冒険者とナン
「……む」
「来た、な」
そして、花遊びに戯れる女の子を見ながら待つことしばらく。甘く神秘的な白い花の香──ジャスミンというらしい──に交じって、どこか心が弾む様な、ふわっとした香ばしい香りがどこからか漂ってきた。
この甘い匂いの中でもはっきりとわかるほどに、その香りは強い……というよりも、魅力的なのだろう。どんなやつでも無視できないくらいの、心惹きつけられる何かを確かに感じる。
パン屋の香りは幸せの香りそのものだとは、一体誰の言葉だったか。井戸端でしゃべっている奥方たちのものだったかもしれないし、ギルドの受付嬢のものだったかもしれない。
一つだけはっきりしているのは、それは紛れもない事実であり──そして、私が今嗅いでいるこの香りは、私が今まで嗅いだどのパンの香りよりも、私を幸せにしてくれる香りだということだ。
「焼き立てのナン、追加分持ってきたよ―っ!」
「カレーもミートコーンも追加でドン、だ!」
まだかまだかと待ち構え、そして彼らがこの花の幻想郷へとやってきた。タドコロや他の連中と同じく、お揃いの黄緑のシャツを纏い、そしておでこに奇妙な何かをつけている。唯一違うのは、調理担当だと示すその証──マスターのものとだいぶデザインが異なるけれども、ともかくバンダナとエプロンをしているところだろう。
ガラガラと推したカートの上には、極上の香を放つ大きな大きなパン──“なん”と呼ばれるそれと、銀のような輝きを持つ底の深い鍋が二つ。
どちらの鍋からも、思わずお腹がきゅうとなってしまいそうな香りが漂っているけれど……ああ、やっぱり、私はこのパンの香の方に気が向いてしまう。
「おう、ありがとな」
「だいぶ無理して作ったぜ! これでしばらくは持つだろ!」
「もう、調理場は戦場そのものだよ! マジで汗だく! ジャスミンの花飾りなかったらだいぶヤバかった!」
「だろうな」
どこまでも淡々とした表情で、タドコロは彼らと手早くやり取りをする。メモだのなんだのを渡したり、ごにょごにょと何かを伝えたり……おそらくは、次の仕込みの指示でも出しているのだろう。
大いに結構、重要なことだと思う。
ただ、問題なのは……。
「……目の前にあるのにお預けって、けっこうキツいな」
「古都のチンピラ冒険者だったら、この時点でキレ倒しているだろう。そして私たちの出番ってわけだ。……まったく、笑えない冗談だ」
疲れたようにセインが笑う。そんなセインをタドコロはちらりと横目で見て、給仕の娘に声をかけた。
「あの二人、二人ともカレーとミートコーン頼んでる。ナンは焼き立てを所望。……丁重に持て成すべき」
「……ん? そりゃあ、もちろんそうするけど……なんで、わざわざ?」
「いろんな意味で、上客だ。……おい、早く戻って次の仕込みをしたほうがいい。マジで、すぐに、今まで以上に客の入りが増えるぞ」
「……えっ?」
驚いた顔をした給仕の娘。タドコロはそんな娘に目もくれず、焼き立てのそれを二枚、紙の皿に乗せた。さらに、これまた紙のコップ(!)に“かれー”と似て非なるものをたっぷりと注ぎ、また別のコップに赤い“かれー”のようなものを注いでいく。
実に奇妙奇天烈、摩訶不思議と言わざるを得ない。クランのメンバーの中では間違いなく私が一番世界を巡っているだろうが、紙の容器なんて世界のどんな辺境の村でも見たこともないし、こんな風に食事を提供するところだって見たことが無い。
