店主裏話
佐藤 夢一はどこにでもいる高校生だ。そりゃあ、両親が仕事の都合で世界を駆けまわっていたり、高校生なのに一人暮らしをしていたり、こと部活に関してはちょっと──いいや、だいぶ不思議でエクストリームな学校に通ってはいるものの、中身はいたって普通の、平凡な高校生なのである。
ちょっと変わっているところと言えば、その頭髪が日本人らしからぬ──ここではむしろ、日本人のほうが変わっているというべきだろうが、ともかく、彼の頭髪が見事な茶髪であることくらいだろう。
もちろん、彼は生粋の日本人。決してハーフなんかじゃないし、両親も黒髪黒目のステレオタイプな日本人だ。
だから、彼も両親も、きっと遠い遠い先祖に外国の人がいて、先祖返りでそうなったのだと思っていた。そして彼自身、それを受け入れていたし、とある経緯でそれが事実と教えられたときも、ああ、やっぱりそうか──と、そう思っただけだった。
長々と語ったが、ともあれ、彼自身はごくごく普通の高校生だということが伝わってくれればいい。環境は一般的とは言えないし、誰にも言えない秘密もあったりするが、とにかく彼は普通の高校生なのだ。
そんなごく普通の高校生が自宅に憧れの女性を招いて、冷静でいられるはずもなかった。
くどいようだが何度でも言おう。彼は普通の高校生だ。だから、秘密のお仕事──言うまでもないが喫茶店のマスターとして働いている際に、その場でとんとん拍子でその女性がお泊まりすることになってしまい、内心ではかなり焦っていた。ありていに言って、心の準備ができていなかったのである。
「改めまして、我が家へようこそ、アミルさん。狭くて散らかっていて本当に申し訳ないですが……」
「おねーさんがここにいるのって、なんか不思議な感じがしますね!」
なんとか自宅に招くことは出来た。一応部屋はそこそこ片づけてある。妹と一年とちょっと前から暮らすようになってから、少なくとも見られたらマズいものは見つからないように工夫して……ごほん、そもそもそんなものは持っていない。問題はない。
洗濯物を取り込みながらも、彼の頭は忙しく動く。ゲームのポスターは見られても大丈夫だよな、棚の漫画は子供っぽいと思われないだろうか──そもそも、本当に彼女をこちらの自宅に招いてもよかったのか、と。
もちろんそれにはいろんな意味があるが、彼の頭の中では『狭くて汚い部屋だと思われてないか』ということが大きなウェイトを占めていた。
だから家の中に戻ってきたとき、彼女が自分のベッドに寝転がっている姿を見て、いろんな意味でドキドキした。なんかもう、言葉に出来ないなにかを感じてしまった。うれしいような、はずかしいような、そんな気持ちだ。
知ってか知らずか、そんな状況に持ち込んでくれた妹に、彼はこっそり心の中だけで拍手喝采を送った。周りからは優しいとか紳士的だとか大人っぽいだとか気障だとか優男だとかスケコマシだ……なんて言われている彼でも、中身は立派な男子高校生なのである。
で、気づいてしまった。
「あっぶねぇ……ファブるのすっかり忘れてたぁ……一応セーフでいいんだよな……? 大丈夫だよな……?」
内心びくびくしながらも、ちゃんとしっかり確認する。すんすんとその枕を嗅いで、自分のものではない甘い匂いに一瞬くらっとしたのは内緒だ。
すっかり忘れていたが、今は夏場で必然的に汗をかく。そして二人暮らしの都合上、そう頻繁に寝具の洗濯はできない……となれば、枕もシーツも汗臭くなっていてもおかしくない。自分たちじゃ気付かなくても、特に年ごろの女性はそういうのに敏感だと聞く。
招く前に全体をファブっておけばよかった……と彼は若干の後悔の念を抱きつつも、一応は大丈夫だったことにホッと安堵の息を付く。もちろん、再度の愚行を犯すことなく、念入りに、いつもより多めに部屋中に消臭剤を噴霧することは忘れない。
「……」
で、だ。今は憧れの女性が妹と一緒にお風呂に入っている。これでそわそわしない男子高校生などいるはずがない。狭い家だから、ちょっと耳をすませばその水音が聞こえるし、二人できゃあきゃあと騒いでいるのもわかる。
ついでに言えば、ちょっとこの扉を開けるだけで、それはもう刺激的すぎる空間へと飛び込むことができるだろう。
「……」
だが、それはしない。いや、出来ない。元々彼は紳士だし、なによりそんなことして嫌われたくはない。大変魅力的な話ではあるが、今後のこととそれを天秤にかけたら、どちらの皿が傾くかなんて火を見るよりも明らかだ。
そしてなにより。
「夕飯、作らないと」
そう、夕飯の問題がある。それもわざわざお客様がお泊まりしに来てくれているのだ。決して手を抜いていいはずがない。
一応、作り置きしていたカレーはある。本当だったらちょっとずるっこしてこれを夕飯にする予定だったのだ。最近忙しくて疲れていたし、たまにはいいか……と思っていたのである。
