騎士と錦玉羹
マイナー?
読みは『きんぎょくかん』です。
「ふむ……?」
カランカランと涼しげな心地のよい音。馴染みとなった愛しいその場所に私は扉を開けて入った。
美しい花、明るくて落ち着いた店内、この世のものとは思えぬ甘い香り。しかし、今日は足りないものがある。
いつも入った瞬間にかかる声が聞こえない。まるでその場にいた人間が忽然と消えてしまったかのようだ。生活感があるだけに、それが余計に顕著に見えた。
私は無意識のうちに腰に提げている剣に手をかけた。この無意識は冒険者に因るものではなく騎士に因るものだろう。
すっと視線を走らせ店内を見渡す。荒らされた跡はない。人がいた形跡もほとんどない。血痕も……ない。
じりじりと慎重に、呼吸を潜めて店内を進む。かちゃ、と鎧が音を立てるのが煩わしい。
私は騎士であり盗賊ではない。故に、正面から突破することは得意でもこのように周りを警戒して様子を探ることはそれほど得意ではない。
「……」
緊張しながらも歩を進める。まさかこの店の中でこんな体験をするとは誰が思っただろう。
私の呼吸音が静かな店内にうるさく響き渡る。誰もいない店内が酷く恐ろしい場所のように感じられ、嫌な予測が私の頭に並べたてられる。
──まさか、クズか? この間の報復か?
自分の考えをそれはない、と頭を振って否定する。あいつの処理はゼスタがきっちりと行ったはずだ。その後処理を私が手伝ってさえいる。横やりを入れられるはずもない。マスターだってそれなりに戦えるから争いの跡がないというのはありえないし、第一あの夜行さんがおくれをとるわけがない。
「──!」
がちゃり、と前方と後方からの異音。とっさに剣に手をかけ、壁を背にして挟撃を防げる位置を取る。
そして次の瞬間、入ってきた人物を見てようやく私はほっと一息をつけた。入口からは白髪の和やかな雰囲気を持つ老人。店の奥からは明るい茶髪の青年。その傍らには赤毛の少女。
「あっ、ぴかぴかの騎士様、いらっしゃいませ! 《スウィートドリームファクトリー》へようこそ!」
「すいません、気づくの遅れましたね」
「なに、構わないよ。何事もなくてなによりだ」
友人たちの顔を見て私の頬は自然と緩む。マスターたちがこの場にいるだけで緊張した空気はあっという間に霧散し、辺りに和やかないつもの空気が満ちる。
安心して私は席に着いた。
これが、これこそがこの喫茶店の本来あるべき姿なのだ。
「まて爺さん。その理屈だと今頃僕の体は火達磨になっているはずだぞ」
「燃焼と酸化は似ているようでちょっと違うんさね」
「がんばって、マスター! もうすこしです!」
「け……結構きついです」
外に出ていた夜行さんが連れていたのは初めて見る学者だった。その存在こそ何度か他の常連に聞いたことがあったものの、実際に顔を見るのは今回が初めてだったりする。
アルバートと名乗った彼は自己紹介もそこそこに、早速魔法陣の研究を始め出した。聞けば、今度エリオに魔法陣を使った魔道具をつくってやるそうで調整と技術応用に忙しいらしい。
一方店の奥からマスターに遅れて出てきたのはアミルだった。髪がしっとりと濡れ、頭からは湯気がわずかに出ていた。一体どうしたのだと聞くと、照れた顔でシャワーとやらを浴びたと言う。
なんでもいつぞやの合気道の稽古をマスターとやっていたらしく、魔道具式の風呂で汗を流していたそうだ。
ここはお菓子以外にも驚くべきものが存在しているらしい。魔道具式の風呂なぞ聞いたことがない。宿でも開けるんじゃなかろうか。
石鹸もタオルもすごいんですよ、との言葉通り、なるほどアミルの周囲にはお菓子でも果物でもない、どこか人工的なよい香りが漂っていた。
さて、そんなこんなではち合わせた常連三人は誰ともなしに机を並べ、マスターたちと席を共にして会話に花を咲かせている。近頃マスターもいくぶんか砕けた態度を取るようになってくれ、私たちとも客を超えた友情を築きつつあるような気がする。
「しかし、合気道……相手を無力化することに特化した護身術か」
「厳密にはちょっと違いますけどね!」
シャリィが私に教えてくれる。合気道とは非力なものでも屈強な者に立ち向かえる技術であり、相手を傷つけることを目的とせず、自らを守ることに重点が置かれるらしい。そのため流派にもよるが稽古も型稽古がほとんどで、実践を行うことは稀だそうだ。
「しかし、どうやって力のないものが相手を無力化できるんだ?」
