学者とラングドシャ
静寂とは、心地よいものだと思う。
人の声も、風の音すらも聞こえない文字通りの沈黙。聞こえるのはせいぜいが自分の息遣いとペンが紙を走る音くらいで、時折それに鳥の声が混じるといったところだろうか。まるで自分以外のすべての人間がこの世界から消えていなくなってしまったかのような沈黙が、僕は好きだ。
「……」
集中。そう、集中できるというのが特にいい。別に多少うるさかろうと集中できないわけではないが、やはり思考の海に沈むには余計な物音は一切ないほうがいい。現実と思考の境がだんだんと曖昧になって、自分が息をしていることも、今この場に座ってペンを走らせていることすらわからなくなるというあの感覚は、非常に心地の良いものだ。
「……」
しかし世の中には、こういった静寂……あるいは沈黙を苦手とする人間もいるらしい。音が聞こえないのは寂しいだとか、落ち着かないだとか……理由は様々で、そして僕には納得できるものでもないが、まあそういうこともないこともないのだ──と、最近になって少しばかり理解できるようになった。
「……おにーさん、お飲み物のお代わりをお注ぎしますね」
「ありがとう」
すっかり空になったグラス。とくとくとく、とシャリィがそこにレモン水を注ぐ。溶けかけた氷がころころ、からからと心地よい音を出しながら踊り、そして僕は右手でペンを握ったままグラスを取ってのどを潤した。
──喫茶店 《スウィートドリームファクトリー》。僕のもう一つの仕事場であり、そして憩いの場でもあるここ。運が良いことに今は僕しか客がおらず、どうしてなかなか静かで落ち着いた雰囲気で満ちている。
いつもは賑やかでともすればやかましいと思えなくもないシャリィも、さすがというべきか、今この瞬間においてはこの雰囲気を大事にしてくれているらしい。なんだかんだでこいつは人の機微を見抜く能力に長けている節があるし、静かにゆっくり仕事をしたい……という僕の気持ちを汲んでくれているのだろう。
そして言わずもがな、マスターはカウンターの中でにこにこと微笑みながら作業をしている。テーブルでも拭いているのか、グラスでも磨いているのか。僕にとって重要なのは、彼もまた、この愛すべき静寂のすばらしさを理解してくれているということだけだ。
「……ねえ、学者のおにーさん」
「なんだ」
「その……邪魔はしないので、見ていてもいいですか?」
「構わんぞ」
やはりそうだ。普段は子供っぽい姿を見せるシャリィだが、根本的には大人というか、聞き分けが非常に良い。この年の子供ならぎゃあぎゃあ騒いでいてもおかしくない……ノーノに至ってはあの年齢でも五歳の子供と変わらないくらいにやかましいのに、シャリィは自分で言った通り、僕の手元を覗くだけでずいぶんと大人しい。
場の空気を読んでいるのか、相手に合わせているのか。いずれにせよ、仕事の邪魔をしないのであれば僕にとってはそれで充分だ。
「……」
「……」
「……」
「……」
ああ、本当に仕事が捗ることこの上ない。誰にも邪魔されず、ゆったりと仕事のできることのなんと素晴らしいことか。
ここ最近、マスターの文化祭があったせいでどうにも喫茶店内が騒がしかった。準備でドタバタしていたのもそうだし、惚れた腫れたの話で女どもがいつだってきゃあきゃあとやかましかった。普段は諫める側であるセインですら浮かれていたわけで、正直常連連中でまともなのは僕とエリオしかいないんじゃあないかと思ったくらいだ。
おまけに、文化祭が終わってすぐにマスターは南の島とやらに旅行に行ってしまった。これもまた学校の行事の一つらしいが、それにしたって慌ただしいものだと思う。いずれにせよ、憩いの場であり、そしてゆったりと考えながら仕事ができるこの場所が使えないというのは非常に不便だった。
だけど、今は。
