魔法使いとホットココア
今回いつもとちょっと違う。
苦手な人は注意。まぁ、ほとんどの人は大丈夫だと思うけれど。
心のきれいな人は大丈夫だけどそうじゃない人にとってはちょっとアレな表現が後ろの方にあります。ちょっとだけ注意。
「っ!」
ごぅっと耳鳴りのような、まるで滝が落ちたかのような大雨。ばしゃり、と勢いよく泥水が跳ね、私のローブを汚しました。
しかし、それも今更のこと。先ほどに至っては泥だまりに思いっきり足を突っ込んだくらいですから、もはや気にもなりません。ベージュのローブは雨にぬれて暗い色になり、汚れとの区別もまるでつきませんでした。
大粒の雨のせいで森の中は酷く見渡しが悪く、ほんのちょっと先すら見えません。先ほどまでの晴れがまるで幻だったかのよう。
強い雨のにおいと土のにおいが私の鼻を刺激しました。魔獣の咆哮も虫の音も聞こえません。聞こえるのはどこまでも一様な雨音だけです。
「ああっ、もうっ!」
水を吸ったローブは重くなり、自然と足がもつれます。急いであそこへ行こうと走りますが、ぬかるんだ地面はとても走るのには適しておらず、何度足を滑らせたかわかりません。
転んでいないのは奇跡と言ってもいいでしょう。もっとも、転んだところでこの有様では大して変わりはないと思いますが。
「あと、ちょっと……っ!」
濡れて目にかかった髪を拭い、私は足を進めます。やがて、それは見えてきました。辺りが暗いせいか、そこの輝きがひときわ強く見えたのです。
カランカラン!
「うえぇっ!? おねーさん!?」
私は勢いよくその素敵な扉を開け、中になだれ込みました。入口が雨水と泥で汚れてしまい、申し訳ない気分になります。
すぐに謝ろうとしましたが、走って息があがってしまい、それどころではありません。シャリィちゃんが慌てたように私に近づいてきました。
「はっ……はっ……すみ、ませ」
「シャリィ? なんか大きな音したけどどうしたの?」
「マスター、大変です! 魔法使いのおねーさんが!」
「アミルさん!?」
奥からマスターがひょこっと出てきて私と目が合いました。途端に顔が赤くなるのが分かります。
うう、こんな格好、マスターにはあまり見られたくなかったなぁ……。
「びしょぬれじゃないですか! シャリィ、タオルとってきて!」
「はい!」
「すみません…。汚してしまいました」
そんなことはいいんですよ、とマスターは笑って私にタオルを差し出してくれました。私はお礼を言ってそのタオルで顔を、髪を拭きます。
見た目は普通の白いタオルでしたが、とてもふわふわでいい匂いがします。ここはお菓子だけじゃなくタオルもふわふわなんですね。
「くしゅんっ!」
「ローブもびしょぬれ……このままじゃおねーさん風邪ひきますよ。替えのお着替えとかあります?」
「いえ……来る途中でいきなり降ってきたものですから。すみません、タオルありがとうございました」
夏だと言うのに、体の芯から冷えています。ぶるぶると自分がふるえているのが分かりました。濡れた服が私の体温を奪っているでしょう。
残念ですが、このずぶぬれの状態でここにいるわけにもいきません。ここで雨宿りすれば少しは雨の勢いも弱まるでしょうが、マスターに迷惑はかけられませんから。
「お店汚しちゃって、本当にごめんなさい。また来ますね」
今度来た時はお詫びをしなくちゃ、と思って扉に手をかけたときでした。
「きゃっ!?」
「おおっ!?」
冷たく、濡れた私の手がなにかたくましく温かい物にぎゅっと掴まれました。……マスターの、手でした。
「ダメです。こんな状態でまた外に出たら確実に風邪ひきます。体も震えているし、こんなに冷たい手をしているのに」
「で、ですが……」
「どのみちこの雨じゃしばらく出られませんよ。それでも出ようとするのなら、力づくでも止めてみせます。絶対に通しませんよ?」
マスターはその黒く神秘的な瞳で真剣に見つめてきました。細く、けれど逞しい指に力がこもり、私の手を締め付けます。そして尚も戸惑う私を無視して、きっぱりと言いました。
「……シャリィ、アミルさんにシャワー浴びせてあげて」
「……え、いいんですか?」
「四の五の言っている場合じゃないしね。それに、このままにしてたら僕がじいさんに拳骨落とされるよ」
ちょっとおちゃらけて言うマスターとなにやら真剣な表情のシャリィちゃん。“しゃわー”というのはもしかしてとんでもない物だったりするのでしょうか。
私が何も分からずおろおろしている間にもマスターはてきぱきと動きます。
