先生と負
先生は書斎に居た。本棚には先生の私蔵する古今東西の書物が並んでいる。本棚の他には机と椅子に筆記用具が一式と、この家の周辺を警戒する監視機器の端末がある。それは壁紙のように壁に掛かって映像を表示している。そこに負の姿が映る。しかし、先生は手許の箱に集中していて気付かない。蓋を開ければ、中にあるのは黒い腕輪だ。外見上は、一切の変哲がない、普通の腕輪に見える。先生は自身の腕に嵌まる腕輪を操作し、暫し手を止める。通信機能で、相手を呼び出していた。
「どうした」
腕輪に応答が入る。
「私です。例の物が完成して、私の許に届きました。回収しに来て下さい」
「そうか……」
相手が沈黙する。
「私柳? どうかしましたか」
「いいや、ここまで来るのに、結構な苦労を背負って来たものだと感じてな、言葉に詰まった」
「そうでしたか。いや、そうですね。今だから言えますが、筆学所を始めた頃、理想を諦めたりもしました。ええ、諦めかけたのではなく、本当に諦めました。ですが何とか、今ここまで来ています。私たちの生きている間にはまだ難しくとも、辛抱して待っていれば、少しずつ良い世界にしていけそうです」
「そうだな。まあ、それはいい。それはともかく、今からそちらへ向かう、待っていろ」
「ええ。……時に私柳、貴方は『焚書官』を名乗る地下組織を御存知でしょうか」
「黒市民が組織したものだろう。社会改革を目論んでいるとかいないとか、手段を選ぶとか選ばないとか……。それがどうした」
「噂ではありますが、その『焚書官』が、最近はこの周辺によく現れているそうです。私の方でも、この地域の者ではない黒市民を、最近は頻繁に確認しています。こちらに来る際は、念の為に気を付けていて下さい。問題は生じないと思いますが、貴方の階級は黒に偽装されているだけですからね」
先生は自身の苦い記憶を噛み締める。
「ああ、了解した」と私柳。
先生は通話を終える。黒い腕輪を箱に戻し、椅子に凭れ、静かに過去を回想している。苦労を偲び、成果を想うと、自分に出来る事や役目を果たしたような、深い達成感が胸に沁みてくる。ふと、監視装置から音声が出力される。
「先生、俺です。入れて下さい」
先生は腕輪を操作する。腕輪は監視装置の機能と連動している。
「負君、鍵を開けました。私は書斎に居ます。入って構いませんよ」
程なくして、負が書斎に入って来た。
「先生」
負は嬉しそうな笑顔を見せる。
「いらっしゃい、負君。何の用でしょう」
「何の用って、決まっているじゃありませんか。本を読んだり、先生と話をしたりですよ」
「まあ、そうでしょうが、貴方もそろそろ、こんな草臥れた男の許にではなく、青らかな娘子の許に通ってみてはいかがですか」
それは無論、単純な男女交際を意味していたのだが、負の脳裡には秋子の使い走りとなる自分の姿が思い浮かぶ。
「いや、何だかんだ言っても、今の生活は筆学所に通う時間が取れていますから。自分にはそれが大切です」
「女の子に興味はないと?」
ここで、負は自分の誤解、早とちりに気付く。
「あ、いえいえ、女の子は大好きですよ。すみません、ちょっとズレた事を連想していました」
「ズレた事」
「はい。さっき後見と偶然に会って、また誘われたんですよ、あいつの下で働くように。だから女の許に通うっていうので、あいつの所に仕事で通うような状況を連想してしまいました」
「働かないんですか、彼女の許で」
「先生まで、やめて下さい。あいつ、確かに悪い人間ではありませんけど、やっぱり赤ですからね。黒なら大抵、悪くないと思いますが」
「黒市民はなぜ悪くないんですか」
負は返答に窮する。先生は立て続けに言う。
「黒市民は上位市民の者より、却って悪いくらいなものです。それから、君は今、黒市民のうちに、これといって、悪い人間はいないようだと言いましたね。しかし悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです」
負は叱られている心地になって、俄かに意気を消沈する。しかし、先生の遊びに気付くと、電灯が点くような切り換わりで以って、得心の笑みを見せる。