誰もいない、静かなこの場所を独り占めできている。常に誰かしらの常連がいることが多いこの喫茶店が、本当に久しぶりに貸し切り状態だ。
「……よし」
「……」
「……いや、もう少し魔法回路を弄るか? でも、裏のページと隣のページへの干渉がバカにならんな」
「……」
「クッキーデザインとしては悪くないが……魔本のコンセプトにはそぐわない、か。まぁ、ほかのところに流用はできる」
魔本に組み込む魔法陣は繊細だ。ページ単体での効果はもちろん、隣のページ、裏のページとの兼ね合いも考えなくてはならない。当然、複雑で強力な効果を持たせようとすれば相応に細かく複雑な陣を編まないといけないわけで、机のガタつきも、通りを馬車が通ったことで生まれる振動も天敵だ。
そういう意味で、この喫茶店ほど魔本の作成作業に適した場所はない。
──カランカラン。
「よーっす、マスターいるぅ?」
「あーっ! 師匠!」
「ようこそ、《スウィートドリームファクトリー》へ。……なんだかずいぶん久しぶりに言った気がしますね、これ」
かろやかで透明感のあるベルの音ともに、僕の憩いの時間は終わりを告げた。
▲▽▲▽▲▽▲▽
「いやもうホント、マジでやってられねえんだよなあ……! 誰も愚痴の一つも聞いてくれないし、セインはセインでここぞとばかりでヤバい案件回してくるしよぉ……!」
「ぴかぴかの騎士様、もう騎士としての資格はないって話じゃありませんでした? なのにどうして師匠にそんなことが……」
「資格はないくせに、正義感だけは変わってないからな。おまけに騎士団の内部に精通しているものだから……」
「だから?」
「『誰に、どういう風に頼めば断られずに引き受けてもらえるぞ』って入れ知恵しまくってんの。冒険者としての軽いフットワークでそりゃもういろんなところで」
「お、おー……」
「人助けって意味じゃ百点満点で、正義漢としても褒められるべきではあるよ? ただ単純に、俺の仕事が増えるってだけで」
「それはまあなんとも……師匠、ここにいるときだけはあたしに甘えていいんですからね?」
「かーっ、やっぱ俺の味方はシャリィちゃんだけだぜ……! もうマジで、俺も騎士やめてここで雇ってもらおうかな……」
うるさい。
やかましい。
騒がしい。
セインとは正反対のチャラい騎士──ゼスタによって、僕の至高のひと時はブチ壊された。この不良騎士、噂には聞いていたがとにもかくにもおしゃべりで口が軽く、そして悪い意味で騎士らしい威厳が全くない。どちらかというと騎士の世話になってしまうタイプの人間であるように見える……のに、時折見せる眼光の鋭さや、佇まいのそれが油断ならないというからひどくちぐはぐに見える。
「そだ、前にも聞いたかもだけどさ。あの……例のお爺さんからなんか伝言とか、預かってるものとかってある……?」
「いえ、特にありませんけど……」
「僕も特に聞いてはないですね……」
「マジかあ……ちなみに、今は」
「今日はこっちには来てないですよ」
「……こりゃ、マジで自分で来いって話なのかなあ」
できれば会いたくない、という気持ちをその不良騎士は全身で表している。やはり、この手の輩はああいった厳格な(?)老人を苦手としているのだろうか。常日頃からまっとうに過ごしていれば、むしろすごく頼りになるし便利な人だと思うのだが。
「なあ、そこの勤勉なあんたはなんか知ってたりしない?」
「……そのあんたってのは、僕のことか?」
せっかく無視していたのに、なんか普通に絡んできた。
「そりゃー、あんた以外にいないっしょ? こーんな素敵な場所でバカ真面目に仕事している人なんて」
「……噂にたがわぬ不良騎士ぶりだな、ゼスタ殿」
「いやいや、あんたほどじゃないって……なあ、あーくん?」
「……えっ」
まて。
ちょっと待て。
なんでこいつ……いま、僕のことを「あーくん」って呼んだ? よりにもよって、アルバートでもアルでもなく、「あーくん」と呼んだんだ?
