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死と約束と思惑

 負は、煩悶(はんもん)を繰り返しながら歩いている。

――嘘だ、いや本当だ、いや嘘だ……。

彼の前を、ひらひらと「可乎蝶」が飛んでおり、それに引っ張られているような、何処か覚束(おぼつか)ない足取り。腕輪で通信を試みる。

「なんだ?」と、腕輪から蜂須賀の声。

「今、何をしている」

「寝ていたよ」

「筆学所に行ってくれ」

「うむ、いいけど、どうした」

「燃やされたらしい。確認してくれ。それと、先生の安否も」

「何!? 嘘だろう。……おい、お前は筆学所に居ねえのか。何処で何をしている」

「俺は……」

負はポケットに突っ込んだ手に当たる、預かり物の硬い感触を意識する。思い起こされる先生との約束。

「やる事がある」

「そうかよ、まあ、こっちは任せておきな」

「ああ、頼んだ」

通話を終える。

 負は先生との約束を、遣り取りを思い返す。今は筆学所に戻ってはならない。腕輪を秋子に届けなければならない。そして、自分の人生に命を懸けなければならない。それらの、約束。しかし、前の二つはともかくとしても、最後の一つをどうすれば良いのか、まるで見当が付かない。今までの負の人生は、間違いなく筆学所と、先生との交流にあった。自分の命を人生に懸けろと言うのであれば、それは即ち、先生と筆学所の活動に命を懸ける事だ。その両方が失われたとあれば、負には命を懸ける人生などない。人生のこれからは全く無意味で、空虚なものだ。生きていても仕方がない。

 秋子に腕輪を届ける約束と、筆学所に戻ってはならないという制限が、今の負には杖の代わりに機能している。それらがなくては、まともに歩き続けるのも容易ならざる状態だ。

「これで嘘だったら承知しないぞ、糞、ふざけやがって、クソが……」

ぶつぶつと罵詈雑言を垂れ流す。負の憮然(ぶぜん)たる表情は、段々と憤懣(ふんまん)に転じてくる。

「おい」

そんな時、横合いから声を掛けられる。負は声を掛けてきた者を見遣る。知りもしない黒市民だ。

「お前、宿世負だな」

「それがどうした」

相手がいきなり殴り掛かってくる。相手の拳を、負は全力の頭突きで以って、額に当てる。生半(なまなか)ではない音が響く。恐らくは相手の指は骨折している。

「失せろ、今は気が立っている」

言い捨て、負は先へ進む。

 確証はないが、十中八九、今の人物が『焚書官』とやらの一員だろう、と負は推測する。事実、それで合っていた。

 負は殴らせた額に指を遣る。多少の痛みはあるが、眩暈(めまい)などは生じていない。そしてこの痛みで、僅少ながら冷静さが戻ってくる気がする。

――まだ先生が死んだと決まった訳じゃない。

そう、負は思い至った。そこで、自分の腕輪をまた取る。何故こんな簡単な事を始めにしなかったのだろうと、自嘲を漏らす。本当はそれをするのが恐ろしくて躊躇っていたのだが、そういう臆病な気持ちをなかった事にする。

 負は先生の腕輪に電話を掛けた。

 少し長めの呼び出し音が已む。腕輪から風を切る音が聴こえる。暫時の間、負が全く声を発せないでいると、向こうから声がする。

「宿世負か」

負の知らない声だ。

「そうだ。あんたは」

「俺は私柳景」負の心胆(しんたん)が冷える。「この腕輪の持ち主の友人だ」

「先生はどうした。なんであんたがその腕輪を持っている」

「あいつは死んだ。殺されたよ」

負は自分が泣きそうな顔になるのも気付かない。

「誰にだ」と負は問う。

「さあな、筆学所を燃やした奴だ。俺は今そいつを追っている。そいつが俺たちの大事な物を奪っていったらしくてな」

「大事な物」

「ああ、腕輪だ。黒の腕輪。……お前、ひょっとして、あいつから預かっていないか」

「預かっている。だけど、待て、先生はどうしたんだ」

「死んだと言った」

「そうじゃない。本当に死んだのか。まだ助かるんじゃないのか、医者は呼んだのか……。頼む、俺に出来る事があれば何でもする、だから、先生を見捨てないでくれ。どんな手を使ってもいい、それが犯罪でもいい、俺が罪をおっ被ってやる、どんな事でもするから、先生を生かしてくれ」

