#4 町の裏側
日本人は危機意識が低いとよく言われる。日本の治安は世界的に見ても相当良い。だからこそ油断して海外旅行で置き引きにあったりするのだが。
かくいう俺も、この有様だ。初めての王都散策に浮かれていて、背後への警戒を怠っていた。銀貨の入った巾着袋をものの見事に盗まれてしまった。
「ちょっと、サックさん!!」
団子屋の店先から酒瓶を拝借して駆け出す俺の背後から、シトリの声。だが返事をする時間が惜しい。この人混みの中では、あの盗人に分がある。俺が町に慣れていない人間だと一目で見抜いたことだろう。だからここまで大胆に動けた。そして逃走も余裕だと考えているに違いない。
俺が単なる観光客であれば、盗人の思惑通りの結果になったことだろう。小銭をせしめ、まんまと逃げ果せる。
しかし俺は違う。そもそも、この世界の人間ではない。異世界より特殊なスキルを授かって転移した、異世界転移者なのだ。
走りながら酒をぐいっ、と呷った。
一気に喉を、アルコールが駆け下りてゆく。
一気飲みが一番、酔いの廻りが早い。
一度能力を発動すれば、俺には周囲の音が極めて明瞭に聴こえる。
それだけではなく様々な音の中から選択的に、特定の音だけに聴力を集中させることも出来るのだ。
音は、空間を伝わる波だ。その伝達速度は光と比べればかなり遅い。
だが俺の耳はいつでも、どんな音でも、即座に聴くことが出来る。
アルコール・コーリングは、フォーカスした対象のすぐ傍へ、俺の聴覚それ自体を飛ばすことが可能なスキルだということだ。だから距離や空間を音が伝わる速度について一切気にしなくていい。特定の対象へ注意を向ける時、俺の鼓膜はそこにあるのだ。
その上で本日の実験は、スキルの対象をどれだけ正確に選択できるか、というところだ。
それを試すには、大勢の人がいる街中で実験するのがいいだろう。このシチュエーションはつまり、望むところだ。
酒が肉体へ染み渡ってゆく。そして全力疾走が更に酔いを加速させる。
それに伴い、いよいよ、俺の耳は音を捉えはじめた。
街を行き交う人々の会話が洪水のように俺の鼓膜に流れ込む。これは単なるノイズだ。俺が集中すべきはさっきの盗人。聴こえる、理解できる。その音が流れてゆく方向、距離。男の心臓の鼓動までも、意識すれば聴こえる。
あの男の顔を思い浮かべた瞬間、まるで鼓膜が男に接続されたかのように明瞭に、音を感じ取ることが出来た。
アルコール・コーリングは、男の行動を完全に捕捉した。それに伴い余計な音はどんどん小さくなってゆく。
この能力は、俺の意識によって極めて高い精度で対象を選び出すことが可能なのだ。
男の足音が止まった。空間に反響する音から、俺にはその場所のざっくりとした景色まで予想出来る。
細い路地の、間。
男は一息ついて、左右を窺っているようだ。そして周囲に誰もいないことを確認し、路地の更に奥へ。
俺のいる場所からそう遠くではない。すぐに追いつける。
アルコール・コーリング発動中なら人通りが多かろうと関係ない。周辺の音情報を脳が高度に分析・処理することで歩くのに最適なラインがわかる。さっきのシトリと同じように俺も、まるで王都ロメリアを熟知しているようにスムーズに歩ける。
男は表通りから路地深くへと進んでいる。王都は石造りの建物が多いが、この一帯には粗末な木造家屋がひしめき合っているようだ。石材と木材では音の吸収率が違う。よって反響から得られる陰影もまた顕著に変わってくる。
路上で茣蓙のようなものを敷いて寝転がっている男達。家と家の間に渡されたロープに吊るされた洗濯物。
貧困なバラック地帯が突如として出現し、俺は驚かされた。表通りの華やかさとはまるで違う。こんな場所が存在しているのか。