そりゃあ、コップではなく皿にスープを注ぐところはある。というか、一般的な家庭なら底の深い皿をいくつか用意して、普通の料理用とスープ用で兼任することは珍しくない。お貴族様みたいに平たい皿を用途別に使い分ける……なんて家庭は無いに等しいと言っていいだろう。
だけど、コップに料理を入れるってのは初めてだ。一番近いものでマスターの作る“ぜりー”だろうけれど、それとはやっぱり根本的に何かが違う。
「どぞ。おまたせしました」
「お、おお……」
でかい。
改めてみると、やっぱりデカい。
タドコロが私たちの所に運んできたそれ。“なん”と呼ばれるパンは平べったく、そして大きい。気前のいい食事処で出されるステーキのように分厚く、なのに見た目はどことなく柔らかで、心がほかほかしてくるようだ。
「むぅ……食べきれるかな、こいつは。一枚がシャリィちゃんの顔よりも……いや、私の顔よりも大きいのではないか? 大の男よりも大きいとはちょっと予想外だ」
「じゃあ、半分寄越せ。私が食べてやるよ」
セインの奴、さっと私からそいつを遠ざけやがった。冗談なのに酷い。
「ふむ……取られる前に食べてしまいたいが……はてさて、どこから攻略したものか」
「普通に齧りつけばいいんじゃない? その方が食べ応えありそう」
「……エリィ、君はタドコロの話を聞いていなかったのかね? 齧りつくんじゃあなくって、こう、千切ってすくって食べるって話だろう? 私が言いたかったのは、どっちの奴から食べるかってことさ」
言われてみれば、さっきそんなことを言っていたような気がする。それに、普通に考えたらこいつもパンの一種。大きいものだと言うならなおさら、千切ってちまちま食べるのがお上品な正しいやり方ってやつなのだろう。
冒険者なんだから、デカい口を開けて齧りつけばいいものを。バルダスも、レイクも、ミスティだったそうするに決まっている……いや、今日のこいつはあくまでデートに来ているんだったか?
「じゃ、私はこっちの“みーとこーん”からにしようかな」
「では、私は……ええと、“どらいかれー”からにするか」
“なん”を持つ。思ったより……思っていた以上にふわふわもちもちした触感で、それでいてそれなりの触り応えというか、程よい硬さがあった。指先から伝わってくるのはじんわりとした温かさで、それがつい先ほど焼き上げられたものだということを黙したまま語っている。
文字通り焼き立てパンの色をしており、所々に何とも食欲をそそる焦げ目が斑のようにある。濃い目の茶色──いつぞやマスターの所で食べた“ぷりん”の“からめる”のような、魅力的な茶色の斑だ。
いったいこいつは、どんな味がするのだろう?
ぐっと指先に力を込め、千切ってみればあら不思議。愉快な手応えと共にそれは裂け、割とよく見かけるパンその物にしか見えなくなった。大きさという魔法が解ければ、普通のパンとそう変わらない……わけないと思えてしまうからすごい。
「なんかちょっと面白いかも」
千切ったこいつで、“みーとこーん”とやらをすくい取る。深い赤色の、どろりとしたなにか。チラチラと見える黄色は紛れもなくコーンで、赤の元はおそらくはトマトだろうけれど……それにしたって、どうしてこんなにも腹の虫をうるさくさせる匂いがするのだろう?
この感じ、間違いなく肉だ。だけど、肉っぽい感じは全然しない。
いや、もしかしてこの赤いどろどろ……肉なのか? 私が知らないだけで、この隠れ里にはこんな肉が伝わっているのだろうか?
