拳闘士と手焼きせんべい
オレは時々思うことがある。意外な事ってのは、意外な時に意外なやつが意外な形で持ち込んでくるものだと。
絵に描いたような王子様が、女に囲まれているのはわかる。むさくるしいおっさんたちが、安酒場で安い酒をちびちび飲んでいるってのもわかる。きゃぴきゃぴしている女たちが、流行りのアクセサリーなんかを求めて買い物を楽しんでいるってのもわかる。
「むぅー……っ!」
「あらら、あーくん。いいんですか? おねーさん、ものすごくむくれていますけど」
「あーくん言うな。……それにいいんだ。こっちのほうが静かだし。こないだだって、こいつがうるさかったせいでこの店にも迷惑をかけてしまったしな」
だがしかし、あの偏屈で神経質でかなりのナルシストが入っているアルが、まるで保護者かのように振る舞っているのはどういうことだ?
~♪
今、この喫茶店──《スウィートドリームファクトリー》にいるのはオレを含めて五人。ちみっこ、じいさんに、この偏屈学者のアル、そしてアルの連れだという、体つきはそこそこのくせに妙に子供っぽいノーノとか言う女だ。
比較的ゆったりした服を着ているからわかりづらいが、肩幅ははっきり言ってアルよりもある。豪快にされた腕まくりによってさらけ出している腕は、程よく筋肉がついていた。
筋トレとかでつけたって感じじゃあねえ。どっちかっていうと日常の中で自然とついたって感じだ。女では珍しいとはいえ、こういう筋肉ってのは職人やその類の人間についていることが多い。拳闘士のオレが言うんだから間違いない。
~♪
「ずるぅい……! ずるいよお……!」
ノーノは机に突っ伏したまま呟いた。前に座るアルを恨めしそうに見上げ、よくぞまあこんなに丸くできるもんだと感心するばかりに口を膨らませている。これがちみっこだったら、すぐさまオレはそれを鷲掴みにしてからかっていたことだろう。
「おいアル。いったいどうして、こいつはこんなに機嫌が悪いんだ?」
「ふむ……そういえばでっかいのはノーノと会うのは初めてだったか。見ての通り、こいつは驚くほど好奇心旺盛なやつなんだが、例の祭りに行けなかったからな」
なるほど、言われてみれば、さっきからこの女はむくれながらもずっと例の音の箱──オルゴールを弄繰り回している。さすがにバラしたりはしてないが、動く姿を夢中になって眺めていた。たぶん、アルが睨みを利かせていなければ、目を輝かせてバラしていただろう。
「おまけにさぁ……こんなステキなおじーちゃんのことも内緒にしているし……」
「別に内緒にしていたつもりはないんだけどねェ」
「聞かれなかったから言わなかっただけだ」
オレの武術の師匠でもあるじいさんは、よくわからんけどものすごく賢い人らしい。あの偏屈なアルが認めるほどに様々な知識を有しているらしく、学者と発明家のこの二人にとってはめちゃくちゃ尊敬できる人物なんだとか。
「マスターも知識はあるんだろ?」
「マスターは全然ですよ。今日もひいこら言いながら宿題を片付けています。あーんなに面白いのに、どうして今まで手を付けていなかったのか、あたし、不思議でしょうがないです」
「もう! もう! ボクも科学のお話聞きたいよ!」
ちみっこの言葉を聞いてさらにノーノがむくれる。好き好んで面倒なことを知りたがる奴って何考えているんだろうな。オレには一生かかっても理解できそうにない。
「でっかいの。素晴らしいことを教えてやる。これでも今日のこいつはおとなしい方だ。いつもはこの十倍はうるさい」
「へえ」
気分がいいのか、アルは眉間の皺をいくらか緩めて”くっきー”を齧る。右手にはペン──こないだじいさんからもらったものらしい──を持ち、魔法陣が描かれた紙に何やら難しいことを細々と書き加えていた。