「あんた、俺らの間じゃちょっとした有名人だぜ? 学者のくせに冒険者登録をしていて、ちゃんと定期的に仕事もしているし、目立ったトラブルも起こしていない。ただ、冒険者としての身分がほしいだけ……にしては、妙に頻繁に外に出ていて、しかもそれでいて大した成果も挙げずに日帰りであることが多い」
後半はともかく、前半は冒険者としては至極当然のことじゃなかろうか。いや、冒険者じゃなくともまっとうな人間として、普通に仕事をして普通にトラブルを起こすことなく過ごすというのは当たり前のことじゃなかろうか。
いいや、この場合は。
「……まっとうに仕事して、まっとうに過ごすことすらできない冒険者はそんなに多いのか?」
「おかげで俺たちの仕事が多くて困るんだよ……」
げっそりと、心底疲れ切ったようにゼスタはつぶやく。冒険者は普通の仕事に就けないクズぞろいだとは誰かが言ってたが、よもやここまでひどいとは。
「あとはまぁ、ここの常連には普通に探りを入れてたからな。あんたには会ったことがなかったから、ちょいと気になったんだ」
「……なんで、僕をあーくんと呼んだ?」
「あんたとはまた別の意味で、あんたの幼馴染は有名人だぜ?」
その一言だけで、本当にいろんなことを察してしまう自分の頭脳が恨めしい。そりゃまあノーノだったら良くも悪くも騎士団の世話になりかねない……というか近隣を騒がせることが多いし、あいつ経由で僕の名前が伝わることもあるだろう。
「あの発明家のねーちゃんも、悪い人間じゃないんだろうけどさ……周りを顧みない、周囲を巻き込むという意味では要注意人物なんだよ……。爆発音がしただとか、異臭がしたとか、なんかヤバい魔力雰囲気が漏れたとかで割と結構……ねえ」
「非常に不本意だが、そちらについては本当に申し訳ないと思っている。僕の監督不行届だ」
「おおお……!? あの学者のおにーさんが謝ってる……!?」
「それが、まっとうな大人として当然のふるまいだからな」
やはりというか、なんというか。この世の中にはまっとうじゃないやつが多すぎる。当たり前のことを当たり前のようにできないのなら、大人ではなく子供としての扱いを甘んじて受け入れるべきだと思うのだが。それとも僕がすごすぎるだけで、世の中はまともじゃないのが普通なのだろうか?
「……常連とはいえ、水一杯で粘るってのはどうなんだ? それってまっとうな大人としてのふるまいとは言えねえぞ?」
「一息ついたし、今から頼もうと思ってたところだ。ある程度仕事をしてから頼むのが僕の流儀だし、言わなくても伝わる、信頼してもらえる程度には僕はここを訪れている」
というか、常連である以前にクランメンバーだ。クランでクランの仕事をして何が悪い──と言いたくなるのをぐっとこらえる。一応はこの不良騎士も騎士なわけだし、余計な波風を立てる必要はどこにもない。
「さて」
ちら、とマスターを見る。
たったそれだけで僕の言いたいことが伝わったのか、マスターはいつも通りのにこにことした笑みを浮かべて僕の傍らにやってきた。
「ご注文ですね。本日はいかがいたしましょうか?」
「そうだな……」
いつもの”くっきー”という気分ではない。が、何か新しいものを頼みたいという気分でもない。本当に久しぶりだから、ここはひとつ、初めてここを訪れた時のような初心に帰りたいところではある。
「なにかこう、心が落ち着くものがいい。難しい注文で申し訳ないが、初心に帰ったような……だが、いつものそれとは違うものがいいんだが」
「ふむふむ……片手で手軽に食べられる、クッキーに近いもの……ですね」
さすがはマスターだ。言わなくても僕の好みをきっちり理解してくれている。
「それでは、とっておきをお出ししましょう。完成するまで、少々お待ちくださいね!」
ぱちりとウィンクし、そして棚の上のオルゴールのねじをきりきりと回して、マスターは奥へと引っ込んでいく。
~♪
「……」
静かにゆったりと奏でられる、落ち着くようなメロディ。どこか懐かしさを感じるような、あるいは大切な何かを思い出しそうになるような。
~♪
「良い音だなあ……あれって売り物だったりする?」
「残念ながら、非売品ですよ!」
少しだけ、訂正しよう。
静寂は確かに素晴らしい。
だけど。
「……」
「……」
「……」
~♪
そこに一つの旋律が添えられるのも、悪くはない。
▲▽▲▽▲▽▲▽
~♪~♪~♪♪~──......