「無理だ、諦めろ。だがしかし、お前が預かった腕輪を俺に渡せ。それがあいつの遺志だ。あいつの願いを裏切りたくはあるまい」

「それは、そうだが、駄目だ。先生が、他の誰にも渡すなと……」

「後見秋子以外には、か? ここだけの話だがな、俺はあいつを殺した犯人は、後見秋子じゃないかと疑っている」

「どういう事だ」

「後見秋子が俺たちを裏切ったんだ。その腕輪を欲してな。だから、あいつのその腕輪を渡すな、絶対にな。お前、今は何処に居る?」

負は黙っている。

「おい、何処に居る」

「……今から筆学所に向かう。そこで落ち合おう」

「筆学所? ……まあ、いい。分かった。急げよ」

通話が終わる。

 負はそれからとぼとぼと歩き、広場に着く。この広場を抜けてもう一つの広場も抜ければ、秋子邸に辿り着ける。だが、負はベンチに座り込んでしまう。頭を抱える。広場のテレビスクリーンからは「星屑の児戯」の歌声が響く。家を持たない黒市民が、広場に落ちるゴミを拾っている。そろそろ昼時である為に、弁当を提げた黒市民も幾人か居る。鳩が羽搏(はばた)く。「可乎蝶」が負に(たか)る。

 腕輪に着信がある。応答する。

「俺だ、おい、大変だぞ」蜂須賀だ。

「何だ」

「筆学所が跡形もない。信じらんねえ、おい、どうすんだよ、これ」

「知るか」

負の声の調子に、蜂須賀は胡乱(うろん)さを感じ取る。

「大丈夫か、負」

「先生は」

直截(ちょくせつ)な負の問いに、蜂須賀は声を詰まらせる。

「いいか、負、落ち着いて聞けよ」

「これ以上、動揺のしようがない」

「そうか。あのな、先生は、死んでいた。筆学所の隣の、あばら家で、血塗れになってたって」

「そうか」

「あ、あのな、負」

「何だ」

「元気を出せ、とは言わないけどよ、余り落ち込み過ぎるな。先生だって、お前にそうなって欲しくないだろう」

「ああ、そうだな、切るぞ」

「ああ、それじゃあな」

通話を切る。

 しかし立て続けて着信がきた。負は応答する。

「もしもし、何の用だ」

「あ、あの、負、あのね……」相手は秋子だ。「若しかしたら、先生に電話を掛けたんじゃないかと思って、でも、それで、先生以外の人が電話に出た可能性もあるって、思ったの。それで、心配になって……」

「お前は俺を覗き見でもしているのか」

「ち、違うっ、そうじゃないのよ。覗き見なんかじゃないから。心配なだけよ。それで、実際どうなの」

「御明察だ。したよ、電話。話に出ていた私柳景とか言う男が応じた。ああ、そう言えば、変な男に絡まれたな、さっき。多分、『焚書官』とかいうのだろう」

「それで、どうだったの」

「変な男の方は撃退した。私柳景の方は、筆学所で落ち合うという話をしたよ。あいつはお前が先生を殺した犯人だと言っていた」

「違う」秋子の声は殆ど叫んでいた。「絶対に違う。わたしはそんな事しないわ。お願い、信じて、負」

負は鼻で笑う。

「馬鹿か、お前は。俺がお前を疑う訳もないだろう。犯人は私柳景だよ」

秋子は暫し無言になる。

「わたしを信じてくれるの」

「信じる信じない以前に、相手が語るに落ちたんだ。私柳景は、お前がこの腕輪を狙って先生を殺したと言ったが、先生はお前にこの腕輪を渡すように言っていたんだ。なんで殺す必要がある。俺が黒市民と思って高を括ったのか何なのか知らんが、あいつは馬鹿だぞ」

やや気の抜けた感じの声がした後、秋子のくすりとした笑い声が聴こえる。

「存外に冷静なのね、貴方」

「そう思うか? いっぱいいっぱいだ」

「……御免なさい」

「謝るな。別に悪くはないさ」

 負はベンチから立ち上がり、また歩み出す。

「今日お前と別れた後、先生に会ったんだ」

「うん」

「先生は言っていたよ。女のケツを追っかけろ、だと」

「うん。……うん?」

「取り敢えず今は、その言葉に従おうと思う。先生との約束を捨てるつもりもない。残念ながら今現在に追っかけられる尻はお前の尻しかないんでな。お前の所に向かわせてもらう」

電話の向こうで、秋子はつい自分の臀部に手を当てる。

「やめてよ、何か怖いわよ」

「冗談だよ」

「馬鹿。全く、やれやれね――」秋子は声を毅然とした様子に改める。「いい、負。貴方が預かった腕輪、きっちり嵌めておいて」

「構わないが、何故だ」

「いざという時には、腕輪に触れて、指を滑らせるように動かせば、起動するわ」

「起動したらどうなる」

「起動しない事を祈っているわ。さあ、急いで、わたしの所に来て」

通話は終わる。ここで消費した時間を惜しむように、負は走り出した。


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