だが、大事な大事なお客様にお出しする料理に、果たしてそれは相応しいのだろうか。
「やるしかない……ッ!」
否。相応しくなどあるはずがない。そんなの、彼の料理人の端くれとしてのプライドが許さない。
彼はダッシュで異空間へとつながる扉に飛び込んだ。扉がたくさんあるその場所から、今度は喫茶店ではなく、自分の部活場所──すなわち、学校にある古家への扉を開く。
これを使えば自宅から学校へ一瞬で行けるのだが、これの管理者である彼の謎だらけの先輩は、朝はこの扉を開けてくれていない。普段からズルすることをを覚えちゃいけないとのことだったが、幸いなことに今はばっちり開いている。
彼は頭の中で計算する。女性のお風呂はとにかく長い。妹はいつも一緒だからわからないが、少なくとも母親は無駄に長かった。今回は慣れないお風呂であることと、二人でゆっくり楽しみながら浸かることを考えると、風呂からあがるまでそこそこの時間的猶予はあると言っていいだろう。
もちろん、だからといってのんびりすることは出来ない。早急に材料を集め、出来るだけ早く──最低でも下拵えだけは済ませる必要があった。
「──行けるかッ!?」
古家から全力でダッシュ。夕日に照らされ、彼の茶髪はオレンジ色に燃え上がる。距離的にはそこまで遠くないが、時間的にはかなりギリギリ。彼は一縷の望みをかけて、自分のもう一つの部活場所──調理室への扉を開けた。
「うぇ? 佐藤先輩? こんな時間にどうしたんです?」
「あっれ、佐藤じゃん? お前今日来てたん?」
いた。人がいた。メキメキと実力を付けつつある可愛い一年生の後輩と、普段何かとお世話になるサッカー部の三年の先輩だ。
もう結構遅めの時間だが、おそらくは後輩のほうがサッカー部の先輩を待っていたのだろう。彼の学校では、調理部が無駄にたくさん作った料理を、運動部がつまみ食い兼評価係として食べに来るのはよくあることである。
実際、今も二人は仲良くコロッケを齧っている。そこはかとないロマンスの香を感じなくもないが、今の彼にはそれはどうでもいいことだった。まだ調理室が開いていたという、その事実だけが重要だったのだ。
「よっちゃん、食材余ってる!?」
「えーと、どうでしたっけ? 今日はみんないっぱい作りましたし……」
「俺、ちょっと早めに終わったからよっちゃんにいっぱい作ってもらっちゃったぜぃ!」
コロッケだろ、ホットドックだろ、かぼちゃパン、ハッシュドポテトにてんぷら、スイカにメロン……と先輩は指を折る。それはもはや帰りの寄り道で食べるレベルじゃないと彼は一瞬思ったが、この手の話に関して言えばこの高校は普通じゃない。材料がほぼ無限に収穫できるし、調理部だってその腕はそんじょそこらの調理部とは比べ物にならないのだから。
「とりあえず、見たほうが早いんじゃね?」
先輩に言われるがままに、彼は冷蔵庫を開けた。そして──目当てのものを見つけた。
「あった……!」
「あー、俺が今朝持ってきたひき肉じゃん。なんだ、みんな使わなかったん?」
「いやぁ、さすがに先輩個人が買ってきたものをほいほい使えませんって」
「遠慮するこたねえのに。オレはこうやって毎日いろんなもの食わせてもらってるしさ。それに毎日もってきてるわけでもないじゃん? ついでにそれ、ご近所&訳あり価格でめっちゃ安いんだぜ? ぶっちゃけほぼ廃棄みたいなものらしいし」
「や、それ絶対違いますって。すっごく良いお肉ですよ?」
「どっちにしろオレからしてみれば、お釣りがいっぱい……っていうか、逆に金を払わなきゃって心配するレベルなんだけど」
「うふ、あたしたちからしてみれば、いっぱい食べてもらって、きちんと批評してくれて大助かりですよぅ!」
そんなことは今はいい。貴重なたんぱく質を調理部に個人的に提供してくれる先輩は確かにありがたいが、今の彼にはそれよりもっと大事なことがあるのだ。
「秋山先輩! これ、貰ってもいいですか!?」
「お、おお……。別にいいけどよ……」
困惑するサッカー部の先輩をよそに、彼は再び冷蔵庫と食糧庫を漁る。
玉ねぎは見つけた。これについては心配していなかった。彼の親友の楠が──この学校の園芸部部長の楠が、ほぼ無尽蔵に収穫してくれるのだから。
不思議な部活が多いこの学校の中でも特に園芸部は不思議で、楠曰く「まごころ」をこめることでなぜか作物が異常成長し、何度でも、いくらでも収穫することができる。麦の収穫の際はそれで酷い目に合ったことを、彼は今でもちゃんと覚えている。
もちろん、彼自身それを利用している。調理部やお菓子部の一員として園芸部の手伝いをすることで部活用の食材を融通してもらっているし、個人的なお願いとして、用途を明かさずに喫茶店で使う食材ももらっている。
