理想の前途
先生は二人がまた談笑し始めた所で、その場を離れて、会場の隅に立つ。自らの黄色い腕輪を弄る。腕輪は現在の時刻を表示する。流れていく時間に、表情は険しい。
「おい、先生」
声に振り向くと、私柳景が立っていた。彼は年来の友人で、今回計画している事に関する同志だった。
「灰鰓さんの到着はまだか」
「まだです。連絡も付きません。何をしているのか……」
「まさか俺たちの計画で何かあったわけじゃあるまい」
「バレたにしても、私たちは共謀罪ですが、源一様に迷惑は掛からないでしょう。協力して下さるかどうかを、今日、回答してもらうのですからね。存外、私たちを通報して、その為に遅れているのかも……」
「馬鹿な事を言うな」私柳は語気を強めた。「俺たちの恩師だ」
「分かっていますよ」先生は揶揄うように微笑する。「そもそも今回の事だって、あの人の考え方に影響されて始めた事ですからね。源一様なら、絶対に賛同してくれます。少なくとも、何らかの助力はして下さる筈だ」
「応とも」私柳は持っていた杯を飲み干す。
「しかしお前、あの人の考え方に影響されたってのは違うな。俺はそうだが、お前は違う」
私柳は悪戯を仕掛けるような、真面目ではない真剣さを面持ちにする。
「どういう意味です」
「灰鰓さんの考えは、下層が貧しければ貧しい程、社会の発展が阻害され、結果的に上層も損をする、よって黒市民を援助しなければならない、これだ。だのに、お前の考えは、人類の理想的な状態は人類が平等であり、個々が尊厳を保っている事、その為に、尊厳を毀損する格差を排除する必要があり、よって黒市民を援助しなければならない、これだろう」
「まあ否定はしませんがね」先生は頭を掻く。「そう悪い信念ではないでしょう。私は黒市民を守りたい」
「悪かないさ。だけども、お前、黒市民って奴らに対して、希望を持ち過ぎている。ただでさえ人が理解し合うのは困難だ。況してや、黒市民とお前じゃあ、苦労を越して苦痛になるかも知れないだろう。それが心配なんだ。俺は、黒市民が学を得てすることは、先ず下剋上、それか既成の権威に乗っかる事、どちらかだと思っている」
「確かに、そういう人が現れた所で、意外ではないでしょう。でも、中には、清廉な意志を抱くに至る人も出でる筈です」
「お前は人を信じ過ぎる」
「人並に疑心は持っていますよ」
「そうじゃない。人という存在、人間存在一般を、お前は清浄なものだと信じている。それはつまり、この世の人間、全てを愛しているという訳だ。お前自身を含めてな。だけど人間はそんなものじゃない。いつか間違いなく、お前は他人に裏切られる。それはまだいい。そこに俺の心配はない。だけど、なんというか、こう……」
「なんです」
「すまん、巧く言葉に出来ない。代わりと言ってはなんだが、灰鰓さんがいつか、お前を評してこんな風に言っていた、『仮に挫折したとして、その挫折を誰にも理解して貰えない男。弱い人間と誤解される男』と」
「源一様がそんな事を……」
「貶そうとしていたんじゃない。むしろお前を評価しての言葉だったのは間違いないと思う。多分、俺と同種の心配を、灰鰓さんは俺より正確に把握していたんだ」
「賢い人ですからね」
「皮肉か」
二人は笑い合う。会話を小休止して後、会場全体へ向き直る。
「皮肉と言えば、そんな俺たちの恩師の娘の誕生日会に出席するお歴々が敵になる、この事こそがそうだ」私柳は一段と声を低める。「誰が首魁になると思う」
先生が会場の人物たちを見定めていく。
「恐らくは、彼女。北方万々代」
「なるほど。良い読みだ」
二人の視線は、青の腕輪を嵌めた麗人に向いた。北方万々代、彼女の周りには、黄、赤、青の腕輪が混じって、人だかりを作っている。不意に、彼女が二人の方を見た。――ような気がして、先生も私柳も、思わず顔を背けてしまう。
「……気の所為だよな」
「恐らく」
北方万々代は、押し寄せる面々に愛想の良い笑顔を振り撒いていた。十人もの人が一斉に別々の事を話すが、万々代は一人一人に適切な答えをする。
