0話 一生の後悔
僕は彼女が好きだった。
──幼稚園の入園式。
桜が舞う中、母の手に連れられて幼稚園の門を通り抜けた時に一人の天使──否、少女に出会った。
立ち止まったままの僕を母が何度も呼んでいたが、父親と手を繋いでいる彼女の横顔から目を離すことが出来なかった。
綺麗な黒髪が風でフワリと浮き上がり、彼女の整った横顔がより一層見えやすくなる。
横顔だけでこの可愛さなのだ。
真っ直ぐ、正面からも見てみたいと思った。
─ふと。
こちらに気づいた彼女が僕の方を振り向いた。そのあまりにも綺麗で整った顔立ちを正面から見た僕は、無意識に彼女に手を振っていた。
それを見た彼女は驚いたように目を丸くしたが、次の瞬間には口元が緩み、満面の笑みを浮かべてこちらに手を振り返してくれたのだった。
そのあまりにも可愛すぎる笑顔を見た瞬間、心臓の鼓動がいつもより早くなったのを今でも覚えている。
間違いなく一目惚れだった。
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僕は彼女が好きだった。
入園以来、僕は毎日のように彼女に話しかけた。
幼心ながらに『彼女を独り占めしたい』、『彼女と一秒でも長く一緒にいたい』、そんな自分勝手な事を常に思いながら、彼女の事を常に想いながら毎日彼女に話しかけ続けた。
そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、しつこいぐらいに話しかけていた僕に対して一切嫌な顔せず、常に笑顔で僕の話を聞いてくれていた。
折り紙や粘土で何かを作る時も、絵を描く時も、一緒に遊ぶ時も、常に彼女の隣りに居た僕はかなり迷惑をかけていたはずだ。
それでもやはり、彼女は笑顔でいつも僕を受け入れてくれたし、僕を拒絶した時は一度も無かった。
その関係は端から見たら友達と言うより姉弟に近かったかもしれない。
おそらく当時の彼女も僕の事は世話のかかる弟のようにしか思っていなかったはずだが、それでもその優しさに、笑顔に、何度も触れる度に僕の彼女への気持ちは高まるばかりだった。
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僕は彼女が好きだった。
小学校に上がった彼女は、その魅力にさらに磨きがかかっていた。
彼女の優しさに、笑顔に、声に、次第に心を惹かれていく者は後を絶たず、男女問わず誰からも愛される人になった。
普通、そういう人は誰かしらから疎まれたりするものなのだが彼女にはそういう心配は無用であった。
まるで、彼女が世界から愛され、『祝福』されているのではと思うほど彼女には一切敵がいなかった。
いや、敵がいなかったのではない。
『全員が味方』だったのだ。
そんな高嶺の花となった彼女の一番の親友が、幼馴染である僕だった。
学年が上がる度に可愛さに拍車が掛かっていく彼女に比例して僕の気持ちも大きくなっていくのだが、そんな彼女の隣を歩ける今の関係がとても心地良く、彼女が好きで好きで堪らないのにその関係を変える勇気が小学生の僕には無かった。
変わらず笑顔で優しく接してくれる彼女。
その彼女の存在にただただ、甘えることしか出来なかった。
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俺は彼女が好きだった。
中学生になった彼女の魅力は、もう留まる事を知らなかった。
入学してからというもの、彼女は毎日のように告白されていた。
しかもこれが男子ばかりではない。
彼女の天使のような笑顔に、優しさに、声に、そして可愛さに魅了される者は男女問わず、学年問わずいたのである。
正直、嫉妬した。
初めて出会った時から彼女が好きで好きでたまらない俺だが、中学生になってもその気持ちを一向に伝えられずにいたからだ。
彼女に想いを伝えられるその勇気に、自信に、覚悟に、少なからず嫉妬していたのだ。
だが、そんな小さな嫉妬心を抱いていた俺だったが、誰よりも嫉妬の対象になっていたのは紛れもなく自分である。
──何故か。そんなの決まっている。
中学生になってから毎日彼女と登下校をし、クラスも同じだったため常に一緒にいる俺に対して嫉妬に狂う人がいない方が異常である。
嫉妬に狂う人が異常なのではなく、彼女の魅力の前ではそうなる事は必然で、当然で、自然で、正常なことなのだ。
