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灰被りとダイヤモンド

 後日、秋子は情報統制局の局長室で、北方万々代と対面していた。ソファに腰を落ち着かせる北方万々代は、優雅な仕草で紅茶を喫している。一方の秋子は淡々と紅茶を飲む。一見して長閑な光景だが、良く見れば両者の間に互いを牽制し合う気配がある。

「それで――」と北方万々代。「――『紛紜処理係』と令奈の繋がりは確かめられたのか」

「ええ。令奈の腕輪から『紛紜処理係』の基地が分かりました」

「そうか」

北方万々代の笑みは崩れない。が――

「しかし今回は、基地が焼き払われなかったお陰で、かつてない成果がありました」

と秋子が言うと、北方万々代は口元の笑みを堅持したまま、鋭い目をする。

「何が分かった?」

「王手詰みには一手、足りない」

秋子が北方万々代を見据える。北方万々代が含み笑いする。

「勝てるつもりか」

「いいえ、奪われたものは取り返しましたから、これで充分です」

「充分か。しかし秋子よ――」北方万々代はカップを机に置くと、端然たる居住まいで口を開く。「――取り返すどさくさに相手の持ち駒まで取っていっては、取り返しの付かない事になるぞ」

その言葉に秋子は動じる事なく、紅茶に唇を濡らしつつ、不敵な眼差しを北方万々代に向ける。

「お構いなく。既に用意はありますし、それに、やられない限りやり返さない主義ですから、わたしは」

北方万々代は一瞬だけ笑みの消え失せた表情をしたが、直ぐに平生の余裕に満ちた面持ちで、席から立ち上がる。

「無意味な事を……。まあ良い、精々用心しておく事だ。どんな遊びも、直ぐに終わっては味気ない」

 北方万々代が去った後、秋子は所定の仕事をこなして、帯刀の運転する車に乗っていた。窓の外を流れる景色を眺めながら、感嘆の息を漏らす。

「勝ったわ。ねえ、帯刀、あの北方万々代が、捨て台詞を吐いたのよ。ウフ、ウフフ……」

愉悦に満ちた秋子の顔ばせ。帯刀はバックミラー越しで視界に納める。

「俺は不安ですがね、やり過ぎではないかと」

「仕方ないじゃない。あれを残しておけば、麻千花が狙われるかも知れないし、かと言って解散させても北方万々代か碌でもないのに回収される、全員を始末するにも手間だし、余計な敵を増やすかも知れない。だったら、わたしの手中に納めちゃうのが合理的でしょ」

「公に曝す選択肢は考えられましたか」

「一応ね。でも良い事ないわ。令奈がわたしの直属だった以上、疑われるのはわたしだし、北方万々代があれに通じていたという確証も出なかったし、情報の出所を隠して組織の存在だけを公表できるような作り話も考えてみたけれど、手間と費用と不確定要素を加味したら、やっぱりわたしの持ち駒を増やすに如くはないわ」

「左様で」

 会話が一段落して、秋子は車の物入れに手を伸ばす。ラムネバーを取り出そうとして、止める。

「もうこれを食べる必要もないわね」

秋子は自分の腕輪に触れる。

「いいんですか、停止して」と帯刀。

「確かに強力な『守護者』だけどね、これをずっと起動していると、本当に頭が疲れるのよ。このお菓子がないとやってられないくらい。『守護者』の機能を脳に直接繋ぐなんて、するものじゃないわ」

「しかし実際、強力です。反撃を受けるかも知れない今の時期に解くのは些か……」

「少しくらい許してよ。漸く目的を成し遂げたんだし、それに、フフ、優秀な番犬も拾って来たんだしね」

「番犬……」

「まあ、まだ調教は必要かも知れないけれどね」

「そこまで仰るのなら止めはしませんが、勝って兜の緒を締めよ、という言葉もあります事、肝銘しておいて下さい」

帯刀は遥かな空を漂う「可乎蝶」に目を向ける。

「御忠告どうも」

秋子がそう言って、指を腕輪に滑らせる。帯刀の目に映っていた「可乎蝶」が消えた。

 至る所が破壊された秋子邸には、修復の為に業者が出入りしていたが、元々が大きい建築物だから、居住空間は充分に残っており、修復が終わるまでの多少の不便さがある以外は、以前と同じように使われていた。自宅に戻った秋子は、背後に帯刀を引き連れ、意気揚々と物置部屋に向かう。