男はバラックの一軒に入っていった。ドアすらない。竹か藁を編んだものと思われる簾をくぐる。
「帰ったぞ」
「おかえり」
床に敷いた毛布の上に仰向けに寝ている女がいた。どうやら盗人はここに二人で住んでいるようだ。
住居を構えているようなら殊更焦って追わなくてもいい。相手は油断しているだろう。俺を振り切ったと。
だが決して、逃がしはしない。
表通りから裏路地へ。途端に通行人の数が減る。路地を奥へ進むごとに、背の高い建物によって日光が遮られて薄暗くなってゆく。散乱するゴミ。すれ違う連中の胡乱な目。まっとうな職にはついていなさそうな、素行の悪そうな者が多い。身なりも体臭も酷い。
「さっきな、東通りでいかにも観光客ってぇ感じの兄ちゃんがいてよ。あんまり不用心なもんだから盗ってやったら銀貨3枚も持ってやがった。今日はツイてるぜ、久々にいい飯にありつけるぞ」
「それは良かったね。だったらアニキがたらふく食べたらいいよ」
「何言ってんだ、二人で食おうぜ。肉にするか? 魚か?」
アニキ、と呼ばれたということは寝ているのは妹だろうか。
不思議だ。同居人が帰って来たのに起き上がるどころか身じろぎすらせず、寝たまま会話している。
気になった俺はスキルを妹の方へ向けてみる。その全身に発生している音を拾い上げようと試みる。そして、何故この女が起き上がってこないのかを理解した。筋肉の収縮が、無い。いや、わずかにはあるのだが、それが弱々しい。しかも連動していない気がする。俺は人体について専門的な知識を有していないし、あくまでスキルによって全身を検めた上での予想に過ぎないが……こいつは恐らく全身麻痺だろう。
しかも……これは……
「アタシはいらないよ」
「おい、どうしたってんだ? 腹、減ってないのかよ」
「違うよ、そんなんじゃないよ。わかってんだろ、アタシはもう……長くないんだよ」
妹の両脚が腐りかけている。床ずれによって発生した部分的な壊死が、適切な治療を受けていないせいで脚全体へ拡がっているのだろう。腐敗した肉に、ウジ虫が発生している。ここまで病状が進行していたら多分、毒素はもう全身に回り始めているだろう。本来ならすぐにでも両脚切断しなくてはならない状況だ。
「食っても、意味無いんだよ。ちょっとだけ、ほんの数日、生き永らえたところで何なるっての!?」
妹の声が上ずった。自棄になったように、がなり立てている。
「おい、落ち着けよ。この世界にゃあ魔法があるだろうよ。金さえ溜まりゃ魔法治療が出来る。死にかけでも、回復できるんだよ!」
「それまでにあといくら要るの? 銀貨数枚手に入ったところで、どうしようも……」
ここで妹が大きく咳き込んだ。麻痺した体がまな板の上の魚のようにビクンと跳ねた。
俺は足を止めていた。
あと一つ角を折れれば、バラック地帯へ入る。そこで盗人を捕まえることは容易い。容易いが……どうする?
重病人を抱えた男を殴って、金を取り返すのか。窃盗は犯罪行為だし、この場面では正義は俺にあると思う。
だが……。
割り切れない思いが込み上げてくる。
「クソッ」
悪態をつき、俺は再び歩き出した。角を折れ直進。すぐに、みすぼらしい建物群が見えてきた。
粗末な木造住居。ツギハギだらけ、隙間だらけだ。これじゃ風雨すらまともに凌げないだろう。
突如自分たちのテリトリーへ侵入してきた見知らぬ人間に対し敵意ある視線が早速お出迎えしてくれた。こういう場所に住む者達はきっと、仲間意識が強い。異分子の侵入は快く思わないだろう。
数人の、ボロボロの服を着た男達が俺を取り囲む。
「誰だい、あんた」
正面にいた男が俺に問う。
こうなってしまえば、穏便に事を運ぶのは難しいか。謝ったところで素直に帰してもらえるとも思えないし。
肚をくくるか。
「すまないが……アンタらに用はない」
俺は言った。