一高校生である彼が喫茶店を営んでいけるのはひとえに親友のおかげだと言ってもよい。親友が無尽蔵に収穫してくれる作物があるからこそ、あれほどのお安いお値段でお菓子を提供できるのだ。
だから、野菜に関しては心配いらない。いくらでもあるし、最悪ちょっと畑にいってちょろまかしてくればいい。親友はそんなこと気にしないし、むしろ好きなだけ持って行けと山盛りのピーマンもつけて持たせてくるはずである。
だけど、だ。
「信じてますよ、あやめさん、ひぎりさん……!」
園芸部の鶏のあやめさんとひぎりさん。彼女たちが産んでくださる卵だけはそういうわけにはいかない。
彼女らもまた、不思議な部活の影響を受けられたのか、よくお食べになられ、そして上等な卵をこれでもかと産んでくださる。聞けば、一晩で二十個以上も産んだくださったこともあれば、放課後確認した時に三十以上も卵が見つかったこともあったとか。
しかし、野菜と違って卵には限度がある。そして、量も驚異的……とまではいかない。なにより、卵はお菓子部でも調理部でもよく使う。
ついでに言えば、ちょっと畑に行ってもらってくる、なんてこともできない。あの不思議な畑に入れる確率は、今のところ彼は七割ほどである。さらに運良く畑に入れたとしても、鶏小屋には入れない。
だから、この時間まで卵がここにあるかは──賭けだった。
「あった……!」
あった。どこからどうみても立派な卵だ。しかもなんと奇跡的に六つもある。
「……どうしたんだろうね、佐藤先輩」
「こいつ、たまにわけわかんないことあるよな。普段何してるかも謎だし」
念のため全部貰い──どうせ明日には補充されるし──さらには野菜と果物も適当に見繕い、挨拶もそこそこに全力で彼は家へと戻る。彼が知り得る限り最高の材料がそろったのだから、あとは存分に腕を振るうだけだ。
「うぉぉ……!」
まずは玉ねぎをみじん切り。目が染みるとか、そんな弱音を吐くはずもない。もうすっかり慣れっこで、むしろこの痛みが無いとかえって不安になってしまう。
刻んだ玉ねぎはサッと炒める。程よく火が通り、透明になるくらいまで。家庭によっては生のまま使うところもあるらしいが、彼はこっちのほうが玉ねぎの甘みが良く出るような気がして好きだった。
「間に合え……!」
玉ねぎをいくらか冷まして熱を取った後は、挽き肉、パン粉、溶き卵と混ぜ合わせてよくこねていく。もちろん、塩コショウで味をつけるのも忘れない。全体が良くなじむように、均質になるように。事前に氷で手を冷やしておくのが、彼のさりげないこだわりであった。
「……」
パン粉? そんなもん腐るほどある。忌々しい思い出を、彼は考えないようにした。
さて、ここまでくれば、あとは形を作るだけ。ぺしんぺしん、ぱしんぱしんと、彼は熟練の料理人のように、手の中で肉をキャッチボールする。その動きは流麗で、無駄の一切が無い。芸術的と言うよりもむしろ、大道芸のように曲芸染みた印象を与えるものだった。
「後は付け合わせ……!」
肉のほうはあとは焼くだけである。だから、彼は全力で付け合わせをつくることにした。栄養バランスもきっちり考えてこそ、最高のおもてなしは達成されるのだから。
彼は、料理で楽しい気持ちになってもらうのは当たり前のことだと思っている。料理とは本来そういうものであるし、彼自身、そのために料理を作っている。彼は自分が作ったものを誰かが美味しそうに食べるのを見るのが、大好きなのである。
そして彼もまた、不思議な部活でいっぱいな学校の、調理部の一人でもあるのだ。
「ぬぉぉ……!」
恐ろしいスピードで出来上がっていく料理。形容ではなく、確かに込められている気持ち。もちろん部長や部長を継ぐに足る素質を持った人間にはとても敵わないが、彼は無意識に、確かにその片鱗を見せていた。
ほんのちょっと、それこそ誤差の範囲みたいなものとはいえ、確かに彼はそれを使っている。だが、結果だけなら一緒であるため、彼はそれに気づいていないのだ。
そして──
「おにいちゃん、お風呂あがりましたよ!」
「お、お次どうぞ……!」
「おや、いいタイミングですね。ちょうどこちらもあらかた終わりましたよ」
ギリギリ終わったかどうかというタイミングで、妹とその女性が出てきた。湯上りのふわりとした甘い香りにくらりとし、彼女の上気した赤い頬に心臓がバクバクするも、平静を保って彼は受け答えする。
先程までは息を切らして調理をしていたというのに、そんなことをみじんも感じさせない。こういうところが、優男だとか気障だとか言われる由縁なのだろう。
「じゃあ、僕もささっとお風呂に入ってきます。シャリィ、軽く食器の準備だけよろしくね」
「がってんです!」
湯上りかつ自分のジャージに身を包んだ彼女の姿をしっかり心のカメラに収めてから、彼は風呂へと入った。