ゆったりと流れる時間。外に比べていくらか涼しい室内。甘い香りと花の香り。そして、穏やかに響いていくオルゴールの綺麗な音色。
~♪
こういう昼下がりってのも、悪かねえ。
「アルよぉ」
「どうした?」
「面倒だ──なんて言ってる割には、こいつをここまで連れてきたんだな?」
「……失敗だったよ、本当に」
なんでも、アルはノーノに借りがあったらしい。だから、せめて気分だけでも味合わせてやろうと土産に例の”りんごあめ”と”わたあめ”を持って行ってやったそうだ。
「ほら、あの日は夜は武道場で雑魚寝して、朝方にみんなで帰っただろう? ちょうど帰路の途中にこいつの工房があるんだが、たまたまこいつは夜通し作業していてな。見つかってしまったんだ」
「ホントにびっくりしたよー……。今まで朝帰りなんてしたことのないあーくんが、すっごく面白そうなものを両手に歩いてるんだもん……」
「そのときはまあ、土産でごまかすことができたんだ。こいつもフラフラだったし。ただ、冷静になったところですごく問い詰められて、ここに連れてこざるを得なくなった」
ただし、とアルは続ける。
「祭りのことは一切伏せた。ちょっと新作のお菓子のお披露目会をしただけだと言ってな。僕が言うのもなんだが、あそこに行ったことがこいつにバレたら大変なことになる」
「自覚あったんだな、お前」
「……ともかく、爺さんに頼んで”わたあめ”のカラクリだけでも実演してもらえれば満足だろうと思っていたんだ。なのに、あれだ」
アルがペンの先でカウンターの端の方を指す。そこには、この空間に溶け込みながらも、こないだまでは見られなかった新しいインテリアが置かれていた。
「コルクボード、か」
コルクボード。ギルドで依頼とかを張り付けてあるアレだ。物そのものには特別珍しいところはない。どこにでもあるような大きさの、どこにでもあるようなコルクボードだ。
ただし、そこに張られているものはちょっと違う。見慣れた依頼書や、安酒場でよくある様なお品書きなんかでもねえ。賞金首の手配書でもなければ、耳寄りなお得情報でもない。
「良く撮れてんな。エリィか?」
「私が撮ったのもいくつかあるさね。せっかくの思い出なんだ、こうしてみんなが見られるところに飾ったほうが良いだろう?」
そこに張り付けてあるのは例のカメラとか言う魔道具で撮った写真ってやつだ。綺麗に着飾った女たちを写したものもあれば、あの幻想的な明かりを写した風景画の様なものもある。もちろん、うまそうな食べ物だって写っているし、いつの間に撮ったのか、オレが腕相撲大会で活躍しているものもあった。
「ずるぅい……! 本当にずるいよお……!」
「あー、おねーさんがこれを見たのなら、興味を持っちゃいますもんね」
「すまんねェ。まだ連れていくのには時期尚早だと思ったんだよ。来年には誘うから、機嫌を直してもらえるとうれしい」
せっかくなので、何枚か剥がして机の上に広げてみる。どいつもこいつもいい出来で、芸術なんかに疎い俺でも良く撮れていることがはっきりとわかった。その数は四十は下らないだろう。
しかしまあ、本当にたくさんある。エリオとハンナが手をつないでいるところもあれば、ちみっこがレイクと一緒に”わたあめ”を喰っているところもある。こっちのは……あの歌比べのやつだろうか。リュリュがこれだけの人数の前に出るなんて珍しいな。
「ねぇねぇねぇ! あの写真にある”わたあめ”のカラクリってどうなってるの!? それにあそこにも置いてある、あのきれいなお魚は何!? シカの子が構えているこの道具ってどういう仕組みしてるの!?」
「……」
「ううん、そもそもこの写真ってどうやって作るの!? 魔法じゃないよね! でも、こんなカラクリ原理すら想像できないよ! ねぇ、そこのところどうなの!?」
「……な? 一度火が付くともうずっとこれだ」
「ねぇねぇあーくん、ねぇってば!」
