愛は炎 復讐も炎
次第に野次馬が集まってくる。がやがやと人垣がざわめきだす。そこに、一台のバイクが到着し、警笛を鳴らす。
「退け、お前ら」
私柳はバイクを降り、消え去った筆学所を眺める。腕輪を操作し、先生への通信を試みる。
「はい」
応答があった。
「俺だ、何処に居る」
「隣の民家ですよ」
私柳は、筆学所の脇のあばら家に顔を向ける。窓から先生が顔を出す。
あばら家の中で、二人は合流する。
「巧くやり過ごしたようだな」と私柳。
「ええ、私の『守護者』が効きました。こんな悪戯くらいが関の山ですがね、デコイを出現させる機能などというものは」
「それで、例の物は」
先生は首を振る。
「すみません、彼女がここに来るのを察知して、別の人物に預けてしまいました。万が一の事を考えて」
「何だと」
「安心して下さい。信用できますよ。宿世負という青年です。何度か話した事はあると思いますが……」
「ああ、そうだな。聞き覚えのある名だ」
「彼が後見さんにあれを届けてくれます。私は暫く身を潜めます。彼女が戻ってこないとも限りませんし」
先生はそう言った後、纏めてあった荷物を担ぐ。行こうとする先生に私柳が言う。
「お前はこれからどうする」
「え? ですから、身を潜めて……」
「その先だ。筆学所はもうなくなった。例の物も完成している。その上で、お前はこれからどうする」
直ぐには答えられず、先生は考え込む。それから少し照れ臭そうに、朗らかに笑う。
「何とかまた、筆学所を始めます」
「何故だ」
「今はそれが正しい事だと思うからです。それが正しいと信じられる所以があるからです」
「宿世負とかいう餓鬼の事か」
「彼はもう子供ではありませんよ。自分で考え、自分で行動し、正しい道を選択できる、大人です。私から彼にしてやれる事はもうない。それ故に、私は私のした事に自信を持てる」
「そうか」
私柳は笑う。目が笑っていないのはいつもの事だ。先生は、私柳がこういう笑い方しか出来なくなった事を、改めて残念に思う。先生は辛うじて立ち直ったが、私柳はどうか。
「それでは」
先生は行こうとして私柳に背中を向ける。
「待て」しかし再度、私柳が呼び止める。「お前の未来は分かった。だが、まだ過去の清算が済んでいない」
「過去?」
先生が振り返る。私柳は腕輪に触れている。
先生は胸から背後に抜ける衝撃と、鋭く強い痛みを感じる。細長い鋼の尖先が胸に突き刺さっている。私柳の足元に出現した液体金属が硬化していた。
「俺はずっと考えていたんだが、俺たちを裏切れるとしたら、お前以外には有り得ない。あの時、俺たちの計画を灰鰓さんに話した事を知る者は、灰鰓さんを除けば、俺とお前しかいない筈なんだからな」
「あの時?」少し遅れて、それがあの暴動があった時の事だと思い至る。
「かつては親友だった誼で、俺の考えを話しておこう。俺はあれを利用して、俺の理想を達する。黒は皆殺し、腐った上位階級も皆殺しだ」
「あれに、そんな力は……」
「『ユートピア』を破壊すればいい。あの腕輪は破壊工作に持ってこいだ」
先生は呼吸が苦しくなってきて、体から力も抜けていく。鋼は引っ込んで、傷穴から血が零れ出る。先生は膝を屈する。咳き込むと血が出た。
「あばよ」
先生の体の下へ液体金属が滑り込み、下から先生の体に幾つもの穴を突き空ける。先生は血溜まりに伏す。私柳は先生の手首から腕輪を引き抜き懐に容れる。あばら家を出、停めておいたバイクに跨り、走り去っていく。その背後では、まだ野次馬は解散する気配もなく、あばら家に集う「可乎蝶」は、先生の体に群がっていた。