「……」
一回、二回と深呼吸。ついほんのちょっと前までこの空間には……と、考えずにはいられない。背徳感に襲われたのと、のぼせ上がってしまったかのように真っ赤っかになってしまったのは、もはやしょうがないことだろう。
「落ち着け、落ち着け」
ちゃぷちゃぷ、と彼は戯れながら考える。一応ここまでノープロブレム。大丈夫、まだまだ自分の心臓は耐えられるし、これからミスを犯すつもりもない。このまま朝まで乗り切ってやる……と決意を新たにする。
だから。
だからこそ、焦ってしまった。
いつもよりちょっと長風呂になってしまったことを除けば、何も問題なかったはずなのだ。
彼女と一緒に仲良く食卓の用意するのは楽しかったし、丹精込めて作った目玉焼き付きハンバーグを彼女は喜んでくれた。おしゃべりしながら食後のデザートを楽しんだし、とっておきのプリンを出した時だって、彼女は飛び上がらんばかりに喜び、思わず見とれてしまうほどの最高の笑顔を見せてくれた。彼女と共に狭い台所で食器の片づけを行うのだって、言葉に出来ない幸福を彼にもたらしてくれた。
そんな楽しい出来事を彼方にぶっ飛ばすような出来事が、夏場だし廊下で寝れば問題ないな……と考えていた彼に襲い掛かってきた。
そう、彼は頑張ったのだ。何もかもを一生懸命頑張ったのだ。あとはもう、静かに終わってくれるはずだったのだ。確かに風呂を上がったあたりから妹がやたらと彼女と仲良くなっていたり、いつもとなんとなく違う雰囲気はあったけれど、それでも何事もなく終わるはずだったのだ。
なのに、今の状況は。
「そそ、それじゃ、い、いい、一緒に、ね、寝ましょうか、ユメヒトさん!」
なんで彼女は、当たり前のように自分のベッドにいて、あんなにも顔を真っ赤にしながら、ぽんぽんとそこを叩いて自分を招いているのだろうか。
なんで妹は、そんな彼女の隣で枕を持って、あんなにもにこにこと笑っているのだろうか。
「あ、あの……?」
彼はもう、困惑するしかない。いったいなにがどうしてこんなことになってしまったのか。
そりゃ、嬉しくないはずがない。名前で呼んでもらえたこともそうだし、内緒の趣味であるジャージ姿をした、まだまだ湯上りのしっとり感漂う彼女が自分を招いてくれている。このシチュエーションを嫌う男子高校生などいないと、彼は本気で思っている。
ある意味では、これは頑張った彼へのご褒美になるのだろう。
でも……これは、その、なにか違くないか?
「おにいちゃん」
「……シャリィ?」
合点がいく。きっとこの寂しがりな妹がぐずったのだと。彼女はきっと、それに付き合ってあげたのだと。この甘えん坊で人懐っこい妹は、暗闇と孤独を酷く嫌う。一人では寝られないくらいそれは深刻だ。
このお泊まりをあんなにも切望したのも、きっと両側から安心感に挟まれて寝たかった……家族のぬくもりを求めていたのだと。
そう考えれば、恥ずかしさよりも、慈しみのほうに彼の天秤の皿は傾いた。
「おねーさんが勇気を振り絞ったんですから──男の人は甲斐性を見せるべきだって、じいじが言ってましたよ?」
彼は思った。
あのクソ爺、子供にいったい何を教えたんだ──と。
来ちゃいました。とうとうこの時が来ちゃいました。
ふかふかのベッド。肌触りの良いタオルケット。私のすぐ隣には一張羅だという薄いピンクのフリフリのパジャマを着たシャリィちゃん。もう歯磨きもおトイレも済ませて、文字通り寝る準備はばっちりです。
「さ、さぁっ! ユメヒトさん、遠慮することなんてありませんっ!」
なるべく、なるべくその黒い瞳を見ないようにしながら、私はぽんぽんとそこ──わずかに空いたベッドのスペースを叩きました。
「そうですよ、おにいちゃん! あたし、両側からぎゅっ! ってしてもらうのが夢なんですから!」
にこにこと笑ったシャリィちゃんが、私の肩を抱いてごろりと寝転がりました。当然私もそれに身を任せ、ふかふかなそれに体を沈めます。ぎゅっと抱き付いてくるシャリィちゃんの体もまた柔らかく、今なおお風呂上がりの甘いいい香りがしました。
少々──いえ、だいぶ狭くて密着している故にちょっと暑いですが、“えあこん”なる不思議な道具のおかげで、この部屋自体はとても過ごしやすい温度です。
「さあ! さあ! さあさあさあ!」
どこまでもご機嫌なシャリィちゃん。もうシャリィちゃんのことしか考えられないくらい、私の頭の中は大変なことになっています。確実に顔は真っ赤でしょうし、この心臓のどきどきがシャリィちゃんに聞こえてしまっていることは疑いようがありません。
「べ、別に変な意味とかありませんから! シャリィちゃんの夢をかなえてあげるだけですからっ!」
そうです、そういうことなのです。本当に、変な意味なんてないんですから!