まぁ、食べれば全部わかることだ。
「それじゃ、いただくとしよう」
黄金の皿に乗った、深紅の宝物。
大きく大きく口をあけ。
私は、皿ごと宝を食った。
「わ、ぁ──!」
香ばしい香り。
トマトの酸味と、肉のうまみ。
コーンの甘みが煌めいて。
柔らかな何かが、全てを受け止めてやってくる。
わかりきっていたけど、やっぱりこいつは……。
「美味しい!」
「そう言って頂けて、なによりです」
マスターだけじゃなく、この隠れ里の人間はみんな侮れない。そう、あらためて思い知った。
“なん”とは何か。“みーとこーん”とは何か。
もし何も知らない人にそう聞かれたのなら、私はおそらくピザに近い何かと答えるだろう。“みーとこーん”からは強いトマトの風味がするし、“なん”はまさしく極上のピザパンのそれに他ならない。古都の人間に説明するならば、それが一番近くて手っ取り早い。
が、もちろん。
こいつらは、そんな言葉じゃ説明できない。何かに例えるってこと自体が間違っている。
まず、“なん”だ。こいつはある意味その見た目通り、パンでしかない。こんなに平べったくて大きいパンなんてそうそう見ないけれど、それ自体に不思議はないだろう。
しかし、だ。
「なんだコレ……すっごく食感が……」
「不思議だな……何と例えればいいものか……」
柔らかいのは間違いない。私たちが普段食べているガチガチのパンとは違い、苦労することなく噛み千切ることが出来る。その噛み応えが面白くて、もちもちしているような、もふっとしているような……なんというか、ずっと齧りついていたくなるような感じだ。
なんだろうな、噛み始めたときは柔らかくてふわふわなのに、だんだんとその手応えがいい意味で固くなってきて、すごくもちっとした感じになるんだ。ちょっとこの感覚、言葉で表せそうにない。
そして、この“みーとこーん”。
“なん”の味や香りは、こいつ無くしては語れない。
最初、私はこれをトマトソースの一種だと思った。実際、色合いはトマトのそれを連想させるし、香りだってよく似ている。だから、きっとこいつはトマトソースをいろいろ諸々料理して作ったのだと思った。
でも、違う。
トマトの酸味や甘みよりも前に感じる、ガツンとした肉のうまみ。上等の肉のエキスを煮詰めてもこうなはならないだろうってくらいに、舌に、腹に、激しくその存在を主張してくる。どろりとしたペースト状になっているからか、そいつは私の舌に休みなく連続攻撃を仕掛けてきた。
肉の美味さだけを取り出して、形を無くせば……もしかしたら、こんな風になるのかもしれない。
「……あ」
ゆっくり堪能したかったのに、もう最初の一口が終わってしまった。最初に千切った分も、そこそこ大きかったと思うのに。
まぁでも、ほら。
まだまだたんと、残ってる。
気持ち大きめに“なん”を千切って、さっきよりもたっぷりとそいつをすくい取る。そのままお口の中に直行させれば、またまた幸せの時間の到来っていう寸法だ。
さっきは夢中で気づかなかったけれど、ともすれば塩味が強すぎるこの肉……たぶん、繊維状になってほろほろになっているのがそうだと思うけれど、ともかくこいつをトマトが引き立てている。
程よい酸味に、野菜の甘さ。そいつがいい感じに味を調えていて、何度でも食べたくなってしまいたくなるような、コクの深さのようなものを生み出している。これだけ肉の味が強いのに、その特有の脂っこさを全然感じないところを見るに、食べやすさはこいつのおかげだと断言しても良い。
肉とトマトのベストマッチ。あくまで肉がメインで、トマトは一歩引いているけれど、されど目立たないなんてことはない。肉だけだったら味が濃すぎて食べにくいだろうし、トマトだけなら物足りない。お互いの欠点を補いあい、より高い場所へと向かっているような……。
まぁ、美味しいってことだけは間違いない。変にごちゃごちゃ語るのは、それこそアルやセインに任せればいいことだ。
「……あ」
いけないいけない、“みーとこーん”にはまだまだ工夫がある。
それがこの、赤い海に輝く黄色い星……気障ったらしく表現したけど、コーンの存在だ。
ペースト状になってあまり歯応えを楽しめない中で、このコーンだけははっきりとその存在を主張している。時折混じるぷつっとした歯ごたえと、遅れて届く底抜けの甘さ。瞬間的に味わいが変化して、それがすぐに戻って、そしてまた、忘れたころに味が変わる。
何だろうな、たまに訪れるその瞬間がとても楽しみになってくる。予測が出来ないその幸せに、心がときめいてしまう。このコーンの比率を考えるのも、なかなか大変だったんじゃなかろうか。
肉。トマト。コーン。香りも味も、この三つのバランスがあまりにも取れ過ぎている。ずっと食べていても飽きさせない、いいや、もっともっと、永遠に食べ続けていたいと思わせる何かは、この黄金比が成せる業だろう。どれか一つでも調子を崩していたら、ただの『おいしい』で終わってしまっていたはずだ。
そして──
「……もう!」
気付けば、手の中にあったはずの“なん”が無くなっている。一度に二口か三口くらいしか食べられないってのは、いったいどういうことだろうか?