「じゃ、簡単なの喰らってみます? あたしもちょっとだけできるんで」
そういうとシャリィは席を立ってちょいちょいと手招きをする。私も席を立ち、シャリィの前に立った。こうして見るとシャリィはまだまだ子供に見える。
本当に、こんな小さな子に何ができると言うのだろうか。
「ちょっと右腕こっちに伸ばして力抜いてください。あ、本気になっちゃダメですよ? あたしのはとても実践レベルじゃないので」
「なに、そこらへんはわかっているさ」
言われた通り腕を伸ばす。小手を外そうとしたところでそれをシャリィに止められた。
腱を守るスペースしかない小手は騎士をクビになってから身に付けたものだ。
騎士のころは自らの体を盾にすることが多かったため、全身をがっちりフルプレートで固めていたが、今じゃそれだと動きにくいだけだ。
「おー、逞しいおててですねぇ……あ、そーれっ!」
「んなっ!?」
手を取られたまさにその刹那。とても少女が原因とは思えない激痛が手首に走り、私は思わず膝をついた。
そして次の瞬間眼に飛び込んでくる上等な布地のスカート。動こうとするも、動けない。目の前が真っ黒になる。殺られた。
顔は痛くない。
ほとんど一瞬の出来事。す、と寸止めされた足が戻り、てへ、と小首を可愛らしくかしげたシャリィがそこにいた。
「と、このように膝をつかせてあとは顔にひざ蹴りですね。騎士様、最初すっごい痛くて膝ついちゃったでしょ? あれ、手首を曲がらない方向に曲げただけなんです。そうすると体が無茶言うなって自分から楽な体勢になろうとするんですね。それを利用するのが合気道らしいですよ?」
私の心臓がバクバク言っている。
そんな、簡単にできるようなことなのか?
騎士として私は十分に修練を積んだはずだ。
たしかに本気でなかったとはいえあんなにあっさりと?
「今のは手首を内側に曲げ、上に押し倒すことで疑似的に骨が上に吊り上げられたような感じになるんですね。だからそれを矯正するために体が下になろうとして、膝をつかざるを得なかったというわけです。とりあえず最初の手首の段階で曲げられなければ防げるので、あたしの力じゃ騎士様がちょっと手に力入れてたら難しいです」
そういってシャリィが再び私の腕を取る。手首に力を入れると、なるほど、たしかに今度は曲げられることもなかった。
だが、それはあくまで鍛えた私と少女であるシャリィでの話だ。これはピンポイントに曲げるから少ない力で済む。つまり、一般的な腕力や握力を持つ人間ならこれ以上の効果を出すことができるのだ。
「おそろしいな……」
「ま、型稽古ですから実戦で使える人ってそうそういないと思いますけどね。今あたしがやったのも厳密には違いますし」
その稽古をしているというアミルをちらりと見る。彼女はマスターの片手を包み込むように握っていた。
お互い、赤い顔をしている。いったい何をしているのだか。
よくよくみれば、合わせた手のところにうっすらと魔力の球が出来ているのが見える。
むむむ、とマスターはなにかに集中していた。これは、もしや。
「魔法の補助、かね?」
「はい。マスター魔法使えないんですよね。そしたらおねーさんが合気道のお礼に練習に付き合うって」
魔力制御の長けたものを補助に付けて魔法の練習を行う。騎士団でも正式採用されいてる訓練方法だ。当然、最終的には一人で行使できるようにならねばならないが、初期の練習方法としては最高のものだと聞く。
「使えなかったのか?」
「マスターの故郷、使える人が皆無に等しいんですよ。というか民族的に使えると思っていないらしくて」
聞けば、彼の故郷は魔物がほとんど生息していないらしく、おまけに手先の器用な民族であるために生活でも魔法を使う必要がなかったらしい。そのため、どんどん魔法が廃れていき、現在はその存在すら知らない人間がほとんどだそうだ。
……どんなド田舎だろうと、魔法を知らないなんてことはないはずなのだが。
「まて、シャリィとマスターは兄妹じゃないのか? まるで故郷が違うかのように聞こえたのだが」
「はい、あたしはこっちの生まれですよ? ちゃんとした兄妹じゃありません。ま、血筋的にはマスターも出来るはずなんですけどねぇ」
「どういうことだ?」
「マスターはあたしの遠い親戚なんですよ。あたしのひいひいひいおばーちゃんだかのおねーさんがマスターの故郷に嫁いだらしいです。あたし、マスターと会ったの一年ちょい前ですよ?」
なにやら意外なことを聞いてしまった。やはり人にはいろいろな事情があるものらしい。
