憧れの選手
「おー、多分あれだな、あれ」
田島が指差した方向には、およそ個人の所有物とは思えない大型のフェリーがあった。
さすがは世間から名将と呼ばれている監督様だ、と思わざるを得ないほどにそれは立派な船だった。
とにかくこの寒さから早く逃れたい。その一心で足早にフェリーへと乗り込もうとしたその時、搭乗口付近で時計を気にしながら右往左往している初老の男の姿が見えた。
「あれ、金本さん。こんな所で一体どうしたんですか?」
田島がその男の元に近づいていき、話しかける。その男の顔は俺にも見覚えがあった。
金本 隆。
嶋が現役のプロ野球選手だった頃から長年ずっと専属で身体のケア等を行なっている敏腕のトレーナー。
その嶋が現役を退き、監督に就任してからも、彼の世話係としてずっと付き添っているようだ。
「ああ、田島君! 間に合ったみたいだね。実はもうすぐ出発の時間だというのに、慎太郎君と全く連絡がとれなくてね。一体どうしたんだろう」
「ま、まさか? あの藤川さんがここに?」
俺は田島の肩に手を乗せてそう尋ねた。
数年前、試合中に起きた事故が原因で現役を退いて以来、テレビ等でもほとんど聞くことがなくなっていた名前。藤川 慎太郎。
それは俺が子供の頃からずっと憧れていたプレーヤーだった。
「お前、昔から藤川さんの大ファンだったろ。もう少しの間、秘密にしておこうと思ってたんだけどな。それにしても、どうしたんだろう。何事もないと良いんだけど」
「まあ、心配はいらないと思うがね。それよりも君が、悠君かな? 私は君が小さい頃に一度会っているんだが、覚えているかい? 随分と立派になったね」
俺は愛想笑いを浮かべながら、ハァと軽く頷いた。
「まあ、慎太郎君のことは仕方がない。船の運転手に事情を説明しておこう。手間をかけさせてしまうが、それならきっと後からでも追いかけて来るだろう」
金本が諦めたようにそう呟き、俺たちはフェリーへと乗り込むことにした。
これから訪れる場所は、都内から船で南に数時間ほど行った所にある無人島である。
世間とは切り離されたその孤島に堂々とそびえ立つ場違いな豪邸こそが、嶋がオフシーズンに愛用している別荘だという話だ。
「おい! 酒々井。こんなときまで携帯ゲームなんかしてんのか。船内にいても暇だし、ちょっくら外の景色でも見に行こうぜ」
「ちげーよ! したくても電波がなくて出来ねえんだ。にしても馬鹿か。このくそ寒い中、元気だな」
だが、結局は田島の勢いに負け、俺たちは暇つぶしも兼ねて、デッキへと上がってみることにした。
田島に連れられ、しぶしぶと歩いていた俺は、通路の奥から1組の男女が近づいてくるのに気が付いた。
「おおっ! 田島じゃないか! シーズンぶりだな」
「え? 田島って、もしかしてあの田島くん? わあ、凄い凄い!」
見覚えのあるその顔を前にして、俺はまたも興奮で胸が高鳴っていた。
少なからず野球をやっていた者であれば、誰もが知っている。
高幡ファルコンズの守護神。投手陣の中でも大ベテランの野口 雄飛だ。
「初めまして。私は、丸ノ内 沙奈っていいます!」
野口の隣にいた丸ノ内と名乗るその女は、顔立ちも整っており、いかにもな正統派の美人だ。
「 ──実はな、田島。ここだけの話、今回はお忍びの旅行なんだ! 彼女は愛人ってやつだ。そういう訳で他言はしないでくれよな。で、そっちの君は?」
その野口の言葉と共に、2人の視線が俺の方へと向けられる。
「こいつは僕の高校時代の友人の酒々井です」
「は、初めてまして」
田島に紹介されながら、しどろもどろに挨拶をすると、野口は顎に手を置きながら俺のことをまじまじと眺め始めた。
「そうか、君が酒々井君か。ま、いいや。俺も東京までの長旅で少々疲れていてね。屋敷に着いてから、またゆっくり話そうか。おい沙奈! 行くぞ」
丸ノ内はぺこりと頭を下げると、野口の後を追いかけるように去っていった。
「あー、焦った。テレビでは何度も見ていたはずなのにな。あれ? でも野口さんって確か結婚してなかったか?」
「ああ、奥さんとは今は確か別居中じゃなかったかな。まあ、あの人は昔から女性関係の噂は、絶えなかったみたいだし。さ、それよりも上に行ってみようぜ! ん? どうした、酒々井?」
「いや、興奮し過ぎたせいか、何か気持ち悪くなってきてさ。ちょっとトイレ行ってくるわ」
「おいおい、大丈夫か? じゃあ俺は、先にデッキに行ってるぞ」
「ああ、すぐ向かうよ」
それにしても藤川さんに、野口さんか。実際にこうして会うってなると、やはり蒼々たる顔ぶれだな。
俺は自然と込み上げてくる笑みを抑えながら、田島とは逆の方向に向かって歩き出した。