「シャリィの服……じゃ、さすがに小さいか。合気道着も届いたけど、これ着せるわけにもいかないしなぁ。……すみません、着替え、僕のジャージでいいですか?」
「え、あの、はい、それで……」
正直なんのことやらわかりませんでしたが、頷くほかありません。マスターは奥でがさこそと、そのジャージとやらを探しているようでした。
「あれ、ねぇシャリィ、僕のジャージどこしまった? 家の箪笥にないんだけど」
「ああ、こないだお洗濯した時に古家の箪笥にいれましたよ。どうせしばらくは着ないと思いまして」
「あ、ホントだ」
奥のほうへと引っ込んだマスターたちがなにやら喋っているのが聞こえます。ぽた、ぽたと私の髪に残っていた水滴が二摘、床に落ちました。
なんだか不思議な単語が聞こえたりもしましたが、一体これから何が始まるというのでしょう。
「じゃ、おねーさん行きましょう!」
「よろしくね、シャリィ」
水の跡をつけながら、私はシャリィちゃんの手に引っ張られていきました。
私がシャリィちゃんに連れていかれたのはお店の奥の部屋でした。その部屋には、不思議なことにまたいくつかの扉がありました。
「さ、入って入って!」
「あの、ここは……?」
「ナイショ、の場所ですよ!」
シャリィちゃんはそのうちの一つをあけ、私を招き入れます。うまく言葉では表せませんが、不思議な雰囲気の狭く短い通路にそれは繋がっていて、数歩も歩かないうちに酷く狭い物置のような小部屋に私はたどり着きました。
「うわぁ!」
「これだけの鏡、向こうじゃそうそうありませんよねぇ」
そこには見事な鏡台が一つと大きな箱のような魔道具が一つ。加えてタオルとよくわからない小物がたくさん置いてあり、奇妙な雰囲気を醸し出していました。すぐ横には半透明な扉もあります。
「……さて、準備はいいですか? 覚悟は出来ましたか? うへへ……!」
「あの、シャリィちゃん? ……ひゃぁっ!?」
なにをするのかと戸惑っていると、そこで、その、私はシャリィちゃんに服を引っぺがされました。正直とてもびっくりしましたが、シャリィちゃんも服を脱ぎ、すっぽんぽんになって半透明の扉を開けます。
「うう……ひどいですよぉ……!」
「いいじゃないですかぁ。女同士だし、減るもんじゃないし」
がちゃん、と音をたてたその先にあったのは、風呂桶のような物と鏡。それとやっぱり見たことのない小物類です。ここもさっきの部屋と同じくらい狭い場所でした。
「さ、さっさとシャワー浴びて温まりましょう。泥も落として……髪も洗っちゃいましょう。……風呂上がりアミルさんなら、きっとマスターを悩殺できますよ?」
「シャ、シャリィちゃん!?」
「それじゃあ、行きます! だいじょうぶ、ちゃんと洗ってあげますから!」
そこでの体験は驚きの連続でした。
暖かいお湯がどこからともなく降り注ぎ、私の全身を洗い流しました。川で水浴びするときとも、宿屋で体を拭うときとも比べ物にならない、ぽかぽかで気持ちの良い感覚が全身を包みます。
「あわあわにしちゃいましょう。冒険者さんはどうしても汗かいちゃいますからね。この時期は特に」
「わぁ、こんなに泡立つ石鹸なんてあるんですね! 液体なのにどうして……え、もしかして私……く、臭かったですか?」
「いや、そんなことは……盗賊のおにーさんやむきむきのおじさんたちに比べたら全然ですよ。むしろ、女の人の汗の匂いって男の人にとってはすごくイイらしいですよ?」
「比較対象が男の人、なんですね……」
石鹸は液体で、泡立ちがすごくいいです。安物の石鹸は妙に脂っぽいというか、変なにおいがすることも多いのですが、ここの石鹸はすごくいい香りがするうえ、真っ白で真珠のようにピカピカです。
「ふふっ♪」
「おー、ご機嫌ですねぇ」
ごしごしと擦り付けられたそこだけ、まるで別人かのように綺麗になりました。ぷるんとしていて、まさに玉のよう。これが本当に自分の体なのか、あるいは新手の幻術でもかけられたのかと思うばかりです。
「次は女の命の髪! あ、あとであたしの背中も流してくださいよー?」
「く、くすぐったいですよぉ……っ!」
また、仄かにピンクの液体を使ってシャリィちゃんは私の髪を洗ってくれました。お菓子でも花でもない、この世のものとは思えない素晴らしい泡が私の髪を包み込んでくれました。
最近少し痛んでいた私の髪も心もちつややかになっています。あと、シャリィちゃんの手つきが素晴らしくて思わず眠くなってしまうほどです。
「この”しゃわー”……すごく気持ちがいいですね……!」
「あたしらなんかは頭から水をざばーってかけるのが主流ですもんね。これを知ったら、もう前には戻れませんとも」