しかしそうなると、夜行さんはどうなのだろう? 見た限り、血のつながりはなさそうに見えるのだが。
私は夜行さんのほうを見る。彼はアルとなにやら議論を交わしていた。
「パーム火山ってのは知っているかね? ボルバルンが生息している火の山さね」
「ああ知っている。良質な鉱石や石が多く取れるところだろう?」
「そうそう、あそこのは本当に質が良くてねェ。あそこの鉄で武器を作ったらすごいのができたさ。特製の武器を作ってやったこともあったねェ。……で、あまりによかったから他の石を調べたら、臼にぴったりのがあってねェ。摩耗性も耐久力もばっちりなやつだ。飛び上がって喜んで、でっかい石臼を五つも作っちまったよ。小さい臼もたくさん作ったさね」
「興味深い話だが、今は溶岩についてだ。あれは燃えているんじゃないのか?」
「うんにゃ、火炎という意味ではあれは違う。ただ、付与に因る矢の燃焼を防ぐというその解決策は、この燃えているように見えて燃えていないと言う事実が重要になってくるさね」
なにやら小難しい話をしている。燃えるのがなんだとか、岩の成分がどうだとか、水晶がなんだとか。
なんでも、矢に火の魔法を付加すると言う革新的な研究をしているそうなのだが、付加した瞬間に矢が燃え尽きてしまうらしい。その解決策について話しているそうだ。
「……ちょっとここらで一回休憩だ。ユメヒトも集中して気づいていないが、お菓子をもってこなきゃならんさね」
長々と話を続けていた夜行さんがきりのいいところで立ち上がる。アルが話の内容を紙に写していた。
どこかそこはかとない疎外感。もしかしてこの喫茶店で学習をしていないのは、私だけなのではなかろうか?
「はいよ、お待たせ。《錦玉羹》だ」
「おぉ!」
「わぁ!」
「なんだと!?」
「……」
席を立ってすぐに夜行さんは戻ってきた。手に持っているのは上品な美しさをもつ大きめの平皿。魔力制御に集中しているマスター以外の人間がその上に乗っているものを見て思わず感嘆の声を上げた。
「いつみてもきれーですよねぇ……!」
それを見ながらシャリィがうっとりとした顔で言う。
そこに乗っていたのは小さな直方体。見た目は非常に弾力性がありそうな、“ぜりー”のような感じだ。
だが、“ぜりー”はこんな形をしていない。そしてなにより──
「水晶……なのか?」
ゼスタに渡した“ざらだま”以上の美しさ。私達の目の前でどこまでも美しく透き通っている。色とりどりのそれが、キラキラと輝く様はまさに水晶だ。宝玉と言ってもいい。とにかく、チンケな言葉では飾ることができないほど、それは美しかった。
アメジストを彷彿とせずにはいられない淡紫のもの。
澄んだ湖のような爽やかな水色のもの。
夕焼けや紅葉のように紅いもの。
深く厳かな海のように蒼いもの。
中で二層に分かれているものもある。上半分が無色透明で、下半分が色つきの透明なものもある。グラデーションになっているものもある。
ま
るで空間が歪んだかのような奇妙な立体感が、私の脳裏にその存在感を強く焼きつける。少し角度を変えてみると、それは鏡のように歪んた光を反射した。こんなもの、見たことがない。
そして、こいつのすごいところはそれだけじゃない。
「これ……花びらですか!?」
「こっちのは魚じゃないか!」
アミルとアルがそろって声をあげた。全体が透明な薄桃色の“きんぎょくかん”に見たことのない凛とした桃色の花びらが舞っていた。
まるで水晶に閉じ込められているかのようだ。琥珀と言い換えてもいいかもしれない。
今にもひらひらとそれが舞い降りてしまうと錯覚してしまうほどに、それは躍動感に満ち溢れていた、
色あせることのない存在感が、透明なそれに閉じ込められたことによりより強調されている。どこか、頭の奥で音楽が聞こえる気さえしてきた。
その美しすぎる花からなんとか眼を引き離し、今度は魚のほうを見る。
こちらは上半分が無色透明、下半分が蒼いものだ。それの上の部分に赤と黒と金色の模様をもつ美しい魚が閉じ込められている。ニシキゴイ、というらしい。
上からそれを見ると、まるでそいつが泳いでいるかのように見える。蒼の部分を水に見立てているのだろう。ご丁寧に水草まで作ってある。
上半分が無色透明であるためより立体的に、それでいて現実よりもはるかに綺麗に優雅に泳ぐそいつをみることができる。