「うるさい!」
ごちん、と大きな音がした。石頭なのか、アルのほうまで手をさすっている。
「あーくん、女の人に手を上げちゃダメですよー」
「そうだよ! 暴力反対!」
「ならばさっさとその口を閉じろ。これ以上僕の研究の邪魔をするな。それにシャリィ。僕の知っている『女の人』というのは、もっと慎ましやかで大人っぽい……少なくともこんなワガママを言ったりするような存在じゃない」
普段はワガママばかりで神経質なお前が何を言うのか、と思わず口に出しそうになる。もしかしてこいつは、自分より子供っぽいやつがいるときだけ有能になるのだろうか。そっくり同じ言葉を、普段のアルに聞かせてやりてえもんだ。
「まぁまぁ。用意できるものなら後で準備するさね。……それよりバルダス。お前、注文はどうするんだい?」
じいさんがにこにこと笑いながら聞いてきた。言われてみれば、まだ俺はいつものしか注文していない。
「そうさな……」
考える。この暑さのせいか、甘ったるいモンって気分じゃない。かといって、がっつり食べたいって感じでもない。酒を頼む──そもそもあるのかわからねえけど──にはまだ早すぎるし、かといって何も頼まないってのは物足りねえ。
「……お?」
ふと、写真の中に一枚、面白いものを見つけた。
エリィが撮ったのだろうか、子供に囲まれながら仕事をしていじいさんの写真だ。にこにこと笑いながら何かを語り掛け、そいつを手渡している。じいさんの人とナリがすべて表されているような、よく出来た光景だと思う。
「オレ、こいつ喰い損ねたんだよな」
「なにこれ!? すっごく気になる!」
「なんだ? ……ああ、確かにこれは僕も食べ損ねた。気にはなっていたんだがな」
「じゃ、決まりですね! じいじ、早速準備しましょう!」
「……ふむ、こいつか。しまったばっかりだったんだが、引っ張り出してこなきゃいけないねェ……」
~♪~♪~♪♪~──......
「はいよ、お待たせ」
そして、オルゴールの音色が途切れるころ。何やらじいさんが金網と壺のようなもの、さらには焼く前のパンの生地の様なものを持ってきた。妙に生っ白い、アルの手の平くらいの大きさの、薄くて丸いなにかだ。
分かってはいたが、いつもの心躍る様な甘い香りはしねえ。それどころか、器用に持った小さな壺からは、思わず腹が鳴りそうになるような、甘辛い……いや、香ばしい……よくわからんけど、食欲を刺激する香りがあふれてくる。
間違いない。今日のこいつは、甘くない。
「シャリィ、窓を開けておくれ」
「がってんです!」
がらら、とちみっこが窓を開ける。生ぬるい空気が入ってきた。しかし、それが気にならないほどに、今の俺たちは目の前のそれに集中していた。
「まずは火をつけて……」
じいさんは壺の中に炭を入れ、火をつける。さすがと言うべきか、いつやったのかわからないくらいに鮮やかな腕。さらに、仕上げとばかりにその上に意味ありげに金網を乗せた。
「大きさはどうするね? 食べやすく小さいのにするか、祭りのときみたいに大きくするか」
「おっきいの!」
もちろんそうだ。何が悲しくて小さなものをちまちま食べなきゃならんと言うのか。その点、このノーノってやつはよくわかっていると思う。
じいさんはにっこりと笑うと、そのパン生地のようなものを薄くのばし、金網の上に置いた。確認するまでもねえけど、焼くつもりなんだろう。むしろ、これで焼かないって言われる方が困る。
「……」
「……」
「……」
「まぁ、あとはぼちぼちと待てばいいさ」
問題なのは、それ以外の行動をしなかったところだ。
いや、確かに屋台で出すようなものだから手間が掛かるものとは思えねえけどさ、それにしたってあっさりしすぎじゃねえか? 材料持ってきて焼くだけって、もしかして今までで一番簡単なお菓子だったりするのか?
