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だって知らないから

 日が当たらない為に、黒社会は空気が冷えているが、夜は尚更(なおさら)だった。先生は外を歩いている。筆学所での授業が終り、その日の用事も全て済み、夜気(やき)に当たりながら、散歩をしたい気分になったのだ。青暗い世界は、深い海底のようで、先生は己がそこを這いずる、知的な活動のない生命体であるように感じている。

「古代の専制者は命じた。汝、するなかれと。全体主義者は命じた。汝、すべしと。ユートピアは命じる、汝、せざるなかれ、と」

先生は酩酊者(めいていしゃ)詠吟(えいぎん)みたいに言葉を(こぼ)す。「ユートピア」という統治者は、人々に自由を与える。誰も、他人が何を信じるか、強制する事は許されない。そこには、真実を信じない自由がある。真実を求めない自由がある。論争を、議論を、思想を、無条件に拒否する自由がある。主張の自由は、主張が聞き入れられる事と一体ではない。全ての主張は自由によって認可されるが故に、そこには何の責任もない。(ひるがえ)って、何の強制力も、説得力もない。思想や主張は自由の名の下に放擲(ほうてき)される。言論が誰にも開放される時、物を言うのは実際的な力だけだ。

 筆学所が視界に入って来た所で、民家の物陰から五人の黒市民が現れた。先生を取り囲む。

「何の用です」

先生は彼らの顔を見遣(みや)る。青年だった。子供や年寄りに暴力的な事は難しい。暴力的な事を最もやり易いのは、徒党を組んだ青年だ。だから、彼らは今ここに居るのだ。先生はそう感じる。黒の青年たちは各々、不気味な眼光を瞳に宿している。獲物を狙う獣の目であると同時に、弱者を甚振る事で得てきた薄っぺらな自信を(みなぎ)らせた目だ。彼らは自分が恐怖を知っていると思っている。苦労を知っていると思っている。自分は不幸で、でもそれに反して、強い心を持っていると思っている。五人は仲間で、苦楽を分かち合う家族のようなものだとも少なからず思っている。彼らは痛め付けられてきた。だから、自分たちは自分たちを痛め付けてくるような連中に対して、やり返す権利があると思っている。

 先生は(ふところ)で光線銃を握った。青年たちの一人が言う。

「どうする。俺たちに腕輪を渡すか、蒸発するか」

青年は光線銃の銃口を先生に向ける。黒市民は光線銃を支給されない。どういう経緯か、白市民から盗んだ物に相違(そうい)なかった。

「ほら、選べよ」

実の所、先生には光線銃が全く怖ろしくない。光線銃には階級に応じた光線が設定されており、同階級以上の腕輪を嵌めている人物には通用しないのだ。先生の腕輪は黒に偽装されているが、実際には黄である。白の光線銃は通じない。しかし、相手が先生を撃てば、先生の腕輪が黒でない事が明らかになる。それは「ユートピア」の命に違反する事であり、最悪、死罪も有り得る。そうかと言って、腕輪を渡しても結果は同じ、彼らを無視して過ぎる方法も思い付かない。つまり二択だった。彼らが死ぬか、先生が死ぬか。その選択権は、全面的に先生の手が握っている。

「お願いします、どうか――」

青年が光線銃の引き金を引く。白い光芒(こうぼう)が、先生の腕輪に吸収される。先生の眉間(みけん)が苦悶によって引き絞られる。黄色の光線が、五人の青年を消し去った。

 先生は筆学所に向けて歩んでいたが、ふらりと力を抜いて、高架道路の図太い柱にもたれる。暫く(うつむ)いていたが、振り向いて拳を柱に叩き付ける。

「糞!」

何度も、何度も、叩き付ける。

「糞、この、人畜生が、クソが!」

(くずお)れて、脚が砂埃に汚れる。筆学所も、何もかも、もう辞めよう。そう決めた先生は、また筆学所へ足を向ける。

 筆学所に入ると、灯りも点いていない教室に人影があった。先生は咄嗟(とっさ)に光線銃へ手を伸ばす。しかし、人影が小さい事、子供であるのに気付いて、警戒を解く。彼は壁に寄り掛かって、白河(しらかわ)夜船よふねを漕いでいる。

「君、君」

男児の体を揺する。

「ん、あ、先生」

男児は眠そうに目を(こす)る。

「何をしているんです。早く家に帰りなさい」

「御免なさい、先生。でも、俺、訊きたい事があったんです」

「訊きたい事? なんです」

「先生、今日の授業で言ってましたよね、ええと、ぎを、ぎを、みせてさるは? ……」

「義を見てせざるは勇無きなり」

「そう、それです。先生、勇気がどうのって言ってました。でも、皆うるさくて、よく分からなかったから、皆のいない時にと思って、待ってました。先生、勇気って、なんですか」

酷く胸を締め付けるような質問だった。氷のように心臓が冷たくなる気がする。

「勇気とは、正しい事をする事ですよ」

「正しい事? 正しい事って、なんでしょうか」

「正しい、とは、自分がされて嬉しい事を他人にしてあげる事、自分がされたくない事を他人にしない事、です」

「そっかぁ」

男児は笑った、氷の解けるような和やかさで。

「先生、もっと色々教えてください」

酷く胸を締め付けるような請願だった。気付けば目に涙が滲んでいる。

「何故ですか」

「え?」

「何故、知りたいのですか」

男児は考え込む。そして答える。

「知らないからです」

先生は笑う。男児を撫でる。彼はくすぐったそうに、嬉しそうに、笑う。

「君、名前は」

「ありません。でも、これから先生に言葉をたくさん教えて貰って、格好良いのを自分で付けます」

「そうですか、では、たくさん教えてあげますからね」

先生は、やはり筆学所を続ける事にした。但し、この男児が通う間だけ。

 そしてそれから(いく)星霜(せいそう)と、この男児は先生の筆学所に通い続けた。だから先生の筆学所は続いた。男児はやがて少年となり、少年はやがて青年とはなる。若人(わこうど)の成長は早かった。しかしそれでも、先生の筆学所は続いていたのだった。


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