ヘイダルの砂紋
満月の夜に冴の湖へ船を出せば湖底に咲く小さな純白の花を見ることができる。長い花弁の先は細まりながら波打ち、静まり返った水の底で海月の足のように揺れるのであるが、これに触れて水面に浮かび上がった人間はいないというので「砂の花」と呼ばれる。目を凝らせば花の周囲に苔むした人型の岩を見出すことができよう。それらはやがて砂となり、水底の砂漠を床として、岩となりし人の眠りにつく。湖に棲むモノのいずれもこの砂漠には近付かぬ。砂漠は増えも減りもせぬまま、ただそこにあり、そこにあり続ける。
そうと知りながら岩と化すものの多いことにはそれなりの理由がある。というのも、砂の花を摘みその蜜を覗き込めば、どこか人の知らぬ遠き地を目の当たりにするという噂である。更にはひと雫でも舌の上に落としたならば、その魂を暫しの間、しかしその美しさを目に焼き付けるには十分すぎるほどの時間、彼の地へと誘うのだと伝え聞く。その地の名をヘイダルという。だが、ヘイダルという名の持つ意味を人は知らぬ。至上の蜜の味を知ったごく限られたものたちはみな一様に驚愕し目を瞠り、そして水晶を溶かしたようなその雫を飲み込む刹那、麗しき、清浄なる地ヘイダルの名を囁くように口にするという。その地を表す言葉を人は持っている。それは「砂漠」であると表現される。また「水底」であると表現される。「青い」とも言われ、「赤い」とも言われる。「美しい」と言われ、「寂しい」と言われ、或いは「空虚だ」と言われ、「満たされている」と言われる。実に多くの言葉がヘイダルを語るが、それら全てを合わせたとてヘイダルを語るには足りぬ。靴跡の記されたことなき地ヘイダル。そこに命はなく、心もなく、肉体も存在しない。多にして一、異にして同、空にして充。その地を覗くはただ人のみであり、訪うもまた人のみである。誰がために作られしものか人は知らぬ。ヘイダルもまた、ただそこにあり、そこにあり続ける。
実にヘイダルは砂漠であり水底である。下に砂の満ち、上に水の満ちる地である。その狭間に旅人は立つ。下に砂の満ちるを見、上に水の満ちるを見る。されど、人が立つその狭間は何が満たしているのかいないのか――それは何人たりとも知らぬことであろう。砂としたものが砂であるか、水としたものが水であるか、それすら人は知りえない。何人たりともヘイダルを理解することを許されないのは、それがただそこにあり、そこにあり続けるものだからだ。
未知なる光景を求めて人々は何度も「砂の花」に手を伸ばし、これに触れて岩と化した。かつて人だったそれは砕け、削れ、降り積もっては水底の砂漠へと還りゆく。静まり返る砂の中にその花は開き、揺れる花弁の先は甘やかな毒にて人を刺す。しなやかな毒針の触れた途端、人は一様に目を瞠り、かぽりと息を吐いて沈んでゆく。それは叫びか、或いは感嘆の吐息か。知る者はない。それらはみな、花の方へ頭を向けて身を丸め、生まれ落つる前の胎児のように眠っている。やがてその身の輪郭はすり減り、消えてゆく。何故そうなるのか。誰も答えなど持ってはいない。ただあるようにあり、あるようにあり続けるだけだからだ。花は芽吹き、葉を出し、開きて後に散り失せる。満月の夜、冴の湖のみにたった一輪花開くのは何も意図あってのことではないだろう。花のありようが湖のありように適っただけに過ぎない。人の思考がその訳を探ろうとするのは、砂漠のオアシスに「お前は何故そこにあるのか」と問うに等しい。花はあるようにあり、咲くときに咲き、散るべくして散る。
麗しく清浄なるヘイダル。溜め息すら許さないほどの張り詰めた美しさを持つその世界が揺らぐことがあるという。まことしやかに囁かれる話によれば、それは風のようであり、波のようである。ヘイダルの揺らぐときその砂と水とは粘り、揺らぎにより細やかにして密なる紋様を描く。その紋様を通してのみ開かれるは、ヘイダルの隠されし深奥である。
されど、ヘイダルの揺らぎに立ち会ったものはいないという。ヘイダルの揺らぎを見たと言うものも知れず、誰が言い出したものかすら定かでない。それでも、そのような奇怪な成り立ちの話を、誰もが信じて疑わない。それ自体花の見せた幻覚かもしれないヘイダルの、更にその隠されし深奥があるなどと考えることは奇妙だろうか。狂気であろうか。されど人々は信じて疑わぬ。この世のどこかに、或いはこの世のほかのどこかに、水と砂に満ちた麗しき清浄のヘイダルが横たわることを。「砂の花」の花弁に触れたものはみな、水底にてヘイダルを夢見るのだと。砂を糧として育つ花の蜜は彼らの想いの雫なのだと。そう信じて疑わぬ。夢見人の想いの雫は触れるものにその美しき夢の欠片を与えるのだ。雫に触れたことのないものが朧げながらヘイダルを描くことが出来るのは、日々の睡りの中でヘイダルに触れた記憶をどこかに残しているからに相違ない。眩い朝日の中で目を開くとき、睡りの中での記憶は砂となり、感動は水となって抜け落ちる。
麗しき忘却の地ヘイダル。人の忘れ去られた想いが織り成す絶景。人はそれがあると信じている。その美しさを夢見ることを望み、他人の想いを掬い上げることには目もくれぬ。
されど。
そのことに何の問題があろう?
彼らは既に忘れている。いつか見た夢の中の、水と砂に満たされた美しき世界のありさまを。忘却をすら忘却し、かつて己から零れ落ちたものを求めている。だが、それがなんだというのだろう。人はヘイダルを選べず、ヘイダルもまた人を選ばぬ。人の瑣末な願いなどヘイダルは、「砂の花」は、その砂漠は、自らの内に紛れ込んだ塵ほどにも気にかけまい。それらはただあるようにあり、そして、あるようにあり続けるのみである。