──そんな彼女が全員を味方にするのと対象的に、俺は全員を敵に回していった。
ほぼ全校生徒からの嫌がらせ。
先生も見て見ぬふり。
彼女が一緒にいない時を狙った嫌がらせが繰り返される日々が数ヶ月続いた。
そんな日々の中、彼女との関係に大きな変化が起こる。
──12月上旬。
下校中の寒空の下、風で綺麗な黒髪と白のマフラーを軽く靡かせながら、揺れた瞳でこちらを見据えた彼女が意を決したようにこう言った。
「一緒に登下校するの……やめる?」
あの顔は今でも鮮明に覚えている。
彼女が、ついに俺への嫌がらせに気付いてしまったのだと悟った。
こんな顔をさせる為に、こんな事を言わせる為に、一緒にいた訳では、ない。
彼女に心配を掛けてる事に、彼女の優しさに甘えてた自分に、無性に腹が立った。
それと同時に、情けないと思った。
このままでは、ダメだ。
「心配……掛けちゃってたよね……ごめん。でも、俺は今までと変わらず一緒にいたい。」
本心からの言葉だった。
しかしその言葉を聞いた彼女の表情はより一層悲痛なものへと変わる。
こんな言葉じゃ、ダメだ。
これでは彼女には何一つ伝わらない。
遠回しな言葉は彼女の表情をより一層曇らせるだけで、何の意味も持たない。
それなら、いっそ───。
「どうして……?私と一緒にいると、これからもまた辛い目にあうかもしれないんだよ?それなのに……どうして私なんかと──」
「好きだ」
「…………ふぇ…?」
こちらを見ていた彼女の瞳が酷く動揺し、頬が紅潮していくのが分かった。
おそらく自分も同じような状態になってるはずだが、そんな事を今は気にしていられない。
伝えなければ、今までずっと、ずっとずっと胸に秘めていたこの想いを。
余すことなく全て、彼女に。
「ずっと、ずっとずっと好きだった。初めて会った時から今まで、──の事が誰よりも、大好きだ。だから……俺はこれからもずっと一緒にいたい」
ついに、言えた。
そして今まで気にしないでいた顔の火照りが急速にその熱を上昇させていく。
真冬なのに暑いくらいだ。
そんな僕と向かい合う彼女が耳まで真っ赤になっているのは寒さのせいではない事は明白だった。
「ま、って……え?………じょ、冗談……だよね?」
信じられない、と目で語る彼女は小さく首を傾げながら、俺にそう問いかけた。
彼女のその言葉は彼女自身に向けられているようにも感じた。そんな訳無いと、自分に言い聞かせるように。
「こんな事、冗談で言うわけ無いだろ?俺は──が好きだ。だからこれからも変わらず………いや、これから俺の彼女としてずっと一緒にいてほしい」
───沈黙。
胸の高まりが抑まらない。
彼女が好きな気持ちを言えたことに対する達成感と、彼女の返事を待っている緊張感で心臓の鼓動が五月蝿いぐらいだ。
数分、または数秒だったかもしれない。
「……私……も………」
沈黙の間、ずっと俯いていた彼女が意を決したようにこちらの目を真っ直ぐ見つめ、
「私も、初めて会った時から今まで、貴方の事が大好きでした。そして、これからも、絶対絶対大好きなので、私を、貴方の……春斗くんの彼女にしてもらえませんか?」
中学一年生の冬──立花春斗の九年越しの片想いは、今、終わりを告げたのだった。
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俺は彼女が好きだった。
彼女と付き合い出した事は瞬く間に学校中へ広まった。
否、正しくは春斗自身が広めたのだ。
今までは付き合ってもいない野郎が彼女と特別仲良くしていたのに対して嫉妬していた人達も、春斗と彼女が正式に付き合い始めた事により嫌がらせをピタリとやめた。
これは、彼女の『全員を味方にする』というある意味異能のような魅力により、『彼女の彼氏=彼女の身内』という謎の方程式が出来上がった為である。
正直自分でも何を言ってんだか分からない。
たが春斗の目論見は見事に成功。
斯くして、学校公認のカップルがここに誕生したのである。
しかし、付き合い始めてからの2人の関係は付き合う前から劇的に変わった訳ではない。
当然といえば当然なのだろう。
付き合う前から常に一緒にいたのだから今の関係に全くと言っていいほど違和感が無かった。
──ただ。
登下校は手を繋ぐようになった。
遊びがデートに変わった。
記念日が出来た。
