学者とエクレア
右手に荷物を、左手に魔本をもっていつもの森の道を進む。この近場の森はあいかわらず人気が少なく、こないだガッコウの連中が騒いでいたのが嘘かのように静かだった。
時折聞こえる魔物の咆哮と葉擦れの音。自然が奏でるミュージックが僕の心を落ち着けさせ、研究活動をよりよいものとしてくれる。
この森の奥にある喫茶店は落ち着いた空間や甘いお菓子、さらには画期的なるアイデアも提供してくれる場所だ。僕のように理論研究を基盤とする研究職にとってはまさに至れり尽くせりの環境であり、わざわざ古都から少し歩かなきゃならないのも苦痛に思わないほどに素晴らしい所なのだ。
「はぁ……」
だというのに、今日は気分が重い。片手の荷物も実際以上に重く感じられ、同時に足取りも悪くなる。
今までにこんな気分であそこへ向かったことがあっただろうか。しいて言えば、初めて迷い込んだ時だろう。
あのときは魔法陣の研究がうまくいかずにイライラしていたはずだ。今日はその魔法陣も完成し、魔本に仕立て上げ、さらにはいつぞやのエリオの小手の魔道具すら完成させた状態で来ている。
いわば、ルンルン気分でスキップをしていたっておかしくないくらいにめでたい状況なのであり、こんなどんよりとした気分でとぼとぼと歩くのは客観的に見てひどく合理性に欠ける行為だったりする。
カランカラン
「邪魔するぞ、マスター……」
されど涼やかなベルはいつも通りに森に響き渡り、この店のマスターと給仕に僕の来訪を告げる。
ああ、本当にこのベルはいつも通りだ。いつも通りの毎日が続くことを僕たちは無意識に確信しているが、それがどれだけ儚く、同時に尊いことであったのか、僕は今日の出かけになって学んだ──否、学んでしまった。
「やぁ、いらっしゃい。《スウィートドリームファクトリー》へようこ──!?」
「ねぇねぇねぇ! ここなに!? ここなんなの!? ねぇ、ねぇってば!!」
僕の後ろから飛び出た一つの影。その迸る好奇心をむき出しにし、きゃあきゃあ声をあげながら部屋の隅々までちょろちょろと見て回り、そして目をこれでもかというほどキラキラさせていた。
「すごい! こんな透明度の高いガラスなんてはじめて! しかも全部色がついている!? ねぇ、あの奥にあるのはなに!? ねぇ、なんでここにはこんなにボクの見たことがないのがたくさんあるの!?」
──だから、連れて来たくなかったんだ。
これじゃ、僕の平穏が崩壊するのは自明であり、そして一度味を占めたこいつは、こっちの都合なんておかまいなしに二度、三度とその要求を突き付けてくることだろう。
「お、お、おにーさん……!?」
「ねぇねぇねぇ! あーくん、離してよ! ボク、まだまだ全然見られてないよ! ねぇねぇ、ねぇってば! あーくん、あーくん!」
ほらみろ、シャリィだって目をぱちくりしながら僕を見ているじゃないか。
……いや、正確には僕に捕まえられてもがくこいつと僕とをじろじろと見ているようだ。
相変わらず、こいつには落ち着きがない。僕がこうして首根っこをつかんで止めるのだって、もう何度目だろうか。
「あのおにーさんが……彼女さん連れてきたっ!?」
「非常に重大な勘違いであることをこの場で宣言する」
「ねぇねぇあーくん! ねぇねぇ、ねぇってば!」
「なるほど、同僚の方ですか……」
「正確には違う……が、同じ研究職の人間として協力関係にあるのは確かだ」
「なんだ、つまらない。てっきりそういう仲だと思ったじゃないですかー」
「ねぇねぇあーくん! すごいよ! グラスの先がはっきり見えるほど透明だよ!? それにここ、すっごく甘くて香ばしいにおいがするよ!?」
入口に突っ立っているわけにもいかなかったので、とりあえず僕はこのうるさく騒ぐ女──ノーノをひっつかんだまま席へとついた。なぜだか当たり前のようにシャリィまで席に着き、そしてノーノはマスターがことりと置いたグラスを見て、再び火がついたように騒ぎ出す。
