それぞれの準備
負を案内に、三人は黒社会を歩いている。昼日は中天を過ぎて、弥増す暗がり。年季の入った家屋や草臥れた衣服に引けを取らない草臥れた表情の住人たち。灰被りの目に映る街並は末枯れているようだ。荒む人草の景色に呼応するように、或いは民草の気色に荒涼を映す根源として、灰被りの悄然とした面差しがある。盗み見るのは負の横顔。微笑すら湛えた凜乎たる顔に、灰被りは怖けさえする。
――彼の大切な人をわたしが奪った。わたしが先生を殺した。
それを知った時、彼はどうするだろう、わたしに何をするだろう、そういう考えが灰被りに浮かんでは沈む。協力を受け容れた事を後悔し始め、今にも逃げ出したくなってくる。一緒に歩いているだけで、引致される咎人のような気持ちになる。
「ねえ」
灰被りが声を出す。咽喉の奥に意図しない震えがあるような、閊えるような声が出たので、気恥ずかしくなる。負が灰被りに向いて、灰被りは焦って言葉を継ぐ。
「今日、先生には会ったの?」
「ああ、会ったよ」
灰被りの動悸が強くなる。眼が湿りを帯びる。奄々となりそうな気息を隠す為に、静かにゆっくりと吸気する。
「な――」吃る。「何を話したの」
「んーむ、小説の解釈が主で、後は世間話」
「そうなの」
「君はどうだったの」
「え?」
「会いに行ったんだろう、筆学所まで」
「あ――」
筆学所は灰被りが燃やした。それは揺るぎない事実だ。灰被りの瞳が揺れる。負から視線を逸らす。
「会えなかった。わたしが行った時には留守だった」
「ふむ、そうか……。何か教えて欲しかったんだよな」
「え、あ、うん……」
「なら、俺が聞こう。先生の知っている事は、俺も大体、知っている」
負は気さくに言うが、灰被りは応答できない。その様子に、信用されていないのかと訝った負は、灰被りの顔ばせを見留める。開きそうにない愁眉と、潤んだ目、笑んで欲しい紅唇……。灰被りの顔ばせに見惚れる。灰被りの目が負に向き、負は内心で動揺するが、目は逸らさない。
「君と先生は、どういう関係なんだ」と灰被りが言う。
「どうって、師匠と弟子だよ」
「それだけなのか」
「それだけだけど? まあ、強いて言えば、友かな」
「友?」
「そう。古くからの親友だ。俺は餓鬼の頃から先生の筆学所に通っていたし、先生も良く俺の面倒を見てくれていたから、自然と価値観や興味関心が似て、行動を共にする事も多くなった。文字通りに同じ釜の飯を食う事もしょっちゅうだったし、その日一日に起こった事や体験した事を話したり、一緒に出掛ける事も度々で、筆学所の家事や仕事も良く手伝ったよ」
「それを友と呼ぶのか」と後ろから帯刀が口を挟む。
「そういうのを友と呼ぶんだ」と負が返す。
灰被りは隠せそうもない涙を隠す為に俯く。灰被りの心を罪悪感が占める。既往が灰被りを極悪の罪人として責め立てて、不服があるなら陳述せよと、今傍に居るこの男に己の無実を訴えてみせろと叫ぶ。今まで己の為してきた非道の一切合財が眼前に突き付けられる想い。今すぐにでも拝跪して、告解したい。しかし出来ない。どうしようもなく我が身は惜しく、復讐が恐ろしかった。復讐の火に炙られる恐怖は、自身が火片に変ずる場景は、灰被りの良心を磔にして、灰被りの肉体を人形にした。結局は「ユートピア」の与える目的を題目にして、手繰られるだけの操り人形が灰被りだった。灰被りは罪悪から顔を背けるように瞼を強く閉じる。大粒の涙が二つ零れて、それきり涙は止まる。さり気なく目元を拭う。
「なあ、それで――」と負。「訊きたい事はないのか」
「ない」
灰被りは断乎として言った。
それから辿り着いたのは再開発予定地の一画。寂れた建物の一つには、高架道路までの高さしかない建物もあり、それこそが負の目標地点だ。
「さあ、ここで私柳を迎え撃つ。準備を始めるぞ。抜かりのないようにな」
負が言い、帯刀と灰被りが首肯した。
私柳は「焚書官」の根城である家屋に居る。粗雑だがそれなりに広い家だ。入口から直ぐに客間になっており、中央部に大机と数脚の椅子があり、二階は「焚書官」が喫緊の際の宿にしている。
私柳は客間の椅子に腰を下ろしてはいるが、時折に立ち上がったり、歩いたりして、落ち着かない。配下に外を巡らせて、負の居所を探っているが、芳しい報告は来ない。所在ない私柳の立ち居振る舞いに、同じく客間に居る数人の「焚書官」は、面目次第もない。
「申し訳ありません」と一人が言う。「俺たちがあいつを取り逃がしたばかりに、こんな……」
「まだ失敗したと決まった訳ではない」と私柳。「あいつの腕輪からはどうだ。何か情報を得られたか」
負の腕輪を操作していた男は、謝罪の意を示すように、目を伏せる。
「駄目です。殆どの記録が消去されています。情報を復旧しようにも、俺たちでは出来ません。この辺りだと、こういう機器に強い佐武文という廃品屋が居るのですが、捕まらなくて……」
次いで、別の男が言う。
「奴らの行方や、その廃品屋を探すのに、情報屋を当たっているんですが、この辺を縄張りにしている波羅蜜とかいう奴も見付かっていません。とにもかくにも、腕輪の情報が消されてさえいなければ、『可乎帳』を使うとか、宿世負の知り合いを当たるとか、俺たちにも出来たんですがね」
「味な真似をする青二才だな。流石にあいつの子弟か」
私柳は自嘲するように笑う。
不意に、負の腕輪に着信がある。一同の視線が腕輪に集中する。私柳が「貸せ」と言って、腕輪を受け取り、確認する。メールが届いている。
〈 無題 〉
▼迎えの準備が出来た。
▼集合場所と時間は前に伝えた通りで変更はない。
▼念の為、地図を添付しておく。
▽「地図」を展開しますか?
「出張っている全員に連絡だ」
私柳が言う。逃した獲物を思い掛けずに発見した狩人の笑みに、周りの「焚書官」たちも雀躍せんばかり。
「この地図の場所に向かうよう言え。但し踏み込まないでいい。この場所を少し離れた位置で囲んで監視しろ。誰かが近付いたら報告だ。宿世負については、俺が手ずから始末を付ける」
「はい」と「焚書官」の一同が返事をして、行動に移る。私柳もまた、僥倖を無駄にはしまいという意気込みで、地図に示された場所へ向かい始める。外で陽は既に沈み、人工の光が夜闇を押し退けていた。