斜めから見ると、ニシキゴイが正面、上面、側面から三重になって見えた。もし、水を四角く切りだすことができたのならこんな風に見えるのだろうか。
その他、美しすぎる直方体がその場に何個もあった。私の貧相な語彙ではこの全てを言い表すことができないくらいに。
「おじいさん、これ、どうやったんです!?」
マスターと手をつないだままアミルが驚いたように夜行さんに聞く。間違いなく、今まで見たお菓子の中で一番美しいものだった。
「これの元となるものを流し込んで固めるだけさね。中にあるのは飾り菓子の一種だよ。全部丸ごと食べられる。ま、綺麗なものを作ろうとするとちょっと慣れが必要なんだけどねェ」
絶対、ちょっとの慣れ程度で作れるものではないだろう。この場所はいつも私の常識を容赦なくぶち壊してくれる。最近は少しは慣れたと思っていたが、まだまだ私は未熟だったようだ。
「さ、早く食べるといいさね。腕によりをかけたんだから」
「そういえば、昨日も夜遅くまでやってましたね」
「凝り性だからねェ。ついつい時間が経つのを忘れちまうのさ」
夜行さんから渡された木串を持って私達は固まった。いったい、どのような悪逆非道な人間がこの美しい芸術品を傷つけることができるのだろう。
「……むぅ」
私は心の奥底に覚えずにはいられない罪悪感を押し殺すようにして、紫色の水晶に木串を突き刺した。ふにゅう、と“ぜりー”よりかはやや硬い感触。紫の色を乱反射するそれを。口に放り込んだ。
なんといえばいいのかはわからない。
ただ、それがいつものようにおいしいことだけはわかった。
余分な言葉の装飾など、必要ない。
「──うまい!」
「そいつぁよかった」
私は、水晶を食べた男になったのだ!
──いつの間にか私の目の前に広がる幽玄な光景。
甘やかななにかが私の心の奥底を侵食し、私の意識を朦朧とさせる。
ここは、どこだろう?
さらさらと音を立てる竹林の真ん中に、いつの間にか私はたっていた。木造の、派手ではないが華やかさと気品のある建築物が眼の前にある。その上、石造りのモニュメントが複数並び、神秘的な様子を醸している。それぞれの中で火が燃えているところ見ると、燭台の一種であろうことが分かる。
この紅く大きいアーチはいったい何の役目を果たすのだろう。見たことがない。つややかでうっとりするほど華麗でありながら、どこか神聖さをも感じられる。
「……おや?」
一瞬視界の端に色鮮やかな衣服を纏った女が見えた気がした。夜行さんの衣服と似ていなくもないひらひらした紅い衣服だ。腹のあたりに優しげな紫の帯を巻いていた気がする。
雪のように白い肌、黒曜石のような黒い髪、リンゴのように紅い頬。慈愛に満ちた黒い神秘的な瞳が私の理性を吹き飛ばそうとする。
可愛らしさと雅さを兼ね備えたその体のラインは、幻想だったかのように消えてなくなっている。その姿をもう一度思い起こそうとするも、頭に霞がかかったかのようにぼやっとしたイメージしか出てこない。
くすくすとおかしそうに、気品のある可愛らしい声が響く。
私は何かを求め、夢心地のまま足を一歩踏み出した。じゃり、と気づけば小さな石粒が辺り一面に敷かれている。
澄んだ空気を胸一杯に吸い込み、深呼吸をする。ちゃぽ、と水の音が聞こえたのでその方向へと振り向いた。
青い空を写した池がそこにあった。赤、金、白の模様を持つ美しい魚がそこをゆったりと泳いでいる。
優雅に、堂々と。生き様そのものが芸術品のようだった。
きっとこいつはこの世の汚さなど何も知らないのだろう。シミも汚れも、醜さを象徴する一切がそいつからは排除されている。
その美しさはどこか不気味で根源的な恐怖を掻き立てられそうになるが、それでもなお優しい麗しさをまき散らしてる。
かこん、と竹でできた細工が音を立てる。水を流したそれは再び起き上がり、水を貯めては流し続ける。
涼やかな風がそこにすぅっと流れ込んだ。
永久、不壊。
悠久を象徴するかのような雅趣な音が、どこまでも響き渡る。
「……」
気づけば、さっきまでいたところに植物を編み込んで作ったのであろうベンチがある。その傍らにはどことなく夜行さんの着ている衣服を連想させる紅いパラソルがあった。
なにかに引き込まれるかのように私はその椅子に座る。柔らかくはないが、決して硬いとも言えない温かな座り心地。どこか懐かしさすら覚える高雅なベンチだった。
ああ、鎧を脱いでしまいたい。ここには剣も鎧も似合わない。
自然にあふれ、異国情緒に満ちているのに、なんで不要なものを私は持っているのだろう?
