底辺の逆恨み
安普請の長屋と長屋の間を、足早に一人の青年が歩いている。その前方に、やや年を食った男が居る。彼の体は衰えを抱え始めていたので、因縁を付けられるのが嫌で、そそくさと脇に退く。青年は男を睨め付けるが、男は目を合わせない。青年は行き過ぎる。そして長屋の一部屋に上がり込む。部屋には簡素な二段ベッド二つとソファが一つ、それに何処からか拾ってきたような机の上には飲みかけの飲料が入った瓶やら、食品の包装紙が転がっている。部屋には青年と同じ年代の容色が四人分ある。数か月前にはもう二つあったが、その二人は白市民に殺されていた。彼らはこの黒社会で生まれ育った仲で、今部屋に戻った青年をエン、その他それぞれ、ガン、キン、スイ、リンと言った。
「おう、どうだった」ガンが問う。
「全然つまらなかったな。計画とは関係なしに抜けてきた。何をしたいか分からん」とエン。
「何処か行ってたのか」キンが会話に入る。
「筆学所。上から堕ちてきた奴がやってるって噂だが、ありゃマジだ。あの馬鹿さ加減はな」
「まあ上の奴らなんてそんなもんよ、下の事なんか何も分かっちゃいない」
ガンはそう言うと、未開封の飲料瓶をエンに投げ渡す。エンは摑み取る。開けながら会話を続ける。
「それで、そっちの方はどうなった」
「上々、鴨が葱を背負ってるぜ」
「良し、良し」
エンはベッドに腰を掛けているスイへ目を遣る。スイは手に持つ光線銃へ、宝石鑑定をする質屋のような視線を注いでいる。とても何か分かっている風だが、実は何も分かっていないので、銃の点検をしているような手付きは、銃をくるくる手の内で回しているに過ぎない。
「あれの事はバレてないな」
「バレてない」
「良し、良し、良し!」
エンは会心の笑みを浮かべ手を叩く。
「それで、何時やる事になった」
ガンが腕輪で時刻を確認する。
「後一時間くらいだな」
「ならもう行こうぜ。ここに居ても仕様がない」
そうして五人は長屋を出る。
五人は乱立する家々を縫うように歩き、ただでさえ陋劣な環境から、更に剣呑な空気を付け足したような区画へと足を運ぶ。周辺の人間は何処か人相が悪かったり、面相に大きな傷が付いていたりする。女子供は見掛けられない。その坊間に、黒社会では大きい部類の建物がある。入口扉の左右に厳つい男が立っている。五人はその建物を前にして互いの顔を見合わせ、そしてエンがリンに言う。
「しっかり周りに気を配れ」
リンは頷く。それから五人は入口へ歩く。
「エンが来たと、大御所に伝えてくれ」
言われ、門番の男は黒の腕輪を操作し、ぽそぽそと囁くように何かを告げる。ややあって、腕輪から返答らしい声が聴こえてくる。
「入れ」
門番が言う。しかし、五人は入ろうとしない。
「入れ」
前よりも威圧的に門番が言う。
「どうだ」とエン。
「問題ない、やれ」と、リンが言う。
スイが光線銃を抜いて、門番に構える。ZAP! ZAP! ZAP! 白い光線が門番一人を消す。もう一人が慌ててその場から離れようとするも、ガンとキンの二人掛かりで地面へ引き倒される。そしてZAP! ZAP! ZAP!
「よし、入ろう。くれぐれも気付かれないようにな。時間との勝負でもある。計画通りに動け」
エンが扉に手を当て――
「よし、行くぞ」
開ける。
ZAP! ZAP! ZAP! ZAP! ZAP! ZAP! ZAP! ZAP!
