#16 闘技場のチャンピオン
「ここからは俺に、任せてもらおうか」
灰色巨躯のゴブリンが言った。
事の成り行きを見守っていた観衆達の間にどよめきが起こる。
「コークス!」
「コークスだ!」
「マキシモ・カルカスのチャンピオンだぞ!」
英雄を讃えるかのような、熱のこもった声があちこちから聴こえてくる。
錯乱ゴブリンが振り返って、目を見開く。
「テメェ……」
「ん、前にどっかで会ったか? 記憶にないね」
「忘レタト言ウノカ!?」
「んー多分、剣闘士なんだろうけど、雑魚のことはいちいち覚えていられないんだ。無駄だろ、そんなの」
「貴様ァ!」
激昂した錯乱ゴブリンが剣で斬りかかった。
しかし、コークスと呼ばれた灰色のゴブリンは棒立ちのまま。無抵抗に、斬られるつもりか!?
否、そうではなかった。大剣が己の額に触れようかという寸前、極太の両腕が動いた。空中でハエを叩き潰すかのように、両掌で剣を挟み込んで止めた。真剣白羽取り、か!
「ガアッ!!」
「太刀筋が甘いぜ。力任せに振り回すだけかい。一生、三流剣闘士のままだなこれじゃ」
「殺ス殺ス……」
「無理だよ、格が違い過ぎてる」
錯乱ゴブリンは剣を手放し、右拳でコークスを殴った。顎のあたりを真横からフックで殴打した。しかし、コークスは怯むどころか瞬きもせず、平然と立っている。衝撃を、太い首の筋肉が全て吸収してしまった。
「この程度の雑魚じゃ俺が覚えていないのも当たり前だな」
ため息と、落胆を隠さない表情。
「あいつの名はコークス、表と裏、両方の闘技場で人気の剣闘士だ」
そっと俺の隣に並んで立ったイリヤさんが教えてくれた。
「チャンピオン、なんですか?」
「あぁ……マキシモ・カルカスという、王都ロメリアでは最大規模の闘技場の現役チャンピオン。そして裏でも、今のところ無敗の最強剣闘士だ」
「それは、凄い」
つまり王都において実質最強の剣闘士ということだな。言われてみれば、風格が違う。
コークスは俺とイリヤさんが会話している間に錯乱ゴブリンの大剣を腕力だけで取り上げて、遠くへ放り投げた。
「薬をキメてこれじゃお前、もう引退した方がいいぜ? 辺境の地で日雇いの防人でもしておくのがお似合いだ」
次に錯乱ゴブリンが繰り出してきた左拳を身を沈めてかわす。
「生きる価値もねぇ、ゴミが」
コークスのアッパーが、錯乱ゴブリンの顎を真下から叩く。そのまま天空へと、拳が走り抜けた。顎骨が容易く砕け、アッパーの威力によって100キロは下らないであろう巨体が宙に浮いた。
頸椎が破壊される生々しすぎる音を俺ははっきりと聴いた。首がありえない角度で後方へゴリゴリと不吉な音を鳴らしながら曲がった。
宙に、緑色の血飛沫が舞う。
地面へ落下した錯乱ゴブリンは、しばしの間痙攣していたがやがて、静かになった。
「さて」
コークスは事もなげに殺害を終え、悠々と俺とイリヤさんの前まで歩いてくる。
「あいつとの戦いを見させてもらったがお前……なかなか悪くないな。人間にしちゃキレのある動きをしている。どこかの剣闘士か?」
「いや、違うよ」
「ほぅ、だが普通の町人じゃないだろう? 何せ、こんな大物を連れている」
イリヤさんに向き直るコークス。全身を舐めるように見回した後で、
「やはり、いい女だ。俺の愛人にしたいくらいだな」
とんでもないことを言った。こいつ、知らないのか!? イリヤさんは意外と短気なんだ、殺されるぞ!
恐る恐る、イリヤさんの横顔を覗いてみる。なんと、激昂するかと思っていたが笑っていた。あまりにも可笑しくて堪えきれないかのように、にんまりと笑っていたのだ。
「この私を愛人に? 冗談にしてはつまらんな」
「へぇ、つまらないのなら何故、笑っているんだい? 帝国最強の女剣士さんよ」
「お前の度を過ぎた身の程知らずさに、だ。それに私は自分より弱い奴には食指が動かない」
「……俺のことを、言っているのか?」
「他に誰かいるか?」
「いいねぇ。試してみたっていいんだぜ、今、ここで」
「止めておいた方がいいと思うが。つまらぬ意地を張った挙げ句、無様に死ぬことになる」
いやらしい薄ら笑いを浮かべていたコークスはここで、無表情になった。プライドを傷つけられたのだろうか。イリヤさんに対し燃えるような視線を投げかけ、唇を吊り上げて歯を剥き出しにした。頑強そうな犬歯が覗く。
巨体のコークスの至近距離での威嚇にも、イリヤさんは動じない。直立不動で、視線を受け続けていた。
「ちなみに私は当然として、多分だが、こいつもお前よりはいくらか強いと思うぞ」
えっ!?
俺か!?
唐突に、一触即発の空気に俺を巻き込みやがった!
案の定コークスが俺に目線を移し……あぁとても不気味だが……満面の笑みになった。
「面白い、俺がここまで虚仮にされるとは」
仕掛けてくるか!?
いや、その背中に押し隠せない殺気を纏いながらも、意外なことにコークスは踵を返した。ここで戦うつもりはないらしい。
「生憎、俺にはファンが多い。こんな場所で金にもならない戦いをするつもりはないね」
「尻尾を巻いて逃げ帰るのか?」
「ちょ、ちょっとイリヤさん!」
「何だ、お前も何か言ってやれよ」
「向こうから身を引いてくれてるんですから、蒸し返すのは止めましょうよ!」
「ふん、つまらん奴だな」
この人本当に、敵を煽るの好きだよなぁ……。戦いの場以外だと常識人だし高潔な人物なのに。
「俺は……いつでもどこかの闘技場にいる。戦いたければ探して挑んでこい。その時は、チャンピオンとして受けてやる」
コークスは俺達には既に興味を失ったようだ。観衆達に手を振り、声援の中を歩いていく。
イリヤさんにバカにされた時、コークスが殴りかかってくると思った。だが案外、クレバーなのかもしれない。挑発を受け流した。
「どうだ、コークスは」
「強そう、ですね。俺の見せ場をすっかり奪われてしまいました」
「油断ならぬ相手だ。だが……」
「だが、何です?」
「お前を帝国軍に採用するのにふさわしい試験を思い付いたぞ」
「……」
嫌な予感しかしねぇ……。てか俺、帝国軍に入隊希望じゃないんですけどっ!?