「まどろっこしいな……」
さっと辺りを伺ってみる。
なんか、いろんな人に見られていて……そして、さっと目をそらされた。
これならまぁ、大丈夫だろう。
──やりやがったッ!?
──いやでも、気持ちはわかる……!
──ちくしょう、美味そうに食うなぁ……!
紙のコップをむんずとつかみ、えいやと“なん”にぶちまけた。どこぞの拳闘士じゃないが、ちまちま千切って掬って食べるよりも、おっきいやつに齧りついたほうが絶対に気持ちいいに決まっている。
「エリィ……キミ、出先でそれは……」
「なんだよ。そんな大して変わらないだろ?」
「いや、一応マナーとかそういう……」
「あー、正直そういうお固いのは気にしなくて大丈夫です。格式ばったレストランってわけじゃないですし、美味しいって……そう、楽しんで頂ければおれ達は満足です」
思いがけないタドコロからのフォローが、ちょっと遠くから聞こえてくる。
「それに、コップの底に残るとすくえなくてもったいないですし。最後の方はだばーっと豪快にかけて、こう、くるくるっと巻き込むようにして食べるほうがいいですよ。おれたちはみんなそうしています」
「だ、そうだぞ? 店員さんだって認めてる正式なやり方じゃないか」
「エリィ。これは単純に気を使われているだけだ。フォローされているんだよ……」
“みーとこーん”とやらを零さぬよう、タドコロが言った通りにくるくると丸め込んでみる。見た目はちょっと不格好だが、こうしてみると“ろーるけーき”を彷彿せずにはいられない。案外、マスターなら本当にこれで“ろーるけーき”を作ってくれるかもしれない。
「……うん!」
思いっきりかじりついて、ほおばる。肉と、トマトと、“なん”。何もかもが一気に口の中に押し寄せて……もう、言葉にならないくらいに幸せだ。
というか、文字通り言葉を発せない。
「……ん、んん」
頬張った拍子に、そいつのお尻の方から“みーとこーん”がぽたりと落ちる。なんとか手で受け止めることが出来たけれど……まさか、こんな罠があったとは。せっかくの一張羅を汚してしまう所だった。
ともあれ。
「うまかった」
手で受けた“みーとこーん”をぺろりと舐め、一息を突く。
あれだけ大きな“なん”だったというのに、あっという間に食べてしまった自分に驚きが隠せない。なにより、食べたという幸福感そのものはあるのに、お腹の方はまだまだまだ全然余裕──むしろ、早く次をよこせと臨戦態勢になっているというから怖い。
──ね、私、追加であっちも食べたい……!
──あああ……! お腹空いてきたぁ……!
