離すな 忘れるな
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
ドわすれ。このメカニズム、君は知っているだろうか?
最近は、脳のワーキングメモリーなるものが関わっているとみられている。いわゆる短期の記憶を置いておく場所だ。
いま読んでいる文章、耳にしている会話の言葉など、すぐ直前のことを覚えていないと、理解に困ってしまうシチュエーションがある。その時は、このワーキングメモリーが頑張ってくれているんだ。
それが稼働しているときの、「覚えている」という確信の強さは異常だ。
アプリをいじっているときのスマホを考えてみるといい。画面と操作に集中しながらも、その大前提として「絶対に手放さねえ。手放すわけがねえ」と思っているだろう。
だが、それはいともたやすく、裏切られる。
突風かもしれないし、どこかのサッカー少年が飛ばしたボールが手にぶつかってくるかもしれない。そうして予想外のショックを受けた時、あまりにもあっさりスマホは飛んで、地面を滑る。
ド忘れも一緒だ。ほんの一瞬前まで、絶対に離すまいと思っても、何かしらの新しい情報が飛び込んできたとたん、いくらがっちり捕えていたものでも、ふとした拍子で抜け落ちる。
いくら「握力」を鍛えようとしても、虚を突かれては人間どうしようもない。
じゃあ、そのこぼれたものはどうなるのか?
僕が昔に体験したことなんだけど、聞いてみないかい?
まだ実家にいた学生のころの話。
親に頼まれて買い物に出ていた僕の、帰り道でのこと。
徒歩10分ほどのスーパーが安いとのことで、多少面倒に思いながらも、車道をてくてく歩いていた時だ。あまりに退屈だったんで、考えごとをしていたところ。
「その角、曲がって三軒目。赤い屋根の小さなおうち」
ふと、大人の女性の声が耳に飛び込んできた。
確かにいま僕は、中古のバイク屋さんとメガネ屋の駐車場に挟まれた、路地の手前へ立っている。
しかしバイク屋のシャッターは閉め切り、駐車場の白線、車両、店の入り口にも人影なし。通行人の姿もない。
――だが、あの声。かなり近くから聞こえたような気が……?
首をかしげながらも、気を取り直して悟ってしまう。
僕はつい先ほどまで、頭に考えていたことを、忘れてしまっていた。
大事なことではなかったはず。けれど、僕にとっては離したくないことだったような……。
漫画でやるような、数秒前の地点まで戻って、もう一度ここまで歩いてみることもしたけれど、ダメ。
買ったものには生ものも含まれている。あまり時間をかけるわけにもいかず、その場は家へまっすぐ向かったんだ。
先にスマホの例を出したけれど、実物があるものと違って、頭の中にしかなかったものは、形が分からない。
用を済ませてみて、自分に関わりのあるものひっくり返したけれど、「これだ」と天啓を得るものはないまま、布団へ入る時間になってしまった。
一度、気になったものは、どうにか突き止めないと納得がいかない。
次の日。僕は学校が終わると、件の曲がり角へと向かっていた。
「その角、曲がって三軒目。赤い屋根の小さなおうち」。
あの声はそういっていた。
周囲に人影はなし。車どころか、自転車だってようやくすれ違えるかという、狭い路地へ僕は入っていく。
三軒目に、確かに赤い屋根の家はあった。
周りのとんがった屋根とは一線を画す、カットしたバウムクーヘンを思わせる曲線。家の壁もそれに沿って丸みを帯びていた。
表札はかかっていない。けれど、歩道から玄関までほんの数歩程度の間隔しかない。
そっと戸に近づいてみると、ふと聞き覚えのある音楽がかすかに家の奥から漏れている。
楽器の演奏じゃない、電子音。ほどなく、聞き覚えのあるフレーズが耳に入ってきて、ぴんときた。
僕が数カ月前まで、プレイしていたゲーム。それの専用曲持ちのボスのものじゃないか。
すでにプレイヤーの多くから、ラスボスより強いと評価を受けていて、強さに曲に演出が合わさって、ゲーム屈指の神シーンであると僕も思っている。
そして、一緒に思い出した。あのとき、僕はかのボスをどうやってもっと楽にねじ伏せられないか、それを考え続けていたんだ。
あの言葉を聞く、一瞬前までずっとずっと大事に抱いていたものなのに。
手をかけても、玄関の戸はびくともしない。
耳を澄ませば、ゲーム音とともにボイスも聞こえてきた。
かのキャラは、残り体力によって行動パターンを変えてくる。格闘ゲームの言葉にならい「発狂ボイス」と呼んでいた。対策なしだと、直後の反撃で一気に壊滅させられる。
しかし、家から漏れてくるのは発狂後に叩きのめされるダメージ音じゃなかった。むしろこちらの攻撃を当て続ける、コンボかハメ技のように思えたんだ。少しでもやり込めば、音で判断できた。
それから数秒、明らかなワンサイドの効果音に僕は驚きを隠せない。ほぼ完封の動きで、クラスの誰もまだ方法を確立していないのに。
興味はどんどん湧くが、これ以上に迫るのは無理だ。ヘタすれば取っ掴まる。僕はやや後ろ髪を引かれながら、その場を後にしたよ。
それから、僕は何度かあの家の前をあえて通り、そして知る。
どうもあの家は、僕を含め「ド忘れ」したものが集まるらしい。ご丁寧に、必要とあらばその答えもくっつけて。
ゲームのことばかりじゃなく、答えられなかった問題の答えとかが、家の壁などに張ってあったりしたっけ。
それでも僕は興味があったのだけど、ある時期から距離を置くようになってしまう。
その日は、玄関の戸が内側から盛大に叩かれたんだ。もうガラスを破らんばかりで、言葉にならない叫び声もした。
まさに殺されかねないと、その場を後にするも、僕は想像してしまう。
あれが家人のものでなければ、誘拐か何かではないかと。
翌日、学校のクラスでみんなと話したところ、ひとりの女の子がランドセルをあらためていたよ。昨日、買ったはいいけれど、誰にあげるものだったかド忘れしてしまい、入れっぱなしにしていたものなのだとか。