「お待たせしました」
「ああ、本当に待ちわびたぞ」
メロディが消える度に何度か勝手にねじを回すこと数回。甘い甘い夢のような香りが漂い始め、そろそろ理性の限界を迎えそうになった頃。ちょうどオルゴールの旋律が途切れたまさにそのタイミングで、マスターは夢のかけらをたくさんに乗せた大皿を片手に戻ってきた。
「こちらは《ラングドシャ》です」
「ほお」
”らんぐどしゃ”。また何か妙に聞きなれない言葉だが、これが素晴らしい逸品であるのはもはや疑いようがない。
ふんわりと漂うのはお菓子特有の甘い香り。心が躍るような素晴らしい香りだが、これは普段の”くっきー”と大きな違いはなく、特筆するべきような点はない。
意外なことに、見た目もシンプルな”くっきー”といった感じでこれといった特徴はない。手のひらにちょこんと乗る程度の小さな四角形。大きさとしてはそんなもので、色合いとしては……普段の”くっきー”よりも明るい色をしているというか、どちらかというと”ぷりん”のそれに近い。ただ、これもやっぱり程度問題というか、これをそのまま”くっきー”として出されたとしても、僕は特に気にせず受け入れることだろう。
しいて言うなら……いつもの”くっきー”に比べると、少し厚みが足りないような気がする。
……見た目は普段と大して変わらず、そしていつもに比べるとちょっと薄い。なのにどうして、僕はこれを素晴らしい逸品だと感じたのだろうか。
もとより、マスターが不出来なものを出すなんて万に一つもありえないわけだが。こういうものは、ある程度頭を働かせたのならあとは実際に確かめてみるのが一番良い。
「いただこう」
いつもの通り、そいつを手に取って。
いつもの通り、そいつを口へと放り込む。
「……!」
さくさくの食感。
軽やかな口当たり。
なんとなくホッとするような、優しい甘さ。
「美味いな」
「それはよかった」
いつも通りの幸せが、確かにそこにあった。
まず一番最初に感じたのは、そのサクサクとした食感だろうか。ほとんど抵抗なく、噛り付いたと思った瞬間にはそれがポロポロと崩れるというか、文字通りサクサクと砕けていくのがなんとも心地よくて小気味よい。【美味しいもの】を評価するファクターとして食べ応えは決して無視できない要素だが、この”らんぐどしゃ”は食べ応えというその一点だけを以ても、十分にやっていけそうなくらいである。
そして、次に気になったのがざらざらとした舌ざわり。普段の”くっきー”はもっと硬質的というか、表面はどちらかというとつるつるしていることが多い。少なくとも、こうして特徴として挙げようとは思わないくらいのものなわけだが、”らんぐどしゃ”は違う。
舌に触れていて楽しいというか、なんというか。思わずずっと舌を擦り付けていたくなるくらいには、好ましいものである。
「……ふむ!」
もちろん、味だってすごい。
甘い。いつも通り甘い。その優しくてどこか懐かしさを覚えるような甘さは、やっぱりお菓子特有のもので、ここでしか味わえない特別なものだ。
噛り付いた瞬間に口いっぱいに広がっていく甘さ。”らんぐどしゃ”の甘さも”くっきー”のそれとよく似ている……というか、ほとんど同じものなのだろう。果物の甘さでもなく、かといってアミルがよく食べているような”けーき”の強烈な甘さでもない。決して主張はしないが、確かにそこに寄り添ってくれていることが感じられるこの甘さは、僕にとっては非常に好ましいものだ。
甘い香りがすっと鼻に抜けていくのも心地よい。ああ、お菓子を食べているんだな……という、そんな実感がわいてくる。体の内側からお菓子の甘い香りに浸されていくようなこの感覚が、僕は堪らなく好きだ。
「おおお……!? なにこれうっめぇ! すっげぇさくさく!」
「うーん! 焼き加減もばっちりで、甘さも主張しないけどしっかりしているこの感じ! なにより……このさくさくの食感!」
シャリィのやつはうっとりとしていながらも、ひょいひょいひょい、ぱくぱくぱくと手も口も止まらない。ゼスタもまた、驚きに目を見張りながらも忙しなく手を動かしている……いいや、手が動いてしまっている。
そしてそんな二人の口の動きと連動するように、さくさく、さくさく──と、普段の”くっきー”の時とはちょっと変わった音が僕の耳に飛び込んできている。
──ここで初めて、マスターがゼスタにも同じものを用意しているというその事実に気づいた。シャリィの目の前にも皿があるのは、まぁいつもと同じことだ。