「ただいま。良い子にしてたかしら」

しかし部屋に居たのは負ではなく、秋子邸の女中だった。

「あ、秋子様……」と女中。

「負は?」と秋子。予想していなかった事態に、珍しく驚きの表情を隠していない。

「それが、私も食事を運んで来たら、部屋がもぬけの殻だったんです。書き置きと首輪が置いてあったんですけど、これが……」

女中は秋子に、赤い首輪と、何時の間にやら負が用意したらしい紙を手渡す。

「どうやって首輪を……」と秋子が言う。それに対し、若干の呆れを滲ませる帯刀。

「夜這いされたんでしょう」

ぎくりとする秋子。

「言わない事ではない」と帯刀。

「か、紙にはなんて?」

話題を逸らすように、秋子は紙に書かれた文章に目を移す。今度は女中が呆れたような顔をする。その感情は、負に、と言うより黒市民に対してのものだ。

「本当に頭の良い人は、誰にでも分かり易い文章を書きますけど、やたら凝った言い回しや難しい言葉を使うのは、本当は頭が悪い証拠ですよね。これだから教養のない黒は……」

紙にはこう書かれていた。

〈 彼の淇の澳を瞻るに、菉竹猗猗たり。有斐なる君子は、切るが如く磋くが如く、琢くが如く磨るが如し。瑟たり僩たり、赫たり喧たり。有斐なる君子は、終に諠るべからず 〉