「おねーさん? 変な意味って何ですか?」
「……もうっ!」
無視。これは無視。これくらいのいじわるは、許されるはずです。
「ほ、本当の本当に本気なんですか?」
「くどいですっ! 私とユメヒトさんの仲なんですから、これくらいどうってことないですっ!」
ええ、そうですよ。これくらいごく普通のことです。冒険をしている時だって、パーティメンバーが同じ部屋で寝るなんてこと、よくあるじゃないですか。小さな天幕で一緒に寝たり、窮屈な馬車の中で寝ることなんて、普通じゃないですか。
……双方とも装備でがっちり固めていたり、いつ魔物に襲われるかわからない緊張感でピリピリしていたりしますけどね。それに地べたや板張りの床──少なくともこのベッドのような寝心地の良さは皆無ですし、同じベッドを同時に使う……なんてこともないですが、今はそれを考えないことにします。
そもそも冒険中の睡眠って、寝てるってよりかは横になって休んでいるだけ、のほうが近いんですよね。
それにほらほら、仰向けになってしまえば、ユメヒトさんの顔は見えません。私と彼の間にはシャリィちゃんがいますし、なんとか意識しないようにすれば、いつもと全く変わらない──それどころか、ふかふかなベッドであるぶん、すぐに寝付けちゃうはずなんです!
「さぁ、どんと来なさいっ!」
「……お、お邪魔しまーす」
そろそろと、何かを決心したらしいユメヒトさんがベッドまでやってきました。私はほんの少し壁側へと詰め、わずかばかりのスペースを確保しようとします。肉体的疲労なのか、精神的疲労なのか、いろんな意味でぎくしゃくしたユメヒトさんがごろりと寝転が──ろうとして。
「ありゃ、やっぱりこれじゃあスペースが足りませんよ。……おねーさん、仰向けじゃなくて横向きになってもらわないと。それにほらほら、あたしをぎゅっ! っとするためには、横向きにならないとダメですよ? ……もちろん、おにいちゃんもですよ?」
うん、そうだね、私、薄々わかっていたよ。でもそれはね、出来るだけ考えないようにしていたんだよ……!
だって! なんでユメヒトさん、そんな薄いシャツ一枚しか着ていないんですか!? しかもけっこうゆるゆるで、なんかもういろいろチラチラ見えちゃってますよ!? お風呂上がりの良い匂い、未だにしますよ!? 胸元とか、私よりもきれいな肌してますよ!? そんなの反則過ぎるじゃないですか!
それに横向きってことは、例えシャリィちゃんが間に居ようと、つまり……!
「はふぅ……!」
あ、だめ。心臓破裂しそう。
「おー、おもしろいくらいにまっかっか! これだからおねーさんが大好きなんですよ!」
私絶対、途中でどうにかなっちゃいます。せめてこれが冬場で厚着だったら大丈夫だったのにぃ……! これ、新手の拷問ですか!?
「……でも、本気でいやだったら言ってくださいね? あたし、嫌がるおねーさんに無理してもらってまで夢をかなえようとは思いませんから」
隣から聞こえてくる、ちょっぴり寂しそうな声。そんな言葉を聞いてしまったら、引き下がれるはずもありません。
元より、嫌ではないんです。むしろものすごくうれしいです。ただちょっとその、心の準備ができていないだけで。
ええ、女は度胸です。それに、小さな女の子のささやかな夢を叶えてあげなくて、どうして魔女を名乗れるというのでしょうか。
「うぅ……も、問題ないですよ。……あ、でもひとつだけ」
これくらいの我儘はいい……よね?
「お願い……あかり、消して?」
「アミルさん、その一言は今の僕には強烈過ぎます」
変な意味はありません。ただ、顔を見るのが恥ずかしいってだけです。それにほら、いくら暗いのが怖いって言っても、まさか一晩中明かりをつけたままなんてこと……ない、よね?
私じゃなくて、顔を真っ赤にするユメヒトさんがいけないんです。変なこと考えているおこちゃまがいけないんです。そういうことにしてください。
ぱちり、と小さな音がしてふっと視界が暗くなりました。予想外だったのは、それは完全な真っ暗闇ではなく、儚いぼうっとしたオレンジの光で満ちていたことでしょうか。暗い明るさ……とでも形容すべきそれは、何かを見るにしては暗く、何かを見ないにしては明るい、そんな不思議な光でした。
ぎっ……
「うへへ……!」
うひゃあ、と心の中だけで声をあげました。暖かくたくましいものが、のそりとベッドの上にあがっています。暗くてよく見えないくせに、妙にはっきりとその表情が見えました。
「この安心感……!」
もぞもぞとシャリィちゃんが動きます。私にぎゅっとしがみつき、嬉しそうにほおずりして。釣られるようにぽんぽんと頭を撫で、背中をさすると、彼女はよりいっそう嬉しそうに声を漏らしました。
「おにいちゃんも、いつもみたいに抱きしめてくださいよ?」
「……」
目をぎゅっと瞑ったユメヒトさんは、シャリィちゃんの脇腹のあたりを撫でていました。そりゃまあ、彼女が背を向けている以上、それくらいしか方法はないでしょう。
問題なのは、その……ポジションと言いシチュエーションいい、目を瞑ったままの彼の表情を見ていると、その、どうしても……!