「……」
時間だけがじりじりと過ぎていく。そして、ほんの少しずつそれに変化が現れた。
「……お」
じり、じりと何かが焼ける音に、わずかにちり、ぴきと硬質な音が混じる。耳を澄ませて、ようやっとわかるかどうかってくらいの小さな音だ。エルフであるリュリュなら一発で聞き分けられるだろうが、そうでもなければ言われたって気づかないかもしれない。
「あ、焼けてきた」
「良い匂いだねぇ……!」
ふちのほうが反り上がった。うっすらと焼き目がついている。白い見た目が全体的に黄色っぽくなってきたというか、『焼けてきたぞ!』って感じの色合いになりつつある。よくよく見ればわずかに膨らんでもいるようで、焼き始めたときに比べていくらか大きくなっている。
さらにいえば、香ばしいような、どこか懐かしいような、そんな何とも言えない香りが火の匂いと混じってふわりと広がっていく。そいつは決してこの場に似合うような甘い香りじゃねえんだが、不思議と違和感はない。
「ねぇねぇおじーちゃん、まだかなぁ?」
「まだまだ。焦っちゃあいけないよ」
ぴき、ぴきと言う小さな音が、多く、大きくなってきた。じいさんは余裕ぶってその様子を見守っていて、ちっともそいつを裏返そうとはしない。素人のオレからみても、そろそろ裏返さないと焦げちまうんじゃねえかって思えるのに、頑なに動こうとしない。
「おい、本当に良いのか!?」
「なんだ、意外とせっかちなんだねェ?」
ここでようやくじいさんが動く。長い二本の棒を巧みに使い、そいつをひっくり返した。からり、ころりと乾いたいい音が響く。やっぱり結構硬くなっているようで、見た目もどこぞの水気の無い山肌のようにカサカサした感じになっていた。さっきと比べてもいくぶん反り上がったそいつの表面には、ぽこりと浮き出た──温めているシチューに浮かんだ泡のようなふくらみがいくつかできている。
なんとも不思議なことに、いつのまにやらふくらみには食欲をそそる様な薄茶色の焦げ目がついていた。
「で、こいつを押し付ける……っと」
いつのまにやら用意していた手のひらサイズの鉄板みたいなもので、じいさんはそれをぎゅっと押した。反り上がっていたそれがまっすぐになり、ピンと伸びる。
なんだろうな、うまく言えねえけど、引き締まったというか、キリッとした感じになったな。
「うわぁ! なんかちょっと大きくなった!?」
「……明らかに大きくなりすぎていないか?」
「学者のおにーさん、それにおねーさん。細かいことは気にしちゃダメですよ? じいじのやることですから!」
すぐさまひっくり返されたそれは、明らかに先程よりもデカくなっていた。うまそうな焦げ目がたくさんついていたり、全体的にキツネ色になっていよいよ我慢ならなくなってきたりもしたが、とにもかくにもそのインパクトが凄まじい。
からり、ころりといい音が響く。もう、ほとんど焼ける音はしなかった。
「この押さえつけるのにもちょいとコツがあってね。タイミングがずれると割れちまうんだ。どうせならピンとしたかっこいいのを食べたいだろう?」
腹に入ればなんでも同じ……と、この喫茶店を知る前のオレなら答えただろう。だが、今はその考えこそが重要だということを知っている。
「さぁて、仕上げだ。このしょうゆベースの秘伝のたれを塗って……」
そして、とうとうそれがやってきた。じいさんは例の壺の中身を刷毛を使ってそいつに塗っていく。ササッと素早く、丁寧に何度も、だ。まるで何十年もそれを繰り返してきたかのように動作は流麗で、こんなオレでも思わず見惚れてしまうほど……まさに老練の技術ってのがそこにあった。
「おお……! おじーちゃんすごい……!」
「なぁに、昔取った杵柄ってやつだ。最後にもうちょっと炙れば完成だよ」
甘辛い、香ばしい匂いがグンと強くなる。思わず腹が鳴りそうになる、強い香りだ。そいつは炭火にじりじりと焼かれて、火の匂いと混じりあい、より深く、魅力的な、本能を刺激する香りになっていく。
「……よし、こんなもんだろう」
じいさんがにっこり笑ってそいつを手渡してきた。ちみっこの頭くらいの大きさはあるだろう、一枚の最高にうまそうな焦げ茶色の満月だ。
「こいつが《手焼きせんべい》だ。熱いから気を付けて食べるさね」
うまそうなそいつがオレの手の中にある。まさに焼きたてほやほやで、指先から感じる熱さと鼻に感じる焦げの匂いが堪らない。