「それにしても――」そのうちの一人が言う。「主催者がやけに遅れていますな。灰鰓氏はどうしたのか……。主人公も退屈しているでしょうに」
彼らは麻千花へ目を向ける。麻千花はクラッカーを秋子の口に運んでいる。口を開けていた秋子は衆目に気付き、硬直して口を引き結ぶ。麻千花は眉尻を下げる。
北方万々代が歩を進めると、船に両断される水面のように人々は進路を開ける。歩幅の距離で立ち見下ろす万々代に、麻千花は泰然とお辞儀をしてみせる。北方万々代は挨拶なしに「御両親が待たせているな」と言う。
「面目ありません」麻千花が言う。「両親に代わりお詫び申し上げます」
「幼子が立派な事だ」北方万々代が鷹揚な仕草で麻千花の肩に手を置く。「だが俺の前では肩肘を張る必要はない。力を抜け」
「いいえ」毅然たる声音。「お心遣いには感謝致しますが、灰鰓の者としての礼儀は尽くします」
「……御両親がどうしているか気になるだろう」
北方万々代は眉一つ動かさないままに、麻千花から離れる。
「令奈」
北方万々代は、傍らに控えていた女性に声を掛ける。彼女は唐栗令奈という名で、北方万々代の側近だ。
「外の様子を確認しろ」
「はい」
唐栗令奈が自らの赤い腕輪を捻る。すると、彼女の眼の周りに、光で象形されたゴーグルのようなものが浮かび上がる。「守護者」と呼称される腕輪の機能の一つで、遺伝子情報からそれぞれの人物に固有の装備を出現させる。唐栗令奈のそれは、この世界を統治する電子頭脳「ユートピア」の映像記録を自由に視る事の出来る物だ。暫しの沈黙の後、唐栗令奈は口を開く。
「これは……」
「どうした」
「道路を大勢の人が埋め尽くしています。建物内に侵入する者も。暴れているようです」
唐栗令奈の言に、一同がどよめく。
「治安部隊はどうしている」
「暴徒と争っていますが、数が多過ぎるようですね。……暴徒は皆、黒市民のようです」
先生たちは相変わらず会場の隅角でその様子を眺めていた。
「どうかしたのか」
「さあ、守護者を起動しているようですが」
「側に居れば情報をまた一つ収集できたのかもな」
「協力的な態度は期待できないでしょうね」
二人は笑みを交わす。
彼らが交わした冗談は、彼らの理想、延いては計画に纏わるものだった。彼らは平等な社会を目指している。しかし、黒から白への昇格には、「守護者」の起動が必須。だがそれは何らかの訓練で可能になるような事はない。だから、彼らはその起動条件を研究し、それが判明した暁には、公表するつもりだ。それによって、少なくとも黒と白の身分の垣根は解消されるか、和らぐ。しかし「守護者」と階級の仕組みは「ユートピア」が決定したものだ。反逆は最大で死刑に値する。二人は理想に命を懸けていた。
「……良かったのですか」
先生が訊く。
「何がだ」
「命懸けになります。きっと思っているよりもずっと危険な事です。貴方には彼女だって……」
「静流の事か。心配ない、あいつは俺たちの理想を理解している。裏切ったりしない」
「違います、そうじゃありません、そうではなくて」先生は言うのを躊躇ったが、やはり言う。「大切な人を、巻き込む事になりかねない」
先生の言葉に私柳は黙する。痛みを堪えるように押し黙る。
「俺が命懸けで守る。理想には命を懸けるが、それと同じくらいに命を懸けて、あいつも守る」
私柳は先生を見ていなかった。先生は口から出掛けた言葉を飲み込む。
エレベータが開いて、灰鰓家付きの使用人が会場内に慌てた様子で入ってくる。
「大変です!」
会場に居た全員がそちらを向く。
「黒市民の暴動が起きました。もう暫くで鎮圧される見込みですが……」
使用人は言葉を詰まらせる。
「早急に言え」
北方万々代の、冷たい刃の音声が使用人の咽喉を掻き開く。
「源一様は意識不明に、奥様は、既にお亡くなりになったと、報せが入りました」
会場は騒然となる。しかし先生と私柳は一言も発する事が出来ないでいる。そしてもう一人。
「麻千花……」
秋子が麻千花の顔を見詰めている。麻千花は蝋人形のように固まっている。ただ呆然と、呆然としていた。