#13 波乱の前触れ
それは、俺がもう布団に潜り込んでウトウトしていた時だった。意識が微睡んでいよいよ落ちようかというタイミングで、表の玄関の扉が勢いよく開けられた。伝統的な日本家屋のような作りのこの宿では、ドアの開閉の音はよく響く。軽い振動までこちらへ伝わってくる。
2階から、イリヤさんの足音。そして食堂の方からは多分、シトリの摺り足の音。反応はややシトリの方が速かったか?
「おい、サコン! どうした!?」
「サコンさん、怪我してるんですか!?」
サコン、というのは確かここに宿泊している客の一人だったな。俺はまだ会ったことが無いが。昨日は色町へ遊びに行ってそのまま向こうで滞在していたのではなかったか。怪我とは、何かトラブルか?
気になって、布団を跳ね退けて起き出す。そっと襖を開けて廊下へ。
イリヤさんが着流し姿の男に肩を貸している。暗闇の中、ぼんやりとシルエットが見えた。
「どうかしましたか!?」
「すまない、起こしてしまったか」
この声はイリヤさん。
「いえ、大丈夫です」
「ひとまず、食堂へ。
明かりをつけますね」
シトリは食堂に向かい、燭台に火を付けた。電気がないこの世界では、魔法を除けば蝋燭の灯りだけが頼りだ。しかし、もちろん電灯と比べれば心許ない光量である。
「俺も手伝います」
「いや、結構。気にしないでくれ」
サコンは、手を振って固辞した。
イリヤさんに体を預けながら彼は俺の方を向いて、
「君は、新しいお客さんか?」
と訊ねてくる。
「はい、昨日から」
「そう、か……」
意外と若そうな声をしていた。そしてそしてこの暗がりでもはっきりとわかるほど特徴的な、側頭部に生えた2本の角。
ふらつきながら廊下を進み、食堂の畳の上に仰向けにされるサコン。
シトリが燭台を2つ机の上に並べた。この炎で、ようやくサコンがどんな顔をしているのかがわかった。
浅黒い皮膚、彫刻のように彫りの深い顔立ち、それと頭部の角。更に苦悶の表情になった際に口元に牙が覗く。
鬼……こいつはオーガか。
ほとんど人間と見た目変わらないな。
右目の上に青アザが確認できる。誰かに殴られたか。
イリヤさんが着流しの胸元をはだけさせると、そこにも複数の鬱血痕。喧嘩でもしてきたのか。これだけ派手にやられているということは、サコンが負けたか。
「シトリ、傷薬はあるか?」
「取ってきます」
イリヤさんに言われ、慌てて立ち上がって奥へと駆け出すシトリ。
「酷いやられようだな、サコン。何があったんだ?」
「ネハンが、ネハンが……」
「何だ? ネハンがどうした!?」
「コークスの奴が、暴れて」
コークス!?
またこの名前を耳にするとは。つくづく俺と縁があるらしいな。
「アイツめ、またネハンで問題を起こしているのか。それで、お前が止めに入ったのか?」
「あぁ、女を、逃がそうとして。だが俺じゃ時間稼ぎにもならなかった。アイツは……アイツは!」
「待て」
俺の背中へ、イリヤさんの鋭い制止の声。
立ち上がり食堂を出て、玄関へ向かおうとしたがバレていた。
「どこへ行く?」
「決まってるでしょ、ネハンへ。コークスを止めないと」
イリヤさんと目が合った。帝国最強の女剣士の燃え滾るような瞳が、俺の真意を探る。そして、納得してくれたようだ。
「わかった。酒は持っているか?」
「部屋にあるんで、取っていきますよ」
シトリが廊下をバタバタと薬箱を携えやってきた。
「すまないが、私はこいつと出てくるぞ。シトリ、サコンを頼んだ」
「えっ!? それはどういう……」
俺達のやり取りを聞いていなかったシトリは混乱している。
「イリヤさん、すまねぇ」
サコンが、声を震わせながら言う。あの怪我ではここまで歩いてくるのもしんどかったんじゃないだろうか。しかも相手がコークスだ。よくぞ、生きて戻ってこられたな。
「気にするな。町の治安を乱すような輩を退治するのも、私の仕事だ」
「それと、そこの君の名前は……」
そうだ、まだ名を名乗っていなかった。と、ふいにイリヤさんにパンと景気よく肩を叩かれた。結構な勢いで。
「こいつの名は、サックだ!」
「あぁ、サックって言うのか。いい名前だと、思うよ。赤の他人にこんな頼み事したくないんだが……女達を、守ってやってくれ」
「はい! 俺の名はコンド……じゃなかった、サック! 安全を守るのは得意技なんで!」
サムズアップで応える、もはや名前のことはネタにしようと決めた俺。