「えっ……やっべ、これマジで止まんねえ。どーなってんだよ本当にマジで……」
「美味しいものを食べると、語彙力無くなっちゃいますよね!」
さて。
食感、舌触り、甘さ、香り……とそれぞれがそれぞれで一級品としてやっていけるくらいに素晴らしいわけだが、こちらもまた、魔本と同じくそれぞれの要素が複雑に絡み合っている──というよりも、同時に語らなくてはならないものだ。
普段の”くっきー”と違って薄くてサクサクしているから、いくらでもどんどん食べることができる。そのうえで、甘さ自体が比較的控えめで優しいものだから、途中で口の中が甘ったるくなるということもない。ざらざらした食感は舌にその素晴らしい甘さを擦り付けてくるし、香りも……いや、なんだかもう言葉を重ねるのが却って野暮な気がしてきた。
そう、この”らんぐどしゃ”はいくらでも食べられてしまうのだ。何枚でも、何十枚でもあっという間に平らげてしまいそうになるほどの魅力はもちろん、【いくらでも手軽に食べられるお菓子】として考案されているような節が見受けられ、それを見事に実現させているというからすごい。
逆に、何か一つでも欠けていたのなら……きっと、ここまで夢中になることはなかっただろう。おそらくきっと、【ただの美味しいお菓子】という感想で終わっていたに違いない。
「すごいな……普段の”くっきー”ももちろん美味いが、それよりもずっと食べやすくて、あとをひく。見た目はそんなに変わらないのに、こうも実際の食感が違うのは……厚さか?」
なんとなく、思ったことをつぶやいただけ。
しかしながら、にこにこといつも通りに微笑むマスターは、僕のそんなつぶやきを聞き逃さなかったらしい。
「そうですね。もちろん厚さも一つのポイントだとは思います。普通のクッキーと比べるとずいぶんと薄いですから、食べ応えはかなり違ってくるでしょう。ですが、それ以上に重要なのは……」
もったいぶるようにして、マスターはいたずらっぽく笑う。きっとこれは、世の中の女が見たらそれだけで胸を撃ち抜かれるような仕草なのだろう。僕にとっては友人同士の戯れにしか思えないが……ともかく、こういう気障っぽいところがマスターがマスターたる所以なのだと思う。
「作り方、か?」
「──残念、材料ですね」
なんとなくそんな気分だったので、マスターに倣ってこちらもわざとらしく肩をすくめて見る。シャリィのやつが目を真ん丸にしてこちらを見てきたが、気にしないことにした。
「ふむ、材料か……見た目はほぼ”くっきー”と同じだし、そこまで変わったものを使っているとは思えないんだがな」
「おや……そこまでわかりますか。……せっかくだし、当ててみます?」
「……」
やられっぱなしも性に合わない。ここはひとつ、分野は違えど知恵を扱う人間として、頭を働かせてみるとしよう。
「いつだったかハンナが言ってたな……お菓子は砂糖や小麦粉、ミルクがあれば作れると。それにバターや卵があれば基本的なものはだいたい作れるらしいな?」
「えっ、それマジ……? そんなの、古都で手に入るものばかりじゃん。もしかして、作り方さえわかれば俺でも作れたりするのか……!?」
「不可能ではないですけど、だいぶ厳しいと思いますよ? お菓子を作るのって計量がすごく大事なんですから。このあたしでさえ、道具なしじゃ人様にお出しできるのなんて作れないですもん」
「いやそれ、試行錯誤すればなんとなかるってことだろ? なぁ、マジで俺いまここにいて大丈夫なやつ? 秘密を知ったからって、なんかその……ヤバいアレとかになったりしない?」
「師匠ってば、変なところで心配性ですねえ……」
少し話が脱線しかけてしまっているが、ともかくお菓子の基本的な材料は砂糖、卵、バター、ミルク、小麦粉であると以前ハンナが言っていた。これらを混ぜて焼けば「それっぽいもの」はいくらでも作れるわけで、家庭料理としてそんな名もなきお菓子が作られることもそこまで珍しくないのだという。
で、これらの材料をどのタイミングで、どんな風に混ぜ、どんな風に焼くか……で、いろいろもろもろ変わってくるらしい。それこそ”けーき”のようなふわふわのパン状……つまりはスポンジにしてみたり、”くっきー”のように固く仕上げたり、変幻自在の変化を見せるのだとか。
だからまぁ、材料の目星としてそこまで外れていることはないはずだ。”くっきー”はお菓子としては比較的メジャーで基本的なものらしいし。