思った通り、なかなかに硬い。木の板か何かを触ってるんじゃないかって思えるくらいだ。ここで出てくる食べ物はだいたいが柔らかいものだが、こいつはひょっとしたら俺の知っている食い物の中で二番目に……いや、一番硬いものだろう。
『死ぬ気になったら喰えないこともないもの』と言う範疇なら携帯食料があるが、アレは決して食い物じゃない。
「ほお、今日はすごくシンプルだな。それにけっこう食べやすそうだ。こういうの、嫌いじゃないぞ」
「おにーさん、片手で食べられるものが好きですもんね」
アルの言う通り、見た目はまぁ、華やかではない。文字通り、茶色く焼けた硬質な円盤ってかんじだ。マジでそうとしか言いようがない。厚さもせいぜいがオレの小指くらいってところか? 見るからに硬そうで、落ち着いたというか、渋いというか、上品というか……ああ、なんとなくだが、職人の頑固ジジイみたいな印象を受けるな。
この独特の雰囲気を見るに、たぶんこいつは和菓子って分類になるんだろう。最近ようやっと、この喫茶店で出るものの種類(?)の区別がつくようになってきた。
「おい、俺が注文したんだし、先に食っちまってもいいよな? さすがに冷めたのを食う気はねえぞ?」
一つだけ難点を上げるとすれば、一枚を焼くのにいくらか時間がかかることだろう。何枚も一気に食べるってのには向かねえな。
「なぁに、その心配はいらないよ」
「「な゛っ……!?」」
が、オレのその考えはすぐにぶっ壊された。
「おい、爺さん!? なんで、なんで既にもう二枚焼けているッ!? 僕が見る限り、さっきまでその上には何もなかったはずだぞ!?」
「魔力の気配も、カラクリを使った形跡も、何もなかった!? ねぇねぇおじーちゃん、今のどうやったの!?」
いつのまにやら、金網の上に二枚の”てやきせんべい”──アルとノーノのそれが置かれていた。しかも、すでにこんがりと焼き上がっており、オレの手の中にあるそれと同じように良い匂いをまき散らしている。
「さっきも言ったじゃないですか。この人、じいじですよ? 物事をちょっぱやで進めることくらい、わけないんですよ」
「シャリィちゃん? それ、すっごくおかしいよ!?」
「そりゃあ、あたしだってそうだとは思いますけど……。じいじ、初めて会った時から不思議なんですもん。あたしはもう気にしないで受け入れることにしました。考えるだけ疲れますよ」
「不思議を通り越して化け物……いや、怪異のそれに等しいな」
「たかだかせんべいを焼いただけで、ずいぶんと酷い言いぐさだねェ……」
ともあれ、手の中の宝物のことを考えると、そんなことなんてどうでもよくなってくる。今はただ、こいつにかじりつくことだけを考えればいい。それこそが、食べる側としての礼儀ってもんだろ?
「それじゃ、さっそく──」
これでもかというくらい、口を開けてやった。
そして、思いっきりかじりついた。
ガツンとした歯ごたえ。
ガリッ、ボリッと心地の良い音。
鼻に抜けていく香ばしい香り。
「──うめえ」
「そいつぁよかった」
耳に響く音が大きくて、何を言っているのかさっぱり聞こえなかった。
まず確認しておこう。この”てやきせんべい”ってのは、今までここで食ってきた菓子とはあらゆる意味で対極にある食い物だ。
まず、硬い。すっげぇ硬い。とんでもなく硬い。これでもかってくらい硬い。
「ん、けっこう硬いな。悪くはないが、ちょっとびっくりしたぞ」
アルがパラパラと破片を紙の上にこぼしながら顎を動かしている。今までさんざん柔らかいものを喰ってきただけに、その驚きも一入だ。
舌先に触れるさらざらとした感触通り、こいつは硬い。顎を思いっきり使ってようやくかみ砕くことができる。硬いっつっても鉄みたいにガチガチじゃなくて、脆い樹みたいな、ともかく砕けやすい硬さだ。
それが生み出す歯ごたえが凄まじい。物を喰ってるぞ! って気分になる。砕けた瞬間の心地よさというか、ある種の快感は、食ったやつにしかわからないだろう。
何より、かみ砕いたときの音だ。バリボリと響くワイルドな音だ。決して上品じゃあないんだろうが、男なら誰もが持っている野生の本能みたいのを刺激してきやがる。単純なのに聞いていて心地が良い。
「ひょ、ひょっとこのかてゃさはおろりょき……!」
砕けた破片、これがまたうまい。つーか、おもしろい。