「あ、おやすみなさいのキスもお願いしますね?」
「してないでしょそんなこと!?」
カッと眼を開くユメヒトさん。暗闇にその声が静かに響き渡ります。ぱちりとあってしまったその瞳に、再び私の心臓は激しく暴れ出しました。
「今の、シャリィの冗談ですからね? 本気にしないでくださいね?」
「……別に、ほっぺやおでこならいいのでは?」
「……あ、そっちか」
何処だと思っていたのか……なんてこと、聞けるはずもありません。そんな墓穴を掘るようなことを聞いてしまったら、私はもう私でいられなくなっちゃうかもしれません。
今でもほら、その微かな息遣いにドキドキしているというのに! その甘い匂いにくらくらしているというのに! なんかもう、物理的な距離が近すぎます! 文字通り吐息がかかる距離ですよ!
なにより悔しいのは、私がこれだけ内心パニックになっているのに、ユメヒトさんは割と平然としているところでしょうか。シャリィちゃんにからかわれて照れたり、言葉では焦ったりしているものの、私自身に対しては平常運転のような気がします。
私があれだけ勇気を出してベッドに入ったのに、ユメヒトさんはするっと普通に入ってきました。それが何よりの証拠です。
うう……さすがにちょっと悔しい……というか、なんか私だけドキドキしていてバカみたいじゃないですかぁ……!
シャリィちゃんをぎゅって抱き締め、もぞり、もぞりと動きます。なんかいろいろ落ち着かないのは、決して気のせいじゃないでしょう。
「おねーさん?」
「いえ、ちょっとしっくりくるポジションが……」
なんでしょうね、このそこはかとない違和感。何かが物足りないというか、しっくりこないというか……。
「そういえばおねーさんには枕がありませんでした!」
「ああ、いけない。すっかり失念していました。何か適当にクッションでも……」
薄明りの中、もぞもぞと動いて起き上がろうとするユメヒトさん。それを止めたのは、彼にひしっと抱き付いたシャリィちゃんでした。
「ダメですってば。枕ならここにあるじゃないですか」
「……ああ、シャリィの枕を使ってもらえばいいか」
僕の枕は大きめだし、シャリィと二人で使える──とか、僕は枕が無くても大丈夫なので──と、ユメヒトさんは続けようとしたのでしょう。もうそれなりに長い付き合いです。なんて言おうとしたかくらい、わかるつもりです。
ですがさすがの私でも、シャリィちゃんの言葉までは予想できませんでした。
「じゃなくて、こっち!」
「わわっ!?」
ぐいっと、引っ張りました。
シャリィちゃんは、ユメヒトさんの腕を引っ張りました。
ええ、それはもう見事な腕枕のスタイルです。
さらにいえば、今のシャリィちゃんはユメヒトさんに引っ付くように抱き付いています。その胸の中に頭を埋めていると言ってもいいでしょう。つまり腕枕と言っても、彼女の頭は彼の肩とか胸とか、ともかく彼の体にほど近い場所にあると言っていいです。
つまり、腕枕にはまだまだ余裕があるわけで。
「さっ、おねーさん! ここに高さも固さもちょうどいい枕がありますよ! それも二人で使っても問題ないサイズです! 使い心地の良さはあたしが保証しちゃいます!」
「ううう……っ!」
つまり、そういうこと。
「こ、こら、シャリィ。いくらなんでもふざけすぎ──!?」
でも。
でも、悔しいじゃないですか。
私だけどきどきしているのに、ユメヒトさんが平然としているのはおかしいでしょう?
──だから、これはほんのいじわるです。
「お、おじゃましまーす……」
「うおぁっ!?」
ちょこんと頭を乗せる。程よい高さで、程よく固いそれ。産まれて初めての感覚に、目の前がくらくらしました。
約束通り、シャリィちゃんを抱きしめます。その都合上、どうしてもユメヒトさんのほうまで手が回ってしまいますが……ええ、しょうがないことです。シャリィちゃんが微妙にポジションを下にずらしつつあるのも、この際気にしないことにします。
「腹をくくりましょう、ユメヒトさん」
「……な、なんかずいぶん漢気にあふれてますね?」
「ふふ、魔女は約束を破らないんですよ?」
彼のもう片方の腕を取り、シャリィちゃんを抱きしめさせる。私たちに挟まれたシャリィちゃんは、それはもう嬉しそうに身動ぎしておりました。
とりあえず、これで依頼達成。いろんな意味で、シャリィちゃんは満足したことでしょう。
「……さ、もう寝ましょう、ユメヒトさん?」
「……え、ええ、そうですね」
目を瞑ってしまえば、あとはその微かな息遣いに気を付けるだけ。この大いなる幸福感と安心感さえあれば、悪魔の吐息にだって負けません。魔女はこの手の誘惑、めっぽう強いんですから。
「──おやすみなさい、アミルさん。いい夢を」
最後の瞬間、耳元で囁かれたその言葉。ふわりと頭を撫でてくれた、優しい手。
はっきりと言えることは、一つだけ。
──安眠なんて、絶ッ対無理です!