「ねぇねぇあーくん、ねぇってば!」
「少しは静かにしろ。締め出すぞ」
「ぶー……」
ノーノは昔から好奇心が旺盛だった。なにかわからないことを見つけるたびに『ねぇねぇ』と大人たちを質問攻めにし、近所で一番博識だったオイラー爺さんをノイローゼにまで追い込んだ傑物だ。
なぜ棒で薪は割れないのに鉈なら割れるのかを確かめるために、自分の腕を切りつけて大けがをしたこともある。
空を飛ぶ鳥には羽がある、ならば羽さえあればヒトでも飛べるとトチ狂い、あらゆる鳥や魔物の羽を体中に引っ付けて屋根から飛び降りたこともある。
水に浮く木の実をたくさん食べれば水に浮けるかもしれないと信じ、それを検証するために吐く寸前まで木の実を丸呑みにした挙句、川で溺れて死にかけたこともある。
その伝説には枚挙にいとまがない。
「うわぁ……」
「行動力のある好奇心ってたちが悪いですよねぇ……」
「しかも、家が隣だったものだから毎回僕が面倒を見ることになっていた。自分で言うのもなんだが、昔から僕はしっかりしてたしな」
こいつの好奇心はとうとう落ち着きを見せることはなかった。僕が魔法陣に興味を持ち始めたころにはもうすでに村中のありとあらゆる道具を分解し、それを修理したり精密に組み上げたりすることができるようになっていた。流れの行商人が来ればまっさきに飛び出していき、僕が拳骨を落として引っ張っていかないかぎり夕餉の時間でも戻ろうとしなかった。
「それで結局、こいつはその好奇心を活かした道を進むことになった」
「アルさんと同じ、魔法陣の学者ですか?」
マスターはちらりとノーノの服を見る。
ノーノは厚手のチュニックもどきを来ているから今の僕の格好と似ていなくもない。
だがあいにく、これは余所行きの格好だ。普段は鍛冶屋の親父や職人のようなむさくるしい格好をしている。
「学者の端くれではあるが、分野はかなり違うな。どちらかというと鍛冶屋とか道具屋のそれに近い。発明家……が一番しっくりすると思う」
「工学系の女子ですね!」
「?」
よくわからんが、ともかくこいつはこれでも学者の端くれだ。主に新しい道具の開発や既存の道具の改良、効率の良い作成法や加工法なんかを専門としており、そこそこ広い研究室……というか工房も持っている。
「ねぇねぇ、シャリィちゃんのお洋服、どうやって作ったの? ボクにも教えてよー」
「あたし、服飾の製作まではわからないんですよ」
……いろんな分野に手を出しすぎていて、もはや何を専門としているかはこの僕ですら理解できていない。
「見ての通り騒がしくて研究の邪魔だから、本当は連れて来たくなかったんだ」
「でも、一緒にご来店されましたよね?」
「……出かけるときにつかまったんだ」
そう、あれは僕の一生のうちの最大の失敗と言っても過言ではない。出かける準備をしているとき、ふともらったオルゴールの音色を聞きたくなったんだ。そしてわずかに開いていた扉から漏れ出た音色をたまたまうちの前を通りかかったこいつが聞きつけてしまった。
「そうだよ! あのおるごーるってやつはなんなの? ボク、すっごい感動したよ! あんなからくりがあっただなんて! ねぇ、アレは君たちの誰かが作ったんでしょ? あんな精巧な部品を作れるのはこの古都にはいないし、あーくんはわざわざ他の都に足を運ぶなんて面倒なことしないもん!」
「と、この通りうるさく付きまとわれてきたわけだ。おかげで秘密にしていたここもばれてしまった」
さすがに弱いとはいえ魔獣の出る森に置き去りにするわけにはいかなかった。こいつは道具を扱うことに関しては一級品だが運動神経は恐ろしいほどに悪く、剣の一つも扱えない。手先は器用なくせに短剣も扱えない。ついでに、攻撃魔法は集中力がふらふらしすぎてまともに扱えない。
「おにーさん、その言い方はないですよー。なんだかんだで幼馴染のご近所さんしょ? 仲良くしないとダメですよ」