そうして、五人は最後の目的地である扉の前に立っていた。建物に残っている人間は、彼らの他には、この先にしかいない。エンが戸を叩く。
「大御所、エンです。それと仲間も」
「遅いぞ、たわけが。入れ」
扉の向こうから、巨大な畜獣染みた低い声が響いてきた。エンたちは扉を開ける。
部屋には、高級そうな机の前に大御所と呼ばれる大柄な老人と、その端に側仕え数名、それに大御所の前に額付く、娘を連れた男が居た。男と同じように床に額付く娘の顎を、大御所は姿勢を低くして持ち上げている。値踏みしていた。
「そいつらは」
エンが訊く。大御所はエンを睨む。
「質問する権利があるのか」
平生なら慄くであろうエンは、腹の底から、目の前の「人畜生」に対する可笑しみが湧き上がってきて、知らず、口角が上がっていた。エンは一人、周遊するような足取りで、部屋の壁に沿って歩き出す。部屋中の視線が――エンの仲間四人を除いて――エンに集中する。
「小童が金さえ払えば許されると思っているのか」
「へえ、ならどうするって言うんです」
「仲間の一人にでも死んでもらおうか。誰がいい。お前か、それとも――」
大御所が視線をエンの仲間に向けた瞬間だった。白い光が彼の視界の中心を貫き、――ZAP!――そして真っ暗になる。
「こいつらはどうする」
大御所の一味を消し去った後で、ガンが訊く。男とその娘が、震える瞳で彼らを見ている。
「男は殺せ。娘を売りに来た野郎だ」
エンの言葉に脱兎の如く跳ねた男は、背後からの光線で消える。それからエンは娘の肩に手を置く。
「ほら、お前は自由だ、行けよ。その代わり、俺たちの事は誰にも言うな。いいな」
娘はこくこくと頷いて、疾く立ち去る。
「さあお前ら、お楽しみだ、金を集めるぞ、急げ!」
エンが宣言すると、五人は散って、建物中に散らばった腕輪から金を回収してまわった。
陽の傾く頃、五人は町の居酒屋で祝杯を挙げている。
「ざまあみろ! ざまあみろ!」キンが酔って喚いている。
「おい、やかましいぞ」それをガンが嗜める。にこにこと笑いながら、その様子を眺めるリン。スイは料理も酒もそっちのけで、光線銃を隅から隅までじっと見詰めている。エンは続々と運ばれてくる料理に舌鼓を打っている。
「なあエン」ガンが言う。「こうなった以上、行ける所まで行かないか」
「行ける所?」
「ああ、つまり、俺たちがこの町を仕切るんだ。大御所に成り代わるんだよ」
ガンの主張にエンは苦笑する。目を逸らして居酒屋の出口を見ると、店の前をとことこと歩く男児が居る。これ幸いと、エンは男児に声を掛ける。
「おい、餓鬼、そこの餓鬼、お前だよ」
「おいエン」
「まあいいだろ、――おい、お前だよ、ちょっと来い」
男児は、渋々といった表情を隠せずに、エンの許に近寄る。
「お前の名前は」
「ない」
「ない?」
「そいつは犬だ」スイが容喙する。「名無しなんで、犬扱いされている」
「ふーん、犬か」
「犬じゃない」
男児が反抗する。
「犬でないなら名前くらいあるだろう」
「名前はまだない」
「なら俺が付けてやろうか」
「いい、自分で付ける」
「そうかい」エンは串焼きを一本取る。「ほらよ」
男児は破顔して串焼きを受け取る。
「何処に行こうとしていたんだ。家か」
「違う。筆学所」
「筆学所だ? 何であんな所に」
「先生に訊きたい事があった」
「馬鹿が。そんな下らない事に時間使ってんなよ」
男児は特に反発する様子も見せず、もぐもぐと串焼きを食む。
「怒らないのか」
「なんで」
「お前を馬鹿にしたんだぜ」
「先生の筆学所が下らないのかどうか、俺は知らない。だから、怒っていいのかどうか、分からない」
「馬鹿には自分の馬鹿さ加減も分からないってわけだ。ほら、もう行けよ」
「うん、これ、ありがとう」
男児は食べ終えた串焼きの串を握り締めたまま、詩句を朗誦しながら去っていく。
「世間は ちろりに過ぐる ちろりちろり」
筆学所で習ったらしいのは察するが、エンには、他の四人には、その意味が明瞭ではない。諳んずる男児自身においても同様だ。
「筆学所か……」エンが言う。「あいつ、今は黒なんだよな」
「あいつって誰だ」ガンが訊く。
「筆学所の先生だよ。今は黒だ。間違いない。腕輪を見てきた。ってことはだ」
エンはスイの持つ光線銃に目を向ける。スイは厳めしい表情を保ったまま、横目でエンを見返す。
「元が白か黄かなんだか知らないが、日頃の恨みを晴らす好機じゃないか」
エンの言葉に、四人は静まっている。それぞれの顔を見合わせる。復讐心が彼らを燃やし始める。五人は居酒屋を出た。