「それ、以前に読みました。引用ですよね、今の台詞。そうだ、間違いない」
「ええ、そうです。私の好きな小説ですよ。名作です。良かった、気付いて貰えて」
「先生はどうして、『先生』が自殺したと思いますか」
「語っても良いのですが、先ず負君の見解を聞いておきたい」
「俺のですか。そうですね……、作中の『先生』は恐ろしかったのだと思います」
「恐ろしい? 何がです」
「変化です。変容していく世界が恐ろしかったのだと思います。そうです、思えば、『先生』は自分の周りで、自分の認識に大きな変化が降りかかった時いつも傷心するようなきらいがあります。それは人間という存在に対する認識であったり、自分という存在に対する認識であったりする訳ですけど、もっと広く言えば、時代の認識です。『先生』の遺書にも、時代の精神に殉死するという旨がありますし、変わっていく時代に追い付けない自分を惟る時、そこに淋しさを感じる事が有り得る筈です。『先生』自身は勿論、その友人の死因について言及する時、この淋しいという言葉が使われているのは、その反映のように思います。それに友人の『K』は古風な人間として描写されているように思いますし、根の所では『先生』も同様。それに比して『先生』の『奥さん』、つまり『お嬢さん』は、作中においては進歩的な、新時代的な人間として描かれているようにも思いますし、この解釈に筋は通っている気がします。どうでしょうか」
先生はこの負の説を聞いている間、相槌もせず、身動ぎもせず、石膏像のように固まっていた。余りの静寂に、負は些か緊張する。
「先生はどう思われますか」
堪えかねて訊く。
「そうですね――」応答に負の緊張が解れる。「確かに、負君の仰ったような側面は、あるように思います。見事な考察です」
褒められて、負は破顔する。
「それでは私の考えも披瀝せねばなりませんね」
「はい、お願いします」
「私が思うに、『先生』は挫折したのです」
「挫折ですか」
「はい。『先生』はそもそも、鷹揚な人間でした。しかしその性質は叔父の裏切り等によって瑕疵を受けてしまいます。この事は、そもそも『先生』の鷹揚な性質が、天来のものではなく、或る条件下においてのみ発育し得るものだった事を示します。条件下とはつまり、人への信頼、人間という存在に対しての信頼です。思想にも満たない思想、素朴な理想、純朴な倫理観と言ってもよい、そういう土台が彼の人生の土台でした。その土台が、信頼が、損なわれる事によって、『先生』の性質も損なわれてしまいます。だが、それはまだよかった。何故なら、世界の認識、延いては人間の認識には、二つの領域があるからです。外側と内側、他人と自分。『先生』が傷を受けたのは、この外側や他人に相当する部分の信頼でした。ここまでなら、『先生』にも耐えられた。まだ、人間という存在、自分という存在への信頼は損なわれていないからです。理想は生きている。しかしそれも、『K』を自分自身でさえ思いも寄らずにしかも自分自身の意思によって裏切ってしまった事で、崩れ去ります。理想を完全に失ってしまったのです。その為に、『先生』の現在や未来は光を失ってしまった。しかもこの気持ちは、彼の細君には理解し得ないのです。何故って、理想というものは誰もが持ち合わせている訳ではない。理想がなくたって生きていける人間はごまんと存在している。畢竟は『お嬢さん』もその一人でした。そして、理想なくしては生きられなかった『K』の方にこそ『先生』は共感を示します。そして彼らと同様に、理想なくしてはまともに生きられない『私』と出会って、先生は自分の人生の成果とも呼びかねる成果をせめてもの糧にと託し、『K』と同じ道を辿るのです。……と、どうでしょう、こんな所で」
負は暫く考え込み、間違い探しで間違いを見つけたように笑う。
「これ先生の事ですよね」
「へ? いや、それは当然、そうですが……」
「いえそうではなくて、貴方の事ですよ、先生」
「私が私の事を話したと」
「そうです」