「そうなんだよ! あーくんってば、最近一人でどこか行っちゃうし、面白そうな研究も手伝わせてくれないし、こないだも三日くらい行方をくらましたんだよ? ねぇあーくん、そこんどこどうなの? ボクに黙ってずっとこんな素晴らしい場所に一人で遊びに来てたの? たまに甘くて香ばしいにおいがしたものを食べてたのはここでもらったやつなの? ボクに会うたびに目を白黒させて何かを飲み込んでいたのはそういうことなの? ねぇねぇ、ねぇってば!」
「ああもう、うるさい!」
ずずいと迫ってきたノーノの顔を押し戻す。子供のようにぱっちりとしたまん丸の目の、紫がかった瞳が僕を恨めしそうに見た。
顔立ちは幼く、濃紺のおさげも昔から変わらないというのに体だけは無駄に大人っぽく成長したため、暑苦しさが半端ない。
「魔法陣を絡めた小手、作るの協力したのにさぁ……」
「あらら、あーくん、それはひどいですよ」
「あーくん言うな」
たしかに、その辺は感謝している。魔法陣はともかく、小手を作るのは僕の専門ではなく、あの繊細な作業をこなせるのはノーノしかいなかった。故にこいつに頼むしかなかったわけだ。
うるさくて騒がしいし目の離せない奴ではあるが、その異常ともいえる好奇心に育てられた発想力と技術力は確かだ。僕はノーノ以上に融通が利き、いろんな場面に対応できる学者を知らない。
その点だけ見れば、惜しみない賞賛の拍手を送りたい。きちんと仕事を……いや、想像以上の仕事をしてくれたことにもこれ以上ないほどの感謝の念を伝えたい。
だからこそ、しょうがなく追い返さずにここに連れてきたんだ。ノーノはこれでも女だ。甘いものだって好きだろう。僕にだって、感謝の気持ちを伝えるくらいの心はある。
……ぜったい、教えてやらないが。
「僕はな、ここに魔本を納めに来たんだ。よろこべ、ようやく完成したぞ。その名も《クッキーシリーズ》だ」
「あーくん、ずっとかんばってたよねー」
以前食べた〝くっきーばらえてぃ”のデザインをそのまま魔法陣に流用して纏められたこの魔本は、既存の魔本とは大きく異なった魔法を生み出す、まさにこの世に他に類を見ない素晴らしい出来となっている。試し打ちをしていたときは、その初めて見る魔法の数々に心が震えたものだ。
「この本の最大の特徴は、あの雷の魔術が多くまとめられているということだ。はっきり言って、雷の魔術に関しては他の追随を許さない」
「おおお!? それ、すごいじゃないですか! 雷ってあたしもまだ使えませんよ!?」
「そんなにすごいんですか?」
「僕も使えん。使えないやつのほうが多い」
「たとえ使えても実用レベルの人はさらに一握りだからねー」
マスターはやはり魔法に疎い。この魔本の真の価値がわかった日には、おそらくノーノもびっくりするほどに驚きの声を上げるだろう。なんたって、この僕が作った魔本なのだから。
「ともかく、確かに渡したぞ。マスターでも魔力を通せば使えるさ。……ちゃんとじいさんと一緒に練習しろ」
「わ、わかりました。ところで、今日は何にします?」
「ふむ……。ノーノもいるし、マスターのとびっきりのやつにしてくれ。こないだの〝しゅーくりーむ”もいいな」
「でしたら、ちょうどいいのがありますよ」
いやに自信ありげに笑ったマスターは、その緑のバンダナの軌跡をノーノの目に焼き付けさせながら厨房へと戻った。
一瞬訪れた沈黙の後、ノーノが我に返ったかのように言葉を発する。
「ねぇあーくん、ここ何をする場所なの? 研究施設じゃないの?」
「そういえば言ってなかったな。ここは……甘いものを食べる場所だ」
「おねーさんが見たことも聞いたこともない奴ですよ!」
「──ッ!?」
賢い僕は、シャリィがそう言った瞬間に最悪の未来を想定しまった。
まず間違いなくその予想は当たってしまうだろう。なんたってこのノーノの習性を知り尽くしてしまっている僕の予想だ。
「どしたのー?」
「……いや」
こいつ、お菓子を食べたらもっとうるさくなるんじゃないか?