──あの、その、もう焼き立てじゃなくてもいいんでなるべく早くお願いします。
なーんかちょっと周りがざわついているような気がしなくもない。それに、なんとなくこの部屋の外──入口の方の気配が多くなっているような。元々この建物には人がたくさんいるからわかりづらいけど……さっきよりも、こっちへの視線が集中しているような気がする。
マスターの所で食べるときは周りに人なんていないから、余計に気になってしまう。古都の酒場も人は多いけれど、スリと酔っ払いの視線以外の──悪意のない視線をこんなにも受けることなんてない。
「ふう……ようやくと言うべきか、もうと言うべきか。“どらいかれー”は格別だったよ」
いつの間に用意していたのだろうか、一区切りをつけたセインはナプキンで上品に口元を拭う。まるでお貴族様の食卓に着いているかのような振る舞いだ。これがレイクやバルダスだったら手の甲でそのままゴシゴシやってるというのに。
「どれ、次は“みーとこーん”だな」
「私は“どらいかれー”だ」
“どらいかれー”。いつぞやの護衛以来の時に食べた“かれー”の一種だろう。あの時と違うのは、ジャガイモなんかの具材がまるで見当たらず、繊維状になった肉しか見受けられないことだ。
ただ、忘れたくても忘れられない“かれー”の食欲をそそる香りは同じで、そこに強い肉の香りも混じっている。元々“かれー”は食欲をそそらせる──嗅いでいるだけでお腹が鳴ってしまいそうになるほど強烈に魅力的な匂いな上に、そこに肉の匂いまで混じっているとなれば、口の中に唾がわくのも当然だろう。
「……うん!」
美味い。
“みーとこーん”よりもはるかに強烈な、味覚をガツンとぶん殴って来るかのような衝撃。辛くてひりつくその舌に、“かれー”という魅力を纏った肉の味が刻み込まれる。ほろほろとした繊維質のそれが確かな満足感となって、私の体をシビレさせた。
「こいつは……!」
続いて二口。
止まらない。
何と形容すればいいのだろう、この“どらいかれー”の味を。とにかく味が濃くて、それが“なん”とすごく合うんだ。“かれー”を“なん”が優しく受け止めて、すごく食べやすくなるというか……何だろう、こう、こいつ無しでは語れない相棒のようなイメージがある。
味もさることながら、香りも素晴らしい。
“なん”の焼き立てパンの優しい香りと、“どらいかれー”の美味さそのものを体現する強い香り。それらが混じって鼻に抜けていくあの感覚。目の前にあるそれを嗅いだ時とはまた別の、体の中から直接刺激してくる感覚。
同じもののはずなのに、どうしてこうも感じ方が違うのだろう? どうしてこうも、満足感が得られるのだろう。
ああ、私は今、全力を持ってこいつを食べているんだなって……そんな、満足感に溺れそうになる。
「ほぉ……! “みーとこーん”もなかなかだな! さっきまで“どらいかれー”を食べていたからか、よりいっそうトマトやコーンの甘みが際立っているように感じられる!」
「私は逆に、“どれいかれー”のインパクトにびっくりだ。前食べた“かれー”、ここまで味は強くなかったような……」
「ふむぅ……あくまで私の推測だが、元々これはそういうものなのだろう。その上で、“なん”と一緒に食べることを前提としているから、味を濃くしているのだろうな」
「なるほど……」
「前の“かれー”はもっと汁気があっただろう? だが、こいつはこうやって“なん”ですくって食べるために、汁気を飛ばしているんだ。だから、余計に味も濃くなった……いや、それを見越してこの味に調整しているのだろうな」
意外や意外、まさかこの堅物の騎士様にこんな知見があったとは。
「なんだ、そんな不思議そうな顔をして……言っておくが、材料や料理そのものは珍しくとも、汁気を飛ばして味を濃くするっていう手法自体は常識だからな?」
「えっ、そうなの?」
「……エリィ。キミはもう少し、料理をしたほうがいい」
「冒険中はしょっちゅうしているけど」
「丸焼きとか適当に鍋に材料をぶち込んだスープじゃなくて、家庭的な料理だよ……」