「はて、私は何かの三角関係を演じた事などなかったと思いますが」
「三角関係は知りもしませんが、理想がどうのこうの言うのは、凄く先生らしいと思いましたよ、俺は」
言われ、先生は自嘲気味に笑う。
「成程。では負君、これが私の話だったとして、どうして私が自殺せずに済んだか分かりますか」
「え? ううん、先生が立派な人だったから、とか」
「そんな解答に点数はあげられませんね」
「先生は強い人ですから、自殺を考える事が考えられませんよ」
「いいえ、私は弱い人間です。とても情けない。そんな私が今まで生きてこられたのは、貴方のお陰ですよ、負君」
「俺の?」
「ええ、間違いなく」
先生は莞爾として笑い、負の頭を撫でる。
「そんな、俺なんか何も……」
と言いつつ。負は少年のような笑みを隠せない。
「そんな負君に、一つ助言を致しましょう」
「はい、先生」
「行動しなさい。変化を恐れてはなりません。行動し続けなさい。脱皮できない蛇は死にます。恐れない者の前に道は開けます。貴方の人生を棒に振りたくないのであれば、貴方の人生を棒に振る覚悟をしなさい。行動しなさい」
負はややの間に黙考して、先程の会話を思い起こす。
「それ若しかして、女のケツを追っかけろって言ってます?」
「さあ、どうでしょうね」
そうこう会話していると、監視装置が警報音を鳴らす。監視装置に登録していない識別情報を持つ腕輪を検知すると鳴る仕組みだ。先生は監視映像を確認する。映っていたのは、見覚えのある女性。先生の記憶に間違いがなければ、その女は……。
「先生?」
監視映像を見て静止する先生に、負が声を掛ける。先生は机の上に置いてあった箱を、じっと見詰める。その険しい面持ちと、尋常ならざる雰囲気に、負は不安を感じる。
「負君」先生が口を開く。「この箱を――いえ、この箱の中身を、君に託します」
先生は黒い腕輪を負に手渡す。
「これ、腕輪……。誰のですか」
「誰の物でもありません。そこに誰かの個人情報が詰まっている訳ではない」
「え、じゃあ、これは……」
「良いですか、それを後見さんに届けて下さい」
「後見に……? 先生、全く事情が飲み込めません」
「それで良いのです。その腕輪は、決して、他の誰にも渡してはなりませんよ。それから、何が起ころうとも、絶対に、この場所へ戻ってきてはなりません、後見さんにそれを渡すまでは。分かりましたね、約束して下さい」
「先生の頼みとあらば、約束はしますけど……」
「すみませんね、迷惑を掛けて」
「迷惑だなんて、そんな、先生の役に立てるならそれでいいです。……ええ、いいですとも。分かりました。約束します。この腕輪を後見に届けるし、それまではここに戻ってきません。命を懸けて守りますよ」
負の意気込みに、先生は首を振る。
「命は一つです。だから、命を懸けられる物事も一つです。同時に二つ命を懸ける事は出来ない。約束は守って下さい。しかし、この約束に命を懸けないで、貴方の人生に命を懸けて下さい。ほら、もう行って」
意気を微妙に挫かれて、負の顔は曇るが、先生の教えを肝銘し道行き照らす光と為す。負は書斎を出ようとして扉を開ける。
「あ、待って」
先生が止めた。
「なんでしょう」
自分が何を言おうとしたのか、先生自身にも曖昧で理解できない。口ごもる。
「先生、今日は本当に、どうしたんですか」
「さて、私にも良く分かりません。でも、そうですね、もう少し私が賢ければ良かったのにと思いますよ」
「そんな――」
負の言葉を先生が遮る。
「やはり、もう行って下さい。私は少々、貴方の人生に執着し過ぎたのかも知れません。貴方の成長が私の人生の意味になってしまった。貴方はそれに応えてくれた。しかし、もうお互いに十分でしょう。貴方は私の期待に応える必要はない。貴方の人生は貴方のものであり、私の人生は私のものなのです。さあ、行って下さい。その荷物を頼みましたよ」
負は、先生の言葉が決別の言葉のように思えて淋しくなる。しかし同時に、一人前の男と認められたような気もして、誇らしくなる。
「はい、行ってきます、先生」
負は筆学所を、しっかりとした足取りで後にした。