そして。
「……んぅ?」
思わずお腹が鳴るような、良い匂い。じゅうじゅう、ぱちぱちって、小気味の良い音。
うっすらと開けていく視界。見慣れぬ風景と、見慣れた赤毛の可愛い女の子。私の胸の中でだらしなく笑っているのがたまらなく愛おしくて、本能的にぎゅっと抱きしめる。
ほんの少し暑い。でも、そんなに気にならない。むしろ、ずっとこの温もりを感じていたいくらい。
「……あ」
だんだんとクリアになっていく意識。次々に呼び起こされていく記憶。いつもと違うこの状況に一瞬体が強張り、昨日のことを思い出してほっと気が緩む。
「……」
ふかふかで柔らかいところにいる。頭は柔らかいそれに包まれている。甘く、安心できる匂い。それがすっごく悔しくて──眠りに落ちたときのまんまじゃないのが寂しくて、私はそれに思いっきりほおずりをした。
「……むぅ」
昨日と違い、ゆったりとしたスペース。私とシャリィちゃんにしっかりとかけられているタオルケット。外からはちゅんちゅんと鳥の鳴き声が聞こえ、カーテンからは朝の光が差し込んでいる。
「おや、お目覚めですか? おはようございます、アミルさん」
「……」
にこりと微笑むマスター。朝からマスターの顔が見られるなんて──ううん、起きて一番最初にマスターの声を聞けるなんて──いいえ、マスターに起こしてもらえるなんて、すっごくうれしいです。
「……おはよ」
「……あ、アミルさん?」
でも。
ずるい。
マスターは、ずるい。
私、朝起きたら目の前にマスターがいるってのを期待してたのに。マスターの寝顔を見たかったのに。寝ぼけたマスターを見て、ほっぺを撫でたりしたかったのに。……寝ているマスターなら、ゆっくりじっくり見ていられるって思ったのに。
「むー……」
「もしかして寝起きは悪いほう……っていうか低血圧なのか……?」
内緒でこっそりぎゅってしたかった。しょうがないから、この枕で我慢する。
ううん……やっぱりすっごく安心するなぁ……! これ、そのままお家にもって帰りたい……っていうか、もうずっとここでこうして寝ていたいなぁ……!
「……なんか、見てはいけないところを見ている気がする」
「……はっ!」
ちょっと待ってください私!
私いま、いったい何をやってるんですか!? なんでマスターの枕、普通にぎゅって抱き締めているんですか!?
「あ、目に光が戻った」
えっちょっとまって。
なんでマスターもう起きているんです? なんで普通にもう制服に着替え終わっているんです? なんで当たり前のように朝ごはんの支度なんかしちゃったりしているんです?
それにそれに……きゃあ! やっぱり寝癖が酷いことになってる! なんかもう思いっきりぼさぼさになっちゃってる!
「ううう……見ないでくださぁい……!」
「ご、ごめんなさい!」
慌てて飛び起き、洗面所に直行します。幸いにしてあそこには大きな鏡がありますし、お水だっていくらでも出てきます。急いで髪を整え──ああ、櫛を持って来ればよかった──顔も洗って、最後にもう一度、変なところはないかチェック。
──やっぱり、顔はまっかのまんまでした。
うう……思いっきり恥ずかしいところ見られたぁ……! おまけに絶対、寝顔を見られたぁ……!
「ほーら、シャリィ。もう起きる時間だよ。アミルさんも起きたんだからさっさと起きな」
「むー……あとちょっとだけぇ……!」
「だーめ。今日は朝早いって言ったでしょ? 僕の支度が終わった後ならいくらでも寝てていいから」
「ぶー……」
ます……ユメヒトさんがシャリィちゃんを起こしているようです。言われてみれば、まだまだけっこう早い時間のように思えます。夜明け直後……ってほどではありませんが、休養日なら普通に寝ている時間ですね。
……あ、でも、実家のおとうさんとおかあさんはこれくらいだったっけ。私も冒険者になる前はこの時間には起きてお手伝いをさせられていたような?