「お待たせしました。《エクレア》です」
さて、ぺちゃくちゃとこの店やその備品について答えていると、やがてマスターが微笑みながら厨房から戻ってきた。にわかに強くなった甘い香りにノーノはその口を止め、不思議そうに彼の手にあるものを見つめる。
「ねぇねぇマスター、これなぁに?」
「《エクレア》っていうお菓子ですよ。……ああ、お菓子っていても果物じゃなくて、甘い食べ物のことなんです」
「……へぇ」
ノーノが黙り込んだ。こいつは集中力が散漫なくせにこうしてときたま自分の世界に入り込むからわけがわからない。基本的にはいろんなものに興味を示して落ち着かないが、本当にごくまれに黙りこくってものをじっと見つめていることがある。
「なるほど、たしかに〝しゅーくりーむ”に似ているな」
「似ているっていうか、バリエーションの一つなんですよ!」
〝しゅーくりーむ”は拳のような球形であったが、〝えくれあ”は端の丸みかかった紡錘形をしている。〝しゅーくりーむ”の端っこをつかんで引っ張ったらこんな感じになるだろう。
あるいは短剣のグリップを少し太めにし、柔らかさを持たせたとでも表現するべきだろうか。ちょうど僕の手でうまく握れる程度の太さと長さであり、〝しゅーくりーむ”と同じく、その露出した小麦色の生地の部分は妙にかさついた見た目をしていながらも、ふわっと柔らかそうだ。
「ねぇねぇ、この茶色いのなぁに?」
「それはたしか……〝ちょこれーと”というやつだ」
「〝ちょこれーと”……。〝ちょこれーと”、ね」
〝しゅーくりーむ”との決定的な相違点と言えば、この上半分を覆う茶色い膜状のもの──〝ちょこれーと”があげられる。
引き込まれそうなほどの魅力的な深い茶色をしており、その表面はなぜだかてかてかつるつるとしていてかさついた生地とのコントラストが際立っている。窓から差す光をピカリと反射して、どこか芸術的な造形物のようにも見えた。
〝ちょこれーと”というのは粘性の非常に強い流体らしく、こうして物の表面を覆ったり、うまく整えて飲み物にしたりするらしい。僕はまだ食べたことがないが、〝ぐりよっと”なるさくらんぼをこいつで覆ったお菓子もあるそうだ。
「あーくん、食べていいんだよね?」
「ああ。滅多に食べられるものじゃないから、よく味わって食べるんだな」
やわらかいそれをつぶさないように慎重に手に取る。
ふむ、やはり触った感じとしては〝しゅーくりーむ”と大差ない。あれと同じく、やわらかくて脆いという相反する奇妙な触感だ。ただ、こちらのほうが棒状である分、いくらか持ちやすい。
「あーくん……この感覚……!」
「わかったからさっさと食え」
わずかに震える指で僕はそれを自らの顔の前にもってきた。うっとりする香が鼻をくすぐる。
──さぁ、今日も楽しませてくれよ。
サクッとした感覚。
口いっぱいに広がるふくよかな甘み。
あふれ出てくる何かが幸せを巻き起こし、僕を歓喜の渦へと引きずり込んでいく。
ああ、これだ。これがあるから僕はここに来るんだ。
「──うまい。さすがだぞ、マスター」
「それはよかった」
幸せの一瞬は永遠に等しいものだった。
〝えくれあ”は〝しゅーくりーむ”の派生であるとの説明通り、中にはたっぷりの〝”ほいっぷくりーむ”が含まれていた。顎をくっと動かしそれをかみしめると、さくっとほのかに甘い舌触りの直後に白い誘惑が流れ出てきたんだ。
「あーくん……! あーくん……!」
「今は黙って食べろ。あとでいくらでも付き合ってやるから」
その衝撃にノーノはただでさえ丸い目をさらに丸くし、表現しようのない感情をどうすればいいのか、この全く未知の感覚にどう対応すればいいのか必死に頭を働かせていた。
さて、素晴らしいのはこのあふれ出る白い魅惑だけではない。口の中で溶け合った〝ちょこれーと”が更なる甘みを付加し、香ばしさを乗じて魅惑の方程式を完成させる。
この絶妙な甘さのバランスは黄金比と言っても差し支えはないだろう。走り出したくなるような甘さ、深い知性を感じさせる奥深い甘さ、抱きしめたら掻き消えてしまうようなほのかな甘さがそれぞれを潰すことなく、互いに引き立てあって一つの完成形になっている。