うーむ。確かに、美味しい食事にありつくためにも、まともな料理の一つくらいは勉強してもいいと思うが……。
「……なんだ、またそんな腑に落ちないって顔をして」
「いや、別に……」
料理の出来過ぎる男ってのはちょっとどうなんだろうか。それもマスターみたいな料理人ならともかく、独身が祟ってというのは……なぁ? まぁ、家庭的な料理の一つや二つ、作れた方が良いのは間違いないんだが……。
こう、私も一人の女として、自分が作った料理にいちいちケチをつけられたりするのはかなり嫌だ。ケチじゃなくとも、向こうの方が料理が上手いっていう事実になんかプライドが傷つく。しかも料理人とかではなく、あくまで同じ素人というくくりというのなら、なおさら。
「……セイン」
「なんだ?」
「ひとつだけ、アドバイスをやろう」
ここはひとつ、女として、クランの仲間として──こいつの夢のため、忠告してやろうじゃないか。
「わかっていても、言わないほうがいいこともある。なんだかんだで、出された料理は無心で食べてればそれでいいんだ」
「……なにを、言いたいんだ?」
「わかってないな、お前は」
“なん”に“どれいかれー”をたっぷりとつける。白く甘い、蕩けるようなジャスミンの香りを吹き飛ばすような、黄金と小麦色の魅力の香り。
私は、そんな幸福の食べ物を目の前に持ってきて。
「女ってのはな──男が美味そうに自分の飯を食ってくれれば、それでいいんだよ」
自分の欲望のまま、そいつに齧りついた。
「こんなふうに──な?」
大きく口を開け、口元が汚れるのも厭わずに頬張る。周りが見えなくなったかのように、一心不乱でそれにがっつく。最後に嬉しそうににっこりと笑ってくれれば──もう、それ以上に欲しいものなんてあるはずがない。
少なくとも、私はそうだ。そして、それはすべての食べ物に共通した──【料理を一番美味しく食べる作法】だ。
▲▽▲▽▲▽▲▽
「ふう。美味しかった」
「ああ、まったく」
そして、あっという間に私たちの机の上には何もなくなってしまった。紙のコップと皿だけが、奇妙な紋様が織り込まれたテーブルクロスの上に寂しく佇んでいる。
「なぁ、エリィ。私の服は汚れてないか?」
「ん、だいじょぶ」
やはりセインも一張羅が汚れることを気にしていたのだろう。結局こいつは最後までちまちまちまちまと“なん”を千切って食べていた。
周りのお客さん、みんな私と同じように最後はまるっと齧りついていたのに。普通にこれがこっちでのスタンダートじゃないのだろうか。
「……あと、一応言っておくが」
口元を丁寧にナプキンで拭いながら、セインが言った。
「エリィ。相変わらず君の口元はすごいことになっているぞ」
「ふん。また大袈裟に言いやがって」
もしシャリィちゃんがここにいたら、きっとにこにこ笑いながら口を拭いてくれただろう……なんて、思っていたら。
「あの、その、おねーさん……」
「……お?」
店員の女の子が、なんかおずおずとした様子でやってきた。その片手には──白い、紙?
「あの、ホントに口元がすごいことになってるので……」
「──!」
その女の子がポケットから取り出したそれ。手のひらサイズの、なんか妙に可愛らしい見た目の長方形。なんだなんだと不思議に思ってみていれば、それはパカッと開いて──
──口元を盛大に汚した私が、そこにいた。
「え……えっ? こ、これ、私……?」
「間違いなく君だな。……こんなに綺麗で小さな鏡があるのか」
「えっ、その、実はこれ、なんか変な魔法とかかかっていたり……」
「エリィさん。普通、魔法の鏡なら綺麗に映してくれるんじゃないっすかね」
「──!」
女の子が差し出してくれた紙を受け取り、慌てて口元を拭う。
もしかして私──毎回あんな醜態を晒していたのか?
いや、その、だって、口元を汚すっていったって限度ってものが普通あるし、周りのみんなの汚れ具合はだいたい一緒だったから私もそんなものだろうって思ってたし、そもそも、そんな綺麗な鏡がそこらにあるわけなんてないし、水辺に行ったってあそこまで綺麗には映らないし──!