うん、そう考えるとしっくりきます。それに……朝ごはんの良い匂いで起こしてもらえるなんて、本当に久しぶり。なんとなく実家の家族を思い出したのは、きっとそのせいでもあるのでしょう。
「おはようございます、シャリィちゃん」
「おねーさん……おはよーごさいまぁす……」
さりげなく、自然な流れで元のお部屋に戻ります。まだまだ眠いのか、シャリィちゃんはぐしぐしと目をこすっておりました。あれだけ大人びているシャリィちゃんでも、やっぱりこういうところは年相応に子供のようです。
「……あり? なんで今日はこんなに朝ごはん、豪華なんですか? もしかしておにいちゃん、おねーさんがいるからって張り切っちゃいました?」
「べ、別にいいでしょ、そんなこと!」
甘ぁい香りのするパンがいくつも。新鮮さ抜群のサラダがどっさり。あっちにたっぷり用意されているのは“じゃむ”でしょうか。贅沢に三種類もあります。カリカリに焼いたベーコンに、玉ねぎのいい香りが何とも食欲をそそるスープ。それだけでもう、小さな机はいっぱいになっているというのに、綺麗に盛り付けられた果物の盛り合わせに、なんともフレッシュなジュースまでありました。
すっごく豪華な朝食でうらやましい……とは思っていましたが、どうやらこれはシャリィちゃんにとっても贅沢で異例の事態らしいです。
……あと、真っ赤になってるユメヒトさんがちょっとかわいい、かも。
「それより! お昼のお弁当はここに作っておいたから! 洗濯物も乾燥機終わらせて後は畳むだけ! ゴミも全部出しておいた! 僕はもう行くけど、アミルさんのこと頼んだよ! わかったらさっさと顔洗ってしゃっきりするっ!」
「ふわぁい……」
とてとてと洗面所へ歩いていくシャリィちゃん……は、いいとして。
「え……ユメヒトさん、もう行っちゃうんですか?」
「ええ。すみません、お見送りができなくて。実は今日、学校のほうでどうしても外せない作業がありまして」
「そんな……朝ごはんくらい、ご一緒する余裕は……」
「たいへん名残惜しいのですが、それすら……。あの野郎、収穫は朝一が定石だって僕だけをこんな時間に呼び出しやがりまして。ここのところ手伝いに行けなかった手前、断ることも出来ず……」
……なんか、ユメヒトさんってば本気で怒ってません? 今、たしかに額に青筋が見えたような? いいえ、ユメヒトさんに限ってまさかそんな……ねぇ?
「お詫びと言ってはなんですが、アミルさんのお弁当もご用意させてもらいました。よかったら食べてくださいね」
「わ、私のお弁当なんかよりもユメヒトさんですよ! 朝ごはんだって、まだ食べていないんでしょう!?」
今はまだ結構早い時間。これだけの朝ごはんを、しかもお弁当まで作っていては、とても朝ごはんを食べている余裕なんてなかったでしょう。身支度もばっちり済ませていますし、どう考えたって食べているはずがありません。
「大丈夫ですよ、向こうで適当につまみますから。それに、はちみつたっぷり栄養満点の特製レモネードを飲みましたから!」
「で、でも……!」
何も食べないよりかはマシかもしれませんが、果たしてそれは本当に大丈夫なのでしょうか?
ユメヒトさんは笑いながら玄関まで歩いていきました。最後に軽くその白いワイシャツと黒いズボンをぐるりと見渡すと、いつもと違う動きやすそうな靴を履き、ぽんぽんとポケットを叩いて忘れ物がないかチェックします。やがて満足したのか、カバンを片手にもって、そのドアへと手をかけました。
「それに、朝からアミルさんと……大好きな女性とお話しできましたから。こうしてアミルさんが見送ってくれるだけで、僕は頑張れますから」
「え──」
ポツリとつぶやかれたその言葉。がちゃりと開かれる扉。茶髪からはみ出た彼の耳は、朝日に照らされて真っ赤になっていました。
「そ、それじゃ、シャリィのこと、よろしくお願いしま──?」
気付けば、私は彼の腕を取っていました。
「……」
「……アミルさん?」
行ってほしくない。ずっとずっと、一緒に居たい。私はずっと、彼と、ユメヒトさんと一緒に居たい。
でも──それは、私のワガママなんですよね?
「……ユメヒトさん」
「……どうしました? もしかして、具合でも悪いんですか?」
困ったように笑う姿に、蕩けそうになる。覗き込んでくる漆黒の瞳に、溺れそうになる。
やっぱり私──ユメヒトさんが、大好きです。
「忘れ物、ですよ」
「忘れ物?」
なのに、一緒に居られない。朝ごはんすら、一緒に食べられない。
だから──これくらいのワガママは、いいよね?
「だいすき、です」
「え──」
手を伸ばす。愛しの彼の両頬を、手で包む。
彼の瞳が、近づいてくる。彼の吐息が、大きくなってくる。
彼の匂いが、強くなって。彼のぬくもりが、伝わって。
どきどきと心臓が鳴る。ぷるぷると、足が震える。
ぎゅっと、目を瞑って。ちょっとだけ、首を傾けて。
最後に、背伸び。かかとが、浮いた。
とってもとってもあまぁい──レモンの、味がした。
「……行ってらっしゃい!」
離れる。眩しい。顔が熱い。
心臓は破裂しそうで、頭が回らない。
嬉しさと寂しさ。なによりも、名残惜しい。
そして、彼はこんなときもずるい。
「……お返し、してもいいですよね?」
──彼の方からやってきた、レモンの味。
「……行ってきます!」
彼はふわりとほほ笑んで、朝の空気の中を走って行きました。
20170115 誤字修正