粉々になったそいつは、下手したら口の中を切っちまうんじゃないかってくらいに鋭い上に、あっという間に口のあちこちに潜り込んでいくんだが、同時にその甘じょっぱいのを広げていってくれるんだよな。知らず知らずのうちにつばがわいて、止まらなくなるんだよ。
で、この何とも言えない甘じょっぱさに慣れるころ、小さくなったそいつらがだいぶふやけて飲み込みやすくなるってわけだ。
もちろん、硬いまま飲み込むのも楽しい。喉を通っていく瞬間がはっきりわかる。この感覚、嫌いじゃねえ。
「うまいにはうまいが、少々顎が疲れるな」
「ばっか、それがいいんじゃねえか」
味そのものはシンプルだ。秘伝のたれの甘じょっぱさと、この硬いの──おそらくは”せんべい”ってやつだろう──に含まれているほんのわずかな塩味。焼き物特有の火の味が混じり、口の中の注目を全部奪っていくかのような強烈な印象を与えてくる。
ともすればすぐに飽きが来るとも思える、ある意味子供っぽい味付けなのに、全然そんなことはねえ。一口、二口と食べると、なぜだかまだまだ食べたくなる。どんどんどんどん喉が渇いて、やめたくてもやめられないくらい惹きつけられちまう。
ぐびりと水を飲む。最近良い水を使っているのか、それとも”てやきせんべい”のおかげなのか、夏の暑い時期と言うことを差し引いても、めちゃくちゃうまく感じた。
その次の一口のうまさといったら、オレの言葉じゃ語りつくせないだろう。
「止めらんねえな、おい!」
今までのお菓子にはない、この顎を使っているという感覚。バリバリと貪る快感。でっかく口を開け、パキリと割ったそいつをかみ砕く幸福。香ばしくも甘い、不思議な味が全身を貫いていく素晴らしさ。
間違いねえ。こいつは男の食い物だ。
「おねーさん、大丈夫ですか? お口のなか、切っちゃったりしてませんか?」
「だいひょーぶ! おくちのなきゃでなめてかりゃたべるといいかんじ!」
……おい、この女今なんつった?
「ふむ……。なるほど、聊か行儀が悪いと思えなくもないが、口の中で噛まずに舐め続けるのもいいな。しばらく楽しめるし、なにより柔らかくなって食べやすい」
……おい、この男今なんつった?
この”てやきせんべい”ってのは、思いっきりかみ砕いてこそだろ!? そんな邪道なやり方、許されるはずがねえだろ!?
「おい、じいさん?」
「まぁ、人それぞれではあるが……。私はうんと硬いのが好きだねェ」
やっぱりじいさんはわかっている。さすがはオレの師匠だ。断言したっていいが、この”てやきせんべい”は硬さこそが命だ。この歯ごたえと噛み応え、そしてバリボリという音が出なければ、こいつの魅力の半分も味わえねえだろうな。
「ちなみに、焼き加減によっても硬さは変わる。その辺はお好み……作る人間の腕の見せ所ってわけさ」
いつのまにやらじいさんが焼き上げたそれは、どことなくオレたちが喰っているそれと違う。うまく言葉じゃ言えねえけど、存在感が段違いだ。
まんまるのそれを当たり前のようにパキリと半分に砕き、片方をちみっこへ、もう片方を自分の口元へと持っていく。
「うん、うまい」
バキッ、ボキッと、およそ食べ物を食べているとは思えない音を立てながら、じいさんはそれに食らいつく。ガリガリ、ゴリゴリという音は思った以上に大きく、オレの耳にまでしっかり届いた。二重の意味で、顎はそいつをかみしめるように大きくしっかりと動いていて、見ているだけでなんかすげえって感想が出てくる。
ガリガリ、バリボリ。魔物が獲物の骨を砕いて食べる時も、こんな感じの音がする。
「お、おじーちゃん……」
「どうしたね?」
ノーノが、恐る恐る聞いた。
「歯、丈夫なんだね」
「……」
どこからどう見てもジジイなじいさんがこれだけ硬いものを当たり前のように食っている。気にならないほうがおかしい。少なくとも、オレの知っている一般的なジジイだったら、たぶん一口目で顎が外れ、運が良くても歯が欠ける。
毎回思うけど、じいさんって見た目の割りには変なところで若いよな。
「おねーさん、じいじを普通と思っちゃいけませんよ。あたし、じいじ好みのおせんべいって本当に歯が立ちませんもん」
むむむ、とちみっこが唸っている。何をしているのかと思えば、半分に割られたそいつをさらに手で砕いて食べやすくしようと試みているようだ。
が、いかんせん硬すぎるのか、”せんべい”はピクリとも動かない。……じいさんは最初どうやってこいつを半分に割ったのだろうか?