それをごくりと飲み込むことのなんと心地良いことか。大切な何かが喉から胸へ、腹へ落ちていくのがはっきりとわかる。
「ねぇねぇ……どうしてこんなに……おいしいの……♪」
「おねーさん、お口の端汚れてますよー」
ノーノの目はうっとりとしていて、顔全体がとろんとしてしまりがない。その様子をマスターはにこにこと、シャリィはにやにやと笑いながら見つめている。
味だけに着目しがちだが、その舌触りの良さもまた格別だ。かみしめた瞬間に飛び出てくる〝くりーむ”こそ注意しなくてはならないものの、柔らかい口どけのそれはこの上ない幸福感をもたらしてくれる。
その中に混じる生地のすこしざらついた触感がちょっとしたアクセントになり、結果として全体に面白い印象を与えている。パリッとした〝ちょこれーと”を感じることもあり、それが耳に小気味よく響くとどことなく得した気分になった。
「ねぇねぇ……どうしてこんなに……幸せなの……♪」
「気に入ってもらえて幸いです」
「……」
ふにゃりと顔を崩して笑っているノーノ。てっきりやかましく質問攻めにするかと思っていたのにこの反応は意外だ。静かに食べられるとは誰が思っただろう。
もっとも、エリィなみに口元と手を汚しているのはどうかと思う。これでもこいつ、僕の一つ上のはずなんだがな。
それはともかくとして、〝えくれあ”だ。個人的にもっとも驚いたのは、口に含んだ時のその香りの素晴らしさだ。
最初にそれをくわえたとき、まず〝ちょこれーと”のどことなく香ばしい香りがのどの奥から鼻へと抜けていった。それはこれから起こる素晴らしい出来事を予感させるかのようであり、それ単体でも十分に完成されたものである。
強くかみしめていくとそこに〝くりーむ”のお菓子特有の強く甘い香りが加わり、さらには生地の香りも追加されて最初とは全く異なる様相を醸し出す。
この香りの変化がいいのだと思う。少なくとも、僕はこれが〝えくれあ”は真骨頂であると信じる。
「いけるよ……これなら世界のどこまでもいけるよ……! ねぇあーくん、このまま二人で理想郷まで行っちゃおうよ……!」
「断る」
「あらら、おねーさん、フラれちゃいましたよ?」
「大丈夫……あーくんは引きずってでもボクが連れていく。こんなにおいしいものを内緒にしてたんだもん、それくらいは許されるはず。いや、許されるべきだよね。一生付きまとってあげるねー」
「おお!? もしやこれは……プロポーズ!?」
「未知の刺激に頭が沸いているだけだ。そのうち元に戻る」
言動のおかしくなったノーノは無視するに限る。僕は〝えくれあ”の中ほどを噛み千切り、その断面を観察した。
その中心部のほとんどは白い〝ほいっぷくりーむ”であり、それをぐるりと囲むようにして、多孔質のパンにも似た断面をもつ生地がある。
この断面をさらに縦半分で切ったと仮定すると、〝くりーむ”部分と生地の部分の長さの比は二対一くらいだろうか。全面に戻して考えるならば、断面積のおよそ四割五分が〝くりーむ”の面積となる。
……こうして考えてみると、意外なことに見た目ほど〝くりーむ”の量は多くないようだ。
円の上半分には弧のように〝ちょこれーと”が被されている。その厚みはほとんどなく、前段面積に占める割合はごくごくわずか。あれほど主張していたのが嘘であるかのようだ。きっと、〝ちょこれーと”はかなり味の濃い部類に入る材料なのだろう。
しかし、どうして〝ちょこれーと”を用いて形が変わっただけだというのにこうも〝えくれあ”と〝しゅーくりーむ”とでは味も印象も違うのだろうか。この僕をもってしても、未だにお菓子の謎は解けそうにない。
「ねぇねぇあーくん、えくれあってどういう言葉なの?」
「さぁ……。どうなんだ?」
〝えくれあ”を齧りながら、ふとノーノがもっともな疑問点を上げた。
確かに、言われてみればその不思議な響きにはなにか意味が込められていてもおかしくない。
「エクレアはですね、うちのほうでは雷って意味があるんですよ」
「雷……だと……!?」
なんということだ。雷……まさに雷の魔本を仕立て上げた僕のためにあるようなものではないか! まさか、マスターはこれを見越してこいつを作ったというのか!?