これを読んだ秋子は、くしゃりと紙を握り潰す。

「言ってくれるわね、あの駄犬」

完全に喧嘩を売られた人間の顔をしている。が、直ぐに悲しそうに目を伏せて、皺くちゃになった紙に再び視線を落とす。

「どうしますか」と帯刀。

「どうしよう」と秋子。

「あきちゃん」

 不意に、後ろから声が掛かる。入口に麻千花が立っている。

「わたしが彼を迎えに行くよ。まだ、ちゃんとお礼も言ってないし」

「でも、あいつは、わたしの所に来たがらないわ」

「でも、あきちゃんは傍に彼が居て欲しいんだよね?」

秋子は答えられない。

「違うの?」と麻千花。

「違うわ」秋子は負の書き置きを帯刀に押し付ける。「わたしは、巧い事あの犬を飼い慣らしてみたかっただけよ。手に入らないなら、どうでもいいわ」

そう言って秋子は部屋を出た。

 立ち去る秋子の背中を見送る麻千花と帯刀。沈黙と静寂が、ややの間、部屋に満ちる。

「あの……」と、沈黙に堪えかねたらしい女中が帯刀へ声を掛ける。「それで、その紙に書いてあるのは、どういう……?」

帯刀は深く嘆息した。

 高架道路の下、黒社会の一画、裏店(うらだな)……。佐武文の店に入った時、負は大きな紙袋を抱えていた。

「何か久し振りだな」と負。

店のカウンターで駄弁っていた佐武文、蜂須賀、そして小男が負を見る。この小男は負たちの仲間で、情報屋をしている波羅蜜という男だ。

「お待ちかねだな」と蜂須賀。負の抱える紙袋を見て、顔を綻ばせる。

「何を持って来たんだ」と佐武文。

「ほらよ」

負は紙袋をカウンターの上に乗せる。三人が中身を覗き込む。中身は茶色の大量の粒。

「なんだこれ、糞か」と佐武文。

「おい、負? 高級蜂蜜はどうした」

蜂須賀がそう言って負の方を見た時、店の扉が閉まる。

「どうやら、まだ立ち直ってないらしいな」と佐武文。

「大丈夫かな」と蜂須賀。

「さあな。こればっかりはなぁ、どうにも……。で、これは一体なんだ。波羅蜜、分かるか」

波羅蜜が粒の一つを口に運ぶ。

「食えるのか、これ」蜂須賀が次ぐ。「……これ、ドッグフード?」

「犬の餌かよ、畜生め!」

佐武文がわざとらしく叫び、蜂須賀は苦笑する。

「ま、おやつ代は浮くだろ……」

 佐武文の店を出て、負は一人で歩いている。その足は筆学所へと向かっている。長年の習慣には、新しい事などないし、変わった事もない。周囲の景色もいつもの黒社会と変わらない。陋屋があって、疲れた目をする人があって、光は高架道路に遮られて、埃っぽくて……。だが一つ、いつもと異なるのは、黒い蝶が、あの燃え止しのように飛び交っていた黒い蝶が、消え失せている事だ。まるで、燃え尽きて、吹き散る灰燼すら無くなってしまったかのように。

 負の脇を車が通る。車は所謂、軽トラックで、二台が走る。その一台には、工事の道具らしい物品が積んであるが、もう一台の荷台は空だ。

 負が筆学所のあった場所に到着する。既に瓦礫は撤去され、出来た空き地は、隣家と並んで、歯抜けのようになっている。しかし、その空き地の中心に、四角い磨き上げられた黒石が鎮座させられていた。そしてその石の前に、初老を過ぎた頃と思しき痩躯の男が佇んでいる。上等な衣服、整った容貌、高級そうな杖、見るからに上位市民だったが、片手が上着のポケットに容れてあって、腕輪の色は分からない。

 負は近付いて、黒い石に目を遣る。それは詩碑だった。

――確か、アンジェイェフスキ……、いや違う、……ノルヴィトか。

思考を中断し、負は男に声を掛ける。

「おい、あんた、悪い事は言わないから、早く帰った方が良い。ここら辺は最悪とまで言わないが、治安が悪い。どれくらい悪いのか簡単に言うと、プレストゥプニクがカッター銭を巡ってクラストやアルトラを……止そう、下らない。とにかく身を守りたいなら、危うきには近寄らない事だ」

「君子危うきに近寄らず、か?」そう男は言い、負を見た。「君はここの筆学所で学んだのか」

「え? ああ、まあ、そうです。貴方は?」

「うむ、ちょっとね……。ここの筆学所にわたしの教え子が居たのだが、寝坊した所為で会いそびれてしまった」

「寝坊ですか」

「ああ、そうだ、寝坊だ。酷いものだぞ、寝て起きたら妻も娘も居なくなり、知らない内に再婚し、挙句には教え子に会う事もままらなん。だが、まあ、君に会えて良かった。一応、訊いておこう。何故、わたしをここから離そうとした」

「それは、当然、ここがあんたにとって、安全じゃないから……」

男はにっこり笑うと、負の肩を叩いた。ポケットから出した手の首に嵌まる輪は青い。

「善い教育を受けたな。その親切心を忘れるな。そして、そうだな、これは老婆心ついでの教説だがな、人を責めるな。それと親切心は表裏一体だからな。表面上、どんなに親切に見えても、違う所で人を責めているなら、その人間は本当には親切ではないのだ」

「はあ」

「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し急ぐべからず……、己を責めて人を責めるな。という訳だ。なに、要は自分に原因を求めて、自分を改善していけば良いというだけの事だ。自分を追い詰めさえしなければ、それでよろしい。さて、久々に前途有望な若者と話せて、つい長くなってしまった。悪かったな」