「さすがですね、アルさん……クッキーとこの《ラングドシャ》の基本的な材料は同じです。アルさんが挙げたもののうち、砂糖、小麦粉、バター、卵があれば作れます」
ミルクはなくても作れますよ──と言葉を添えて、そしてマスターはあっさりと正解を口にした。
「ただし──クッキーは卵黄を使うのに対し、《ラングドシャ》は卵白を使います。この卵白のおかげで、サクサクの軽い口当たりと優しい口どけが生まれるわけなんですね」
「なぜ?」
「え」
純粋に、口からこぼれ出た言葉。
得意げだったマスターの顔が、ぴしりと固まった。
「なぜ、卵白を使うとそうなる?」
「え、えーっと……」
「”くっきー”で卵黄しか使わないのは、なんとなくわかる。卵黄には味も滋養もあるし、そこに余計なもの……卵白を入れないほうが、その特徴も際立つというものだ」
「で、ですね……」
「で、卵白は?」
「あーっと……たしか、卵白はこう……起泡性と言いますか、卵黄に比べて空気を含みやすいという性質がありまして。メレンゲとかもそうですが、それのおかげでふわふわで軽い口どけが生まれるって……」
「……じゃあ、どうして”らんぐどしゃ”には卵黄が入っていない? すでに卵白でこのサクサク感は担保できているのだから、卵黄を入れない理由はないだろう?」
「……あはは」
おそらく……というか、きっと。マスターはこの質問に対する明確な回答を持ち合わせていないのだろう。見るからに目が泳いでいるし、「これ以上は勘弁してくれ」……という気持ちが顔にありありと現れてしまっている。
「マスター……いや、専門外の僕がとやかく言うことではないのかもしれないが、疑問や不可解な点は積極的に実践して確認しておいたほうがいいぞ」
「それが、その……気になって調べたことはあるんですよね。全卵、卵黄のみ、卵白のみでクッキーを作って食べ比べをしたんですよ」
「なんだ、じゃあもう答えはわかっているのでは?」
「……卵黄のみで作ったときは、いつものクッキーと言いますか、ほろほろしている感じだったんです。で、卵白のみのときは、硬くてカリっとしていて、でも軽い……そんな、不思議な食感でした」
「……全卵の時は、それがなかった?」
「そうなんですよ……順当に、卵白のみの時と卵黄のみの時の間くらいでしたね」
だから、微妙に回答に困っていた、と。この僕を目の前にして、論理的な回答ができないから言葉に詰まっていた……と、つまりはそういうわけだ。
「正直僕も、経験則的に語っているだけでありまして。アルさんが求めるような、しっかりとした原理というのはどうもあやふやなんです。それこそ、双葉先輩とか穂積先輩とかなら詳しいと思いますけど」
「シオリとホヅミか……確かにあの二人なら知っていてもおかしくないだろうが。……ただの雑談なんだから、そこまで気にする必要はなかったんだがな」
「そ、そうですか? こう、ふわっとした答えだと逆に問い詰められるような気がしちゃいまして……」
「マスターは僕をなんだと思っているんだ……?」
「日頃の行いのせいじゃね? さっきのアレ、不備な報告にダメ出しする上司にしか見えなかったもん」
「ですねえ」
”らんぐどしゃ”を口に放り込む。優しい甘さの軽い口当たり、そしてこのくちどけ……と、ほんの少し悲しい気持ちになった僕の心を、そのお菓子は優しく癒してくれた。
……悔しいから、三枚くらい一気に食べてしまおう。行儀が悪いとかもはやどうでもいい。こんな風に食べられてしまうこいつが悪いんだ。
「あらら、あーくんってば拗ねちゃった」
「学者のおにーさん? ……よかったら、あたしの胸を貸してあげましょうか? どうせここにはあたしたちしかいませんし、いくらでも甘えてくれていいんですよ?」
ぱっとシャリィが腕を開き、そしてまるで幼い子供を見つめるようにして慈愛の笑みを浮かべている。ついでにゼスタはそんなシャリィを……いいや、この僕を面白そうにニヤニヤと笑いながら見ていた。
「……本当に抱き着くぞ? そして、レイクのやつにお前が浮気したと言ってやろうか? やると言ったら僕は本気でやるぞ」
「ふふーん! おにーさんってば、本当にできるんですかぁ? それに、もし本当に抱き着いてくれたとしても……あたしってば、それで逆に盗賊のおにーさんを焚きつけるだけですし?」
「ふゥ──! シャリィちゃんってば、おっとなー!」
ああ、ダメだ。こいつらは僕の常識の外で生きている。普通はこう、好きでもない男に抱き着かれるのは忌避感が起きるものじゃないのか?