「……鏡、持ち歩かないんですか?」
「この人たち、すごい辺境の出身らしいから。大自然に囲まれてスローライフ……というか、サバイバルライフを送っているっぽい。だから、あまり文明の利器に慣れていないらしい」
「……は? 田所、なんでそんなこと知ってるの……?」
「ちょっと縁があってな」
田所と女の子の会話なんてどうでもいい。それよりも今は、一刻も早くこの口元をどうにかしなくては。
──あの外国人のお姉さん、良い食べっぷりだったよな。
──あんな風に無邪気に子供っぽく食べてくれるって……どれだけ美味しかったのかしら。
──もしかしてモデルか何かか?
──モデルなら、あんな風に口元を汚さないだろ? でも、めっちゃ美味そうだったな……!
周りの喧騒から言葉を拾ってしまう自分の耳が本当に恨めしい。なんでこういうときに限って、いろいろと聞こえてしまうのだろう。好意的に捉えてくれているだけマシか……なんか明らかに人が増えていないか?
「んで、セインさん。たぶんですけど、ゆきちゃんに会いに来たんでしょう?」
女の子と話していたタドコロが、何でもないかのようにセインに話しかけた。
「む……その、まぁ、そのつもりではあったのだが……その」
セインはきょろきょろとあたりを見渡す。そして、露骨にしょんぼりとした。大好きなおもちゃを取り上げられた子供のような、そんな顔をしている。その姿は、いい年をした騎士のそれとはとても思えない。
「あー……あの人、今は調理室の方かな。いや、職員として動き回っているかも」
「む……その、いつ頃こっちに戻って来るかとかは……」
「すみません。それはおれにはわからないです」
セインの顔がさらに悲しそうになった。なんかもう、見ているだけでこっちが泣きそうになってくるような顔だ。
「じゃあ、呼んでもらえばいいじゃん」
「しかし、彼女は仕事中なのだろう? 勝手に呼んだら迷惑になる。そんな真似は出来ない」
「はぁ? じゃあ、どうするんだよ」
「…………追加で注文をして、来るまで粘る。“じゃすみんてぃー”をまだ頼んでいないし」
「……」
これだから頭の固い騎士は困る。いつ来るかもわからないまま、ここで注文をして粘るって……一応の筋は通しているものの、そんなの迷惑以外の何物でもないだろうに。
今だってほら、お客さんはどんどん増えている。そんな中で机を占拠してずっと待っている男がいたら、タドコロたちだって持て余すに決まっている。
「ねぇ、キミ。ちょっとお願いがあるんだけど」
「えっ、わ、私ですか?」
鏡と紙を貸してくれた女の子に声をかける。シャリィちゃん並みに気の利いているこの娘なら、きっと私のお願いを聞いてくれるはずだ。
「ユキと……カナエを呼んできてくれないかな? ……薄々気づいているだろうけど、セインはユキに会いに来たんだ。私はカナエに会いに来たんだけどね」
「え……か、華苗ちゃんもですか!?」
「うん、そう。カナエをぎゅっ! ってしたくって」
「……! い、今すぐ行ってきますッ!」
何やら興奮した様子のその娘は、ちょっとびっくりするくらいの速さで部屋を出て行く。あの身のこなし、なかなかに侮れない。
「おい、エリィ!」
「うるさい、黙って聞け」
ああ、やっぱり私がついて来て正解だった。この騎士様は物事の道理を重んずるあまり、融通が効かないところがある。最近はまだちょっとマシだけれども、騎士特有の自己犠牲精神が抜けきっていないというか、自分のことを後回しにする節があるんだよな。
「もう一つ、アドバイスをやろう」
今は祭りだ。そして、せっかくおめかししているんだ。なにより──滅多にない、こいつらと会える機会なんだ。
ちょっとくらい、積極的になっても罰は当たらないだろう。それに、この世間知らずの騎士様に、常識というのを教えてやるのも悪くない。
一応これでも、クランの仲間だ。応援の一つくらいはしてやりたくもある。
言わなきゃわからない騎士様に呆れつつ──いつか私も、そんな風に思える日が来ると願いながら。
「男でも女でも、会いに来てくれた──っていうそれだけで……いいや、それこそが堪らなくうれしいものなんだよ」