耳をすませた。心地よい虫の音が聞こえる。
鼻を利かせた。乾いた草のいい匂いがする。
何かに触れた。柔らかくすこしざらついた布触りを感じた。
眼を見開いた。静かで豊かな風景が広がっていた。
すっと誰かが、いやなにかが私の隣に来たような気がした。
すら、と布ずれの音と微かな上品な息遣い。上等の香の香りもする。長い黒髪が視界の端に映り、リン、とした鈴の音が聞こえる。慌てて隣を見るも、そこには変わらず幽玄の風景が広がっているだけ。どこか遠くのヒトのいない世界のようだった。
その光景に、私は無性に悲しくなった。何故だかわからないが、子供の時に大事にしていた玩具を壊されたような、そんな切ない気分になったのだ。胸が張り裂けそうになり、みっともなくくしゃっと顔をゆがめて泣き出しそうになったのが自分でもわかる。
「……」
「……!?」
誰もいないのをいいことに声をあげて泣こうとしたところ、くすっ、と上品な笑い声が聞こえた。
同時に感じる、頭をなでられるやわらかい感覚。誰かの細い五本の指が、私の頭をなでている。
座った私を、誰かが後ろから抱き締めてくれている。春風のような温かさが、木漏れ日のような柔らかさが私を包み込んだ。
トクトクと背中に感じるこの鼓動をずっと聞いていたい。私を抱きしめるこの白く華奢な片腕に頬擦りしたい。
甘い吐息が漏れる音と、溺れてしまいそうな甘美で優雅なにおい。髪を梳くすらすらとした音と、懐かしさを掻き立てるにおい。恋人と母にいっぺんに抱きしめられたとしても、こんな気分にはなるまい。
気づけば、私の膝の上には“きんぎょくかん”が乗っている。上半分が無色で、下半分が蒼の透明。中には見事なニシキゴイが泳いでいた。
あそこの池の中で泳いでいたやつとそっくりだ。にんまりと笑ってしまった私はそれを食べようとして──
瀟洒なその女性が、私に向かって嫣然と微笑んでいた。
「──おーい、騎士様ぁー?」
「──はっ」
いつもの、喫茶店にいた。
口の中に甘い余韻と、なにか柔らかいものを食べたような感覚がする。上品な香りがまだすこし残っており、それが私の気分を落ち着けさせた。
「どうしました? ぼうっとしちゃって」
「い、いやなんでも──“きんぎょくかん”は!? いつの間になくなったんだ!?」
いつの間にか、私の目の前にたくさんあったはずの“きんぎょくかん”がきれいさっぱりなくなっていた。紫のも、魚のも、花びらのも、全部、全部、全部だ!
「なにいってるんです、みんなで食べたじゃないですか? 騎士様、最後のお魚さんのやつ、食べたばっかでしょ?」
「……そう、だったか?」
シャリィの言葉に思わず唖然とする。
言われてみれば、何か食べたような気もする。得体のしれない満足感に満ちてもいる。だが、食べた記憶がさっぱりない。
……まて、今まで私は何をしていたんだ? どこか素晴らしいところで、素晴らしいことをしようとしていたような……?