「いや、なんとなく作っただけですよ。暑いですし、口当たりもよくてささっと手軽に食べられるからいいかなって。アルさん、片手で手軽に食べられるのが好きですよね」
「まぁ、そうだな。少々行儀悪いが、食べながら別の作業ができるというのは、かなり大きなメリットだと僕は考えているんだ」
「あーくん、いっつもそれでおばさんに拳骨貰ってたよねー」
いくらなんでもマスターに読心の術があるはずもない。じいさんならありえるかもしれないが……そういえば、今日はじいさんがいないな。まぁ、いたらいたでノーノがさらに喧しくなるからむしろ都合がいいか。
「ねぇねぇ、なんで雷なの? ぜんぜん雷なんかに見えないよ? ねぇ、なんで?」
「おねーさん、この生地のところのひび割れ、稲光みたいでしょ? チョコがかかっててわかりにくいかもしれませんが……」
「表面のチョコレートの光の反射が雷に見えたからって説もありますね。あと、クリームが飛び出ないよう、稲妻のように素早く食べろって話もあります」
「なるほど!」
口元と手をクリームでべしゃべしゃにしたノーノがにこーっと笑った。
ノーノは雷にはなれなかったらしい。それどころか大氾濫を起こしてしまっている。見かねたシャリィがチョコとクリームに塗れた口を拭ってやっていた。
「ああもう、おねーさん、動いちゃだめですよー」
「ありがとねー。でも、これで興奮するなってほうが無理だよ! ボク、こんなおいしいの初めて食べたんだから!」
本当にこいつは子供っぽい。物を作っているときはドキッとするほど真剣なまなざしをすることも……。
「あら、おねーさん、いい笑顔!」
「笑顔と元気の良さだけは昔から褒められるんだよー」
……ごくまれにないわけではないといえないこともないんだがな。
なんだか少し悔しくなったので、見せつけるようにして〝えくれあ”をつまみ、手を一切汚すことなく食べて見せる。甘い何かが心を浸食し、まるで世界を手にしたかのように気分が高揚する。
「ねぇねぇあーくん、もういっこ食べていい?」
「なんだ、もう自分のは食べ終わったのか。僕に聞かずとも、遠慮せずに腹いっぱい食べるがいい。……マスター、追加を頼む」
「やったぁ。あーくん、だいすき!」
「何を勘違いしているか知らないが、奢ってやるとは一言も言ってないぞ?」
「……えっ?」
マスターのお菓子は至上の逸品だ。貴族どころか王族であっても口にしたことはないだろう。今まで僕たちが食べていた何よりもおいしいことは間違いなく、そしてその材料はほとんどが不明である。
発明家のこいつなら、その製法だってかなり特別であることがわかったはずだ。注文を待っている間に厨房の奥をちらちら見ていたから、そこにある〝れいぞうこ”やその他の摩訶不思議な魔道具だって目にしたことは想像に難くない。
よって、ノーノが〝えくれあ”がありえないレベルの高級品だと考えてもなんら不思議ではない。
というか、まともな感性と最低限の知識を持つ人間なら、お菓子一つに相当な価値があることを簡単に見抜けるだろう。
ここが異常なだけであって、本来なら金貨をとってもおかしくない。
「どどどど、どうしよ……!? ボク、お金全然もってきてないよ……!?」
泣き出しそうになったノーノを見て、いたずらにしては度が過ぎたかと少し反省する。
「でもでも、作った道具は売りたくないし、研究室も引き払いたくない……! ねぇねぇあーくん、あーくんの研究売り払ってもいい!?」
「……」