男は歩き出す。杖を突く姿は、筋力が弱っている事を物語る。それでも元気に、男は言った。

「少年よ、大志を抱け!」

男は負に向けて手を振る。負は簡単に手を振り返した。そして、男は歩き去って行った。

 負は詩碑の前に座り込む。それから、何をするでもない。負の脳裏には、先生との会話や、筆学所の情景が浮かぶ。時折、現実を意識する。それを繰り返した。

「ねえ」

麻千花の声が、負の背中に当たる。

「隣に座ってもいいかな」

「好きにしろ」

麻千花は負と触れ合う程の隣に座る。負は麻千花を向くが、目が合うと、直ちに向き直る。

「あきちゃん、すっごく寂しがってたよ。戻らないの?」

「俺は犬じゃない」

「それは照れ隠しだよ。あきちゃん、昔からそうだから」

負は黙る。

「ここで何をしていたの」

「何もしない。何も出来ない」

「なら一緒に戻ろうよ。あきちゃん、喜ぶよ」

「戻って何になる。あいつの物になって、それでどうなる。俺は、俺の人生を生きたいんだ」

「どうして」

「どうしてって、それは、それが、正しい事だから……」

「違うよ。正しい事って言うのは、自分がされて嬉しい事を他人にしてあげる事、自分がされたくない事を他人にしない事、だよ。先生にそう教わらなかった?」

「でも先生が言ったんだ。俺は俺の人生を生きろって。だから……」

「わたしはね、自分の為に、自分の為にって、『紛紜処理係』の任務をこなしてきて、とても辛かったよ」

「それは……」

「先生は、誰かの為に生きたんじゃないの?」

負は答えられなくなった。麻千花の言う事が真実だと思ったからだ。しかし、負は先生や筆学所の為に生きたかった。それ以外の事に命を懸けたいとはまるで思わなかった。矛盾する話だが、それ以外の事に命を懸けるなら、死んだ方がマシだと感じた。

「君は――」と負。「どうして先生の教えを知っているんだ」

「それはね、これだよ」

麻千花はロケットとそれに納まる写真を見せる。着飾った幼い麻千花と秋子が、笑顔で写っている。

「この写真はね、先生が撮ってくれたんだよ、わたしの誕生日会に。わたしも先生の教え子なの」

「成程な、それで……」

 長い沈黙。麻千花が切り出す。

「君は、言ったよね。筆学所が、先生の事が大好きだったって」

「言ったな」

「だから、悲しいんだよね。全部、無くなってしまったみたいで。それでも自分は生き続ける事が、大切な人を裏切るみたいで」

負はかなりの躊躇いを口に含んで、それでも、「そうだな」と言った。

「わたしも、大好きなお母様が亡くなって、お父様も意識が戻らなくなったって聞いた時、悲しかった。どうしたら良いのか分からなくて、何も出来ないのが嫌で、怒り狂って、泣いて、諦めた。でもね、本当は、もっと冴えたやり方もあるんだって、今は思うの」

「冴えたやり方?」

「うん。それはね、数えるんだよ。その人が自分に遺してくれたものを、記憶を、思い出を、優しさを。そうしたらね、強く生きていける気がする。その人が成し遂げようとした事の欠片が、今のわたしに繋がっているんだって思うと、生きなきゃって思う、生きていられるって思うんだ。君が教えてくれた事だよ。……ほら、数えてみて」

負は言われるがまま、心の中で、数え始めた。数える為には、記憶を探り、先生の意図を、自分の感じたものを、拾い集めなければならなかった。そうしていく内、腕にも抱えきれない程、沢山の、数を数えていた。

 声が漏れていた。涙を拭っても、直ぐに溢れてきた。横から麻千花が抱き締めてきて、何故か堪えられなくなった。生まれてから一番、大きく、長く、泣き叫んだ。

 負が立ち上がる。

「すまなかったな」と言う。

「何が?」と麻千花。

「手間を掛けさせた」

「お互い様だよ。さあ、行こう」

「行くのは良いけど、絶対に犬にはならないからな」

負が歩き始めて、麻千花がその隣を行く。

 ゆらゆらと舞う黒い蝶が一頭、その後ろ姿を見送るように舞い降りて、詩碑の上に留まる。詩碑にはこう刻まれていた。



松明のごと、なれの身より火花の飛び散るとき

なれ知らずや、わが身をこがしつつ自由の身となれるを

もてるものは失わるべきさだめにあるを

残るはただ灰と、あらしのごと深淵に落ちゆく混迷のみなるを

永遠の勝利のあかつきに、灰の底ふかく

さんぜんたるダイヤモンドの残らんことを











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 ▼お疲れ様でした

 ▼お忘れ物のないようご注意下さい


〈 ユートピアより 〉





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