憶通りの色をしている。稀少な合金だ。この国のものではない……きっと、とても珍しい品物だ。そう簡単には手に入らないだろう。じゃあ、どうしたの? ほんもののスタダンス様から奪ったの?
「あなたは違う。違いますよ!」
「違いません」
スタダンス様の顔で、スタダンス様の眼鏡をかけて。でも、まぎれもない偽物は、わたしに向けて手をのばした。
「さわらないで!」
「おお、ひどいことをいう。君のために、こんなことになったのに」
「……こんなこと、って?」
ふふ、と偽物は笑う。眼鏡を押し上げる仕草も、どこか違う……そして、その眼鏡の奥の眼の色も。
いつもは、明るいブルーなのに……今、その双眸は真紅にかがやいていた。