「おい、ちょっと貸してみろ」
オレは拳闘士だ。指の力には自信がある。
「ぬぅ……っ!」
だのに、砕けない。手のひらサイズのそれが、砕けない。
いや、砕こうと思えば砕けるはずだ。ただ、力任せにやったら文字通り粉々になっちまう。綺麗に、食べやすい大きさに砕こうと思うと、こいつはなかなか難しいんじゃないか?
「そんなに硬いのか、それ」
「ああ。オレたちが喰ってるのとは段違いだ。マジで歯が欠けかねねえぞ」
「ねぇねぇ、ノミと槌ならあるけど、使う?」
冗談抜きに、きちんと割るとしたら道具が必要になるだろう……そう思えるほどの硬さだ。
「何を大げさな……。ほれ、貸してみなさい」
が、じいさんはぺろりとそいつを平らげ、オレの手から”せんべい”を受け取る。そして、何気ない動作で──特に意識も何もせず、ごくごく普通にパキッとそいつを割って見せた。それも、どれもが一口大になった、食べやすい理想的な大きさだ。
「ほい、口開けな」
「あーん♪」
ちみっこが大きく開けた口に、じいさんはそいつを放り込んだ。放り込まれたちみっこは、ほっぺをコロコロと膨らませ、同じくらいにころころと笑いながら、その幸せをかみしめている。
「やっぱり、飴みたいに舐めるのがあたしは好きですよ。こーんなにおいしいのに、すぐに食べちゃうってなんかもったいないじゃないですか」
「……」
「それに、あたしのお口、小さいですし? むきむきのおじさんみたいに大きなお口を開けてかじりつくなんてそんなはしたない真似、出来ませんよ!」
「おい、さっきデカい口開けて食べさせてもらってたじゃねえか」
「気のせいですよ♪」
今ならなんとなくわかる。たぶんこいつ、”せんべい”を割るのが致命的にヘタクソなんだろう。さっきのじいさんとのやり取りも妙に手馴れていたし、これが初めてってわけでもないはずだ。
その証拠に、だ。試行錯誤の跡なのか、こいつの前だけ妙にポロポロと破片が落ちている。
「この子は毎回食べるときにボロボロとこぼしちゃってねェ……。しかも一番最初に食べたとき、勢いよく食らいついたせいで顎を痛めたという過去があるんだよ……」
「ああっ! じいじ! なんで言っちゃうんですか!」
「飴みたいに食べるの、実はまた顎を痛めるのが怖いだけだろう? 割るのだって、毎回力を入れ過ぎてボロボロにしちまうじゃないか。否定はしないが、邪道は邪道。ちゃんと本当の理由を言わないとねェ?」
「んもう! んもう!」
ちみっこは真っ赤になってじいさんの背中を叩いていた。どんだけ硬いのを喰ったんだか……と思ってそいつの欠片を貰ったら、マジでびっくりするくらい硬かった。勢いよく噛みついたら顎を痛めるのもうなずける。
「ううう……じいじがいじめるんですよぉ……!」
「わかるよ……! わかるよその気持ち……! ボクも最近あーくんにいじめられるんだよ……!」
「奢ってやるんだから黙って食え」
女二人が小芝居を始めた。話題に上がったアルはけだるげに顎を動かし、そう言った後は完全無視を決め込んだ。紙をひっつかんでパラパラと細かいクズを払い落とし、ほんの一口だけ残った”せんべい”を口に放り込む。
どうやら、こいつも最後の一口は噛まずに舐めるらしい。軟弱なやつだと思う。
見せつけるように、手元に残った最後の一口を思いっきりかみ砕く。いい音が響き、同時に香ばしい香りが口の中でより一層強くなった。
この、何とも言えない達成感が最高だ。微妙に疲れた顎がその現実を突きつけてくる。強い魔物と戦って勝利したかのような、ちょっと気晴らしに行ったジョギングから帰ってきたかのような、そんな心地よい疲労感だ。
やっぱり、こうじゃないとならない。そして、こいつを楽しむというのなら、一枚だけじゃ絶対に足りない。
「おいじいさん。追加の焼いてくれよ。今度はもうちょい硬めで。できれば違う種類の味もあるといい……あるんだろ?」
「まぁね。……そうだ、せっかくだから自分で焼いてみないかい?」
「いいの!? やる! やりたい!」