「と、ともかく! クッキーにはない卵白を使っているのと、そして薄さのおかげで《ラングドシャ》はサクサクとしたこの心地よい食感になるわけですね!」
半ば強引にマスターがまとめに入る。これはこの場を何とか仕切りなおそうとした……というよりも、僕がマジにシャリィに抱き着くことを危惧した、と捉えるべきだろう。どうしてなかなか、マスターも僕のことがわかってきたと思うし、僕もマスターのことがわかるようになってきたと思う。
「ちなみに! 《ラングドシャ》は【猫の舌】って意味なんです! 形とざらざらした感じが猫の舌に似ているからそう名付けられたって話ですよ! 大きくて厚いほうが食べ応えがある……というのもまた心理ですが、薄くてサクサクしていて、いくらでも食べられるというのも素晴らしいですね!」
確かにそうだ。でっかいのなんかは質より量、食べ応えを重視するが、こうして手軽にいくらでも食べられるというのは”らんぐどしゃ”のまたとない強みと言える。何か作業をしながらつまむのにこれ以上のものはない。気づけばあっという間になくなってしまうというのは非常に惜しいが、それもまあ、追加を頼めばいいだけの話である。
「マスター」
「な、なんでしょう?」
「今の僕は、少しばかり傷心だ。だから、追加を所望する……そうだな、あと二皿は欲しい」
「はい喜んで!」
これじゃあなんだかどこぞの庶民御用達の酒場みたいだ……という言葉をぐっとこらえて。
大人な僕は、話題を切り替えるべく気になっていたことを口にした。
「ちなみにだが。この”らんぐどしゃ”も”くっきー”の一種であるならば、当然アレンジしたものもあるのだろう?」
「そうですね……。クッキーと同様、生地に何かを練りこんだり、というのは割とよくあるアレンジです。模様をつけたりすることもできますが、僕が一番お気に入りなのは……」
「ふむ?」
「間に薄いチョコレートを挟んだやつですね。さっくさくの食感にパリッとしたチョコレートのアクセントが入るうえに……」
「ラングドシャの優しい甘さとチョコレートの強い甘さが合わさって本当にすごいんです! もう言葉も出ないくらいに最強なんですよ!」
「じゃあ、それで」
「……えっ」
「その最強の”らんぐどしゃ”とやらをもらおうか。何、時間なんていくらでもあるし、金もある。何なら僕が手伝ってやってもいい」
「……あの、その」
「どうした?」
「チョコレート、いま切らしているんですよね……」
さくさく、さくさく。
確かに止まった時間と、そんな静寂のなかに響く小さな音。
気まずそうに目をそらしたマスターと、我関せずとばかりに”らんぐどしゃ”を貪るシャリィとゼスタ。
沈黙。静寂。ああ、確かに僕はこの穏やかで何も聞こえない無音が好きだ。
だけど、これはちょっと違くないだろうか?