やっぱり反省はなしだ。一度こいつの頭をカチ割って中身を見てみたいと思っていたが、こんなわけのわからん論理を是とする思考回路を持っていたのか。
「小手作った時のごほうび、もらってないしいいよね!」
「……なぁマスター。金は払うからこいつを再教育することを頼めないだろうか」
「こ、個性があっていいんじゃないでしょうか」
こいつをじいさんに預けて、この落ち着きのない性格をどうにかしようと本気で考えてしまった僕を、一体だれが責めれられるというのだろうか。
ノーノはもう興味の対象が別のものに移ったのか、満面の笑みで〝えくれあ”をぱくつき、そしてマスターとシャリィを質問攻めにしていた。
「ねぇねぇ、あれは!? どうして!?」
「ああ、あれはですね……」
「マスターもよく笑って対応できるな」
「マスターですからね。それに、あたしもここに初めて来たときはもっといろんなことを聞いていましたから。たぶん、おねーさん以上にしつこかったと思いますよ?」
「……」
にこっと笑ったシャリィがなんだかすこし恐ろしくなった。
……ノーノはあれでもマシなほうなのかもしれない。
「ねぇねぇ、また来てもいい!?」
「もちろん。またのご来店、お待ちしております」
「おにーさんと一緒に来るんですよー!」
「できればもう連れて来たくないがな」
結局かなり長い時間居座ることになってしまった。ノーノは全然帰ろうとしなかったし、もとより僕の研究もある。
〝くっきー”を注文したりオルゴールを見せたりしたら、それはもうノーノははしゃぎ、結局僕が首根っこを引っ掴むまで帰るという概念を忘れたかのようにずっと騒いでいたのだ。
二人でゆっくりと、森の中を歩いていく。騒がしい喫茶店とは対照的に、森はどこまでも静かで穏やかだった。
「あーくん、お会計ありがとね。今度はボクが払うから。ちょっと金欠だから、だいぶ先になっちゃうかもだけど……」
輝かせていた眼から一転、ノーノは少ししゅんとした様子で言った。おそらく森の空気に触れていくらか興奮から冷めてきたのだろう。なぜ、普段からこういった態度がとれないのか不思議でならない。
ちなみに、会計のところはノーノに見せていない。こいつの中では僕が大金をはたいてごちそうしたことになっているのだろう。本当は銀貨一枚もあれば数回はあそこで同じように楽しめるのだが、そこらの食堂よりもはるかに安いことを僕もマスターも告げていない。
「なに、気にするな。あれくらいなら奢ってやれる。だから今度から少しは静かに落ち着きを持つように心がけろ」
「……うん!」
こいつが年相応の落ち着きを持つよう、僕はひそかに画策している。こうして少しずつ僕を尊敬させ、僕のように立派な人間を手本としてくれれば、こいつも落ち着きを持つのではないかと考えているのだ。
「あと、とっても楽しかったよ! また一緒に行こうね!」
「……気が向いたらな」
ノーノがにこーっと笑った。その顔には未知への好奇心の期待と女特有の甘いものへの喜びが混じっている。今までに見たことがない、女らしさのある笑顔だ。
〝ちょこれーと”の甘い香りがノーノの口からもれ、なぜだかくらりと眩暈がする。
雷のように光り輝くその笑顔を見て、もう一回くらいなら連れて来てもいいかもしれないと思ってしまった。
20140823 誤字修正
20160514 文法、形式を含めた改稿。
いつぞや話した、学者のおにーさんのお友達(?)の準常連さん。
シュークリームはぶしゅってなるけど、不思議とエクレアはぶしゅってならない。
なんでだろうね?