義理が本命に変わった。
彼女と過ごす日々がより一層濃さを増していき、あまりにも充実し過ぎて自分だけ時の流れが他の人の二倍ぐらいの速度で流れているのでは、と錯覚するぐらい楽しい日々はあっという間に過ぎていった。
そして、14歳の春──。
転機は訪れた。
その日は、中学校生活最後の一年──3年生の一学期が始まる直前の春休み最終日の出来事である。
春休み中は会わない日が無かった程、毎日のように会っていた二人はその日もいつも通りデートをした。
明日からまた学校が始まるから、という事でいつもより長く一緒にいたその日の帰り道。
彼女の家と春斗の家は徒歩5分圏内とかなり近所ではあるのだが、帰り道で絶対に通るT字路で別れなければお互いの家には帰れない道がある。
真っ直ぐが彼女の家、右に曲がれば春斗の家、といった具合だ。
もちろん、春斗はいつもちゃんと彼女を家の前まで送り届けてから、来た道を逆走して自分の家に帰っている。
その日も当たり前のように彼女を家の前まで送っていくつもりだった。
あたりはすっかり暗くなり、街灯が無ければお互いの顔もよく見えないような状態だったので尚更だ。
しかし、彼女は
「これ以上遅くなって桃子さんに心配かけるのもいけないし、今日はここまででいいよ」
と、分かれ道で言ってきた。
桃子さん、と言うのは春斗の母親の名前だ。
付き合いが長いのもあって、彼女は母の事を名前で呼んでいる。自分の母を名前で呼ばれる事に未だに少しだけ抵抗があるが、当の本人達はもうすっかり定着済みだ。
かく言う春斗も、彼女の父親を名前で呼んでるのだが、その話は今は置いておこう。
「──だけどもう暗いし、どうせすぐそこなのだから最後までちゃんと送らせてほしい」
と春斗は食い下がったのだが
「ふふっ…ありがとう。春斗くんは本当に優しいね。でも大丈夫。春斗くんの言葉を借りると、どうせすぐそこなんだし、それに…明日またすぐ会えるでしょ?」
明日すぐ会える。
それは分かっていた。
分かっていた上で、彼女と可能な限り一緒にいたいのだ。
そしてそう思っているのは自分だけで無いことも知っている。
街灯に照らされた彼女の顔は言葉とは裏腹に、まだまだ一緒にいたい、ここで別れたくない、そんな気持ちが容易に読み取れた。
本人はその気持ちを必死に押し隠して、あくまでいつものように笑顔を保っていたのでおそらく他の人に今の彼女の本心を見抜く事は出来なかっただろう。
10年以上常に一緒にいたのだ。
分からない訳が、ない。
「──は、本当に優しいな……本当に、本当に………好きだな……」
「………ど、どうしたの急に…?ふ、不意打ちは…ズルいよ。」
本心からの言葉が漏れたのだ。仕方が無い。
好きと言われることに未だに慣れてない彼女は照れた表情を浮かべ、そして、上目遣いでこちらをジッと見つめてきた。
瞬間、彼女が何を求めているのかわかった俺は──。
「………ん」
彼女と唇を重ねた。
数秒間、いやもっと長かったかもしれない。
この時が永遠に続けばいいと本気で思ったぐらいだ。
お互いに名残惜しそうにそっと、唇が離れた。
「えへへ……好きだよ。」
そう言った彼女は今まで見てきた中で一番と言っていいほど嬉しそうな顔をしていた。
可愛い。可愛い。可愛い。
あまりの可愛さと直前の口付けで心臓が鳴り止まない。
この場に居続けたらおかしくなってしまいそうだった春斗は、自分の照れた顔を見られまいと即座に顔を背け、一刻も早くこの場から立ち去りたい衝動に駆られた。
「じ、じゃあ、また明日な。気をつけて帰れよ。」
「うん。いつも通りここで待ち合わせね。また明日。」
自然と早足でその場を後にした春斗。
顔が熱い。
自分の火照った体を、春とはいえまだ寒さが残る風が冷やしてくれるのを歩きながら実感した。
唇に触れてみる。
彼女の柔らかさを、温かさを、思い出してまた火照る。風で冷やす。
それを繰り返しながらまた明日から始まる学校生活に胸を躍らせていた。
───また明日。
そう言った彼女の言葉を何度も脳内で再生して、中学生活最後の一年を目一杯楽しもうと、そう心に誓った。
そして──。
春斗はこの日の出来事を一生後悔する。
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俺は彼女が好きだった。
──否。
俺は花咲桜が今でも大好きだ。