「……いつか必ず、お出ししますね」
「約束だぞ、マスター。さもないと……」
「さもないと?」
「…………ちょっと本気で、拗ねてみようかな?」
「やめてください」
▲▽▲▽▲▽▲▽
「いやあ、マジで美味かった! ……マジでこれ、支払いは銅貨でいいの? 実は金貨とかだったりしない?」
「そんなに金貨を払いたいというなら、釣りは僕がもらっておくが?」
夢のような時間はあっという間に終わる。心に残るのは確かな満足感と、そして少しばかりの寂寥感。皿の上にあったはずのその幸せはすっかり僕の腹の中へと収まっており、それこそがこれが現実だと僕に知らしめる唯一のものだ。
「さて……」
なんだかんだで、”らんぐどしゃ”を食べるのに夢中になってしまったが、そろそろ仕事に戻らねばならないだろう。少しとはいえこうして出費があるのは事実だし、わざわざ古都の門から外に出て、こうして森に赴いてまでいる……つまり、少なくない時間を使っている。それ相応の成果を得られなければ、生活というものは立ち行かない。
「悪いが、夕方までは粘らせてもらうぞ。もしほかに注文が必要だというなら言ってくれ」
「いえいえ、お好きなだけ居てくださって大丈夫ですよ。それこそ、喉が渇いたのならお水をお持ちしますから」
「助かる」
できることなら、このまま夜通しここで仕事をしたいというのが本音だ。ここなら蝋燭やランタン、魔光とは比べ物にならないほどしっかりとした明かりがあるし、夜であろうと昼間と全く同じように仕事をすることができる。ついでに言えば、夕餉の準備だってしてくれるし、お願いすれば寝床の一つだって用意してくれるだろう。
が、いくら友人同士、そしてクランメンバーとはいえさすがにそれは図々しいと言わざるを得ない。事前に約束を取り付けていたのならともかく、いきなり泊めてくれ、飯もくれというのは人としてどうかしているといわざるを得ない。
まぁ、何人かは実際に約束無しで泊まったことがあるようだが。やはり冒険者は人としての常識が著しく欠けているのだと思う。
「なぁんだ、あーくんは仕事に戻るのかよ。もっと話し相手になってくれてもよかったのに」
「ぬかせ」
こんな不良騎士と話していたら、僕の時間が無駄に浪費されてしまう。時間は有限なのだから、できる限り有意義なことに使うべきだ。
だいたい、そもそもとして……。
「……そいえば、師匠はいいんですか? お仕事、すっごく忙しいって話じゃ……」
「そうだシャリィ、もっと言ってやれ」
僕と違って、ゼスタはここに休憩に来ている。つまり、また仕事が残っている……下手をすると、休憩という名のサボりである可能性すらある。
「ちぇっ。シャリィちゃんに言われちゃしょうがねえや。俺も仕事に戻るとするかねえ」
そう言って、ゼスタは席を立つ……こともせず。
座ったまま、マスターのほうへと顔を向けた。
「クラン、《スウィートドリームファクトリー》のマスターは……ユメヒトさん、あなたですよね?」
「え、ええ……」
はっきりと変わった空気。さきほどのふざけた雰囲気はどこへやら、ゼスタの口調はいたってまじめで……なにより、その体から騎士特有の少々物々しい気配を漂わせている。
「今日はあなたに、依頼……じゃない、【お願い】があって参りました」
「は、はあ……」
「……古都の住民を抑えておくのも、もう限界です」
疲れ切ったように……というか、実際に疲れ切っているのだろう。『限界です』というその言葉は、冗談でもなんでもなく、ゼスタの本音がそのまま表れているように僕には聞こえた。
「私も、騎士団の同僚もみんな頑張ったんです。どうにかこうにかなだめすかして、出来ないものは出来ない、無理なものは無理だ……と、懇切丁寧に教えたつもりなんです。ですが、もう」
──もう無理。
言葉ではなく、表情で、雰囲気だけでゼスタはそれを表現して見せた。
「どこかの誰かが、どうすれば要望を聞いてもらえるのか、どうすればちゃんと取り次いでもらえるのか……ってのを吹聴したせいでね、住人の皆さんも覚えちゃったんですよ。【もみ消されないやり方】ってやつを」
「あの、その……話がどうにもよくわからないんですけど……」
「半分くらい、セインのせいってこと。いいか、最終的な妥協案として俺が代表として【おねがい】に来ているわけだけど、選ぶのはマスター自身だ。でも、ここまで来た以上……いくら俺が筋を通したところで、理解と納得はまた別の話なんだよ」
本当に、本当に疲れたようにため息をつくゼスタ。
なるほどつまり、そういうことなのだろう。
仕事としてゼスタはここにやってきた。そしてゼスタは騎士だ。そして騎士とはいいつつも、この古都ジシャンマの騎士団の仕事はほかの騎士団とは比べ物にならないほど多岐にわたる。あの堅物であるセインが投げ出すくらいにはそれは過酷……否、面倒ごとに塗れているわけで。
というか、前にも同じことがあったって話じゃなかったか?
「えと、つまり……?」
「──また古都で屋台出してくれない? 出してくれないと、マジで俺がヤバい」
20250530 誤字修正。
・ラングドシャ、もしくはチョコチップのクッキーがクッキーてきなものの中では一番好きです。
・ラングドシャは丸まっているタイプよりも、四角いタイプのほうが好きです。
・あと、北海道の某ホワイトな恋人がだいすきです。