「あっ! あたしもやらせてくださいよ! 可愛い形のを作りたいんです!」
わいわいがやがやと、穏やかな時間が過ぎていく。”せんべい”作りに夢中になっているものもいれば、自分の研究に没頭しているやつもいる。オレみたいに喰うことしか考えていないやつもいれば、にこにこと笑いながら、孫を見つめるかのようにその二人を見守っている老人もいる。
硬くて甘じょっぱい、いつもと違う菓子だったが、この暖かな空気だけは変わらない。そして、これこそが全ての菓子に共通する、菓子のすげえところなんだと思う。
「ああっ! 割れちゃった!」
「シャリィ、ちょいと強く押し過ぎだ」
「ねぇねぇ、あーくん! ちゃんと焼けたよ!」
「……裏、よく見てみろ。真っ黒焦げだ」
「ええええっ!?」
「ふん。僕のをよく見てみろ。この程よい焦げを。まったく、研究しながらでもこれほどの成果を出してしまう自分が本当に恐ろしい。……よし、でっかいの。特別に、この僕が直々に焼いたこいつを食わせてやる。光栄に思え」
「お前もなんだかんだでノリノリじゃねえか……うぁっ!?」
「どうした、うますぎて言葉が出ないのか?」
「……生焼けじゃねえか! 本当にちゃんと見てたのか!?」
「なんだとっ!?」
「はっはっは。修行が足りないねェ?」
みんなで焼いた”てやきせんべい”は、いろんな意味でボロボロだった。やっぱ慣れないことはするもんじゃねえや。
【おせんべ】派ですか? 【せんべい】派ですか? 私は普段や可愛さをアピールしたいときは【おせんべ】ですが、上に手焼きと言う言葉をつけるなら【せんべい】を使いますね。
もちろん、これにも個人のジャスティスがあるかと思われます。私はやっぱり顎を痛めるくらいに硬いのが好きです。しょうゆベースの甘辛い味付けで、海苔があるのも好きですが、どちらかを選べと言うのなら無いほうをとります。
……なんだかんだで、いわゆるサラダせんべいも好きです。あれ、気づくと開けたばかりなのになくなっちゃいますよね。
さて、ちょっと思い出話でも。
小さいころ、家族でとある有名なクリスマスツリーを見に某ダムへと行きました。当然、観光客をターゲットにした屋台なんかが広がっているんですけど、そこで手焼きせんべいの屋台を見つけたのです。
すごく寒い日だったのを覚えているのですが、寒さにも負けず、おじさん(お兄さん?)はにっこり笑ってせんべいを焼きまくっていまして、形が歪なやつを試食させてくれました。ほんの一口だけでしたけど、とってもおいしかったです。
当然、母上におねだりしました。小さな破片じゃなくて、大きくて完璧なおせんべいを食べたくなった……目の前で自分のを焼いてほしいって思ったのですよ。で、屋台のおじさんが私たちに見せつけるように、サービス精神たっぷりに焼いてくれたのをなんとなく覚えています。
私がまだ子供だったということもあるのですが、その出来上がったそのおせんべいは顔よりも大きく、普段食べていたおせんべいと決定的な何かが違って(そもそもおせんべいを焼いているのも初めて見ました)、なんかすっげぇ! って感動しましたね。触ると熱いおせんべいって、初めてだったんですよ。
で、そのおせんべい、すっごく硬かったんです。思いっきりかじりついて涙目になりました。母上も屋台のおじさんも笑っていました。
書くまでもないですが、はんぶんこした上でちょっとずつ砕き、ちゅうちゅうしてふやかして食べましたとさ。
今となっては、ちょっともったいない事をしたと思っています。やっぱりかみ砕いてこそのジャスティスですし。久しぶりに行きたいんですけど、時間もないし冬場は混むんだよなぁ……。
最後に。
あなたのおせんべいのジャスティスを語ってください。味、大きさ、海苔の有無、硬さ、ふやかすか否か、ふやかすのだとしたらお湯かお茶か、夏の暑い日に食べるのが最高なのか、いやいや、冬の寒い日に食べることこそ究極なのか……語れることはいっぱいあるはずですよ?