「──っ! なんだ、今のっ!」
「学者のおにーさん!?」
アルが息を飲んでいた。わずかに頬が紅潮している。その目は感動に打ちひしがれていた。
何かに取りつかれたように紙と筆記具を取り出し、何かを書こうとしてその手は止まる。
「僕は……なにをしようとしていた?」
どうやらアルも私と同じらしい。きょろきょろとあたりを見回し、“きんぎょくかん”の行方を聞いてくる。私達が食べたらしいという旨を告げると、絶望に染まった顔をした。
「……ここまで効果があるとは」
夜行さんが驚いたように呟いていた。
私の直感は告げる。彼は何かを知っていると。
「いや、いくつかは学校……故郷の連中が作ったんさね。美術にめっぽう強いやつとお菓子作りのうまいやつの合作だ。……ただ、そいつらが作ったものを体験すると、感動のあまりなにかを見ちまうみたいでねェ。向こうの連中は記憶までは飛ばないんだが……」
確かにあの美しさならその道のプロが作ったというのもうなずける。私が最後に食べたのはニシキゴイの“きんぎょくかん”らしい。それもガッコウの人間が作ったものだったそうだ。
そしてその感動ゆえに私の脳みそがありもしない風景を見せたようだ。
……幻惑魔法だろう、これは。その人間、間違いなく無意識で魔法を使っている。記憶を吹っ飛ばしてなおこれほどまでの感動を与えられるはずがない。
というか、失ってしまった素晴らしい何かへの渇望が今も私の中で渦巻いている。普通の幻惑魔法だってここまでの効果は出ないぞ!
「すごかったです! 綺麗なピンクの花びらがさぁっと舞い上がっていて!」
「うん?」
意識を取り戻したのであろうアミルが明るく言った。嬉しそうに見てきた光景を話し出す。私とアルは思わず顔を見合わせた。
なぜ、彼女は記憶を保っていられるんだ?
「え? だってあれは幻惑魔法でしょう? 魔法使いなら対抗できますよ。たしかに私でもきついレベルのものでしたが、マスターの手がずっと私の手を握ってくれてましたし」
「……」
アミルは未だにマスターの魔力制御のために手をつないだままだった。この状態で“きんぎょくかん”を食べ、幻惑魔法を乗り越えたと言うのか。
いろいろな意味で驚かされる。あ、シャリィが口に入れたのか。
「愛の力は偉大ですねぇ」
「もうすぐ、その……ぇと、ですし」
「そういえばそうでした」
集中しているマスターの隣で女二人が仲良く話しだす。と、ぽんと音がしてマスターの反対の掌から蝋燭大の炎が灯った。
おお、と思わず小さな声をあげてしまう。マスターが恐る恐る眼を開けていた。
「……でき、た?」
「やりましたよ、マスター!」
ゆらゆらと揺らめくそれはやがて消えてしまう。が、確かに成功したのだ。マスターの顔に子供のような無邪気な笑みが広がり、信じられないことかのように自分の掌を見つめる。
「やった! ありがとうございます! アミルさんのおかげですよ!」
「あ、あうう……!」
マスターはアミルの両手を握り返し、ぐっと詰め寄った。アミルの顔が真っ赤になる。うん、初々しくていい。
私にもああいう時代はくるのだろうか。今まで激務で休みらしい休みも趣味らしい趣味もなかったからなぁ。
何度も何度もマスターは火の魔法を使う。三回に一回は失敗しているが、もう少しやれば補助なしでもできるだろう。あれは最初の一回さえできてしまえば楽なのだから。
「そうだ、こうしちゃいられません! とっておきのお菓子を出さないと! じいさん、錦玉羹だしていいよね!」
「あ、それなら先ほど頂きました」
「……え?」
「おまえ、本当に周りが見えていなかったんだねェ」
呆然とするマスターを見て笑う私達。食べた記憶こそないものの、私の心にはなにか温かいものが満ち溢れていた。
首をかしげながらもアルが研究道具を机に広げ、アミルはお喋りに興じる。筆記具の音と高い声のお喋りをバックミュージックとし、私はゆったりと椅子に背を預けた。
魔法にはしゃぐマスターやそれを見守る夜行さんを見て、私はこの場所がたまらなく好きであることを再確認する。
“きんぎょくかん”の見せた幻以上に、ここは素晴らしいところなのだ。
20160403 文法、形式を含めた改稿。
味描写一切なし!
……うん、言いたいことはいろいろとあると思う。
でもね、一度書いたの見返したら、淡雪羹やモザイクゼリーとほとんど変わらなかったんだ。ならばいっそとこういう形にしたんだよ。
実物はめちゃくちゃきれいなのでぜひともググるべし。
もうね、食べ物だって思えないほどきれいなの。
壊すのが本当にもったいないの。
何も知らなければ宝飾品か何かだと思うはず。