最後に“しゃわー”で体を流すと、冷え切っていた体の芯がポカポカと暖かくなり、全身がさっぱりしてとても素敵な気分になりました。
流れた水は何処へ行ったのかとか、部屋の中だというのにどうして湯気でいっぱいにならないのかだとか、そもそもなんで喫茶店の中にこんな王族でさえもっていないような設備があるのかだとか……。
いろいろいいたいことはあったのですが、そんなことなどどうでもよくなってしまうくらい、そこでの体験はステキなものでした。
「あの……ありがとうございました」
「……っ!」
“そこ”から出てきて喫茶店に戻った私。私がマスターにお礼を言うと、なぜだかマスターは顔を赤くして目を反らしました。
「すごいですね、“しゃわー”って。私、初めてですよ!」
「……はは、それはよかった」
マスターは相変わらず目を合わせてくれません。どうしたのかと私は自分の体を見渡します。
私が着ているのは柔らかく、よく伸びる着心地の良い緑色の服。ベルトがなくても落ちないズボンに、“ふぁすなー”という装飾が施されている上着。これは装飾でありながら、なんと、脱ぎ着しやすく前を開けたり閉めたりする機能を持っているのです。
「あ、もしかしてコレ、ちょっと変でした?」
「い、いえ。むしろ……」
「むしろ?」
「な、なんでもないです」
シャリィちゃんいわく、“ふぁすなー”はちょっと多めに下げるのが正式だそうです。ちょっと恥ずかしいですが、たしかにこうすると胸から空気が入って気持ちいいです。
肩の部分には黄色いラインが入っており、左胸の部分に白く『佐藤』という刺繍があります。なにかの文字のようですが、文様のようにも見えます。
マスターの故郷のシンボルマークでしょうか。今はちょっと濡れた私の金髪にちらちらと隠れてしまっていますが、なかなかかっこいい文様です。
ほかほかと湯気と良い香りを撒き散らしているのが自分でもわかります。おまけになんと、この“じゃーじ”も良い香りがするのです!
「す、すみませんね。僕のジャージしかなくて。さすがに女ものとかはありませんし……。サイズとか、大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ!」
男の人のものだからか、私にはちょっと大きくて袖口もだぼつき、手先しか出すことができませんが、それを差し引いても着やすくて動きやすく、お気に入りになってしまいました。
「……むしろ、これがいいんです」
……ちょっとだけ、マスターの匂いもする。それがたまらなくうれしい。自然と顔がにやけちゃいます。なんだかちょっと、照れくさいです。
「……あれ、何て言いました?」
「えへへ、ナイショ、ですよぅ」
今はまだ、聞こえなくてもいい。でも、言葉にはしたい。こういう時、小声でつぶやくというのは最強だと思います。
「おねーさん、ご機嫌ですねぇ。あたしも初めてシャワー使った時はびっくりしましたけど。あ、今さらですけどあのローブとかお洗濯大丈夫なやつですか?」
「え? まぁ、普通に水洗いしてますけど…」
奥から出てきたシャリィちゃんも湯気を撒き散らしています。“どらいやー”という温風を出して髪を乾かす魔道具を先ほどまで使っていたために私よりも出てくるのがちょっと遅れてしまったのです。
私も“どらいやー”を使ってもらったのですが、あの大きな音がどうにも怖かったのですぐにやめました。
話を聞くと、あの小部屋にあった大きな箱のような魔道具は自動で洋服をお洗濯してくれるものだとか。しかも特殊な薬剤を加えると柔らかく、いい匂いにすることもできるとのこと。さらには、乾燥までやってくれるそうです!
「装備品のローブとか洗うの初めてなんですよねぇ」
「普通のローブは水洗い、駄目なんですよ」
普通のローブは撥水加工として蝋や脂を塗りこんでいます。こうすると確かに雨にぬれても大丈夫なのですが、独特の変なにおいがつくため私はあえてそれをしないでもらっています。この加工をしたローブは天日干しするしかありませんが、してないのであれば水洗いも大丈夫なのです。
「どのくらいかかりそう?」
「結構厚手のローブでしたし、乾燥にしばらく時間かかりそうですね。でも、雨が止むまでには終わると思いますよ?」
お店の外ではざあざあと雨が降っています。穏やかな優しい光に満ち溢れたここと外はまるで別世界かのよう。扉一枚を隔てているだけだと言うのに、どうしてここまで違うのでしょう。まだまだ、降り止む様子は見せません。
ちらりと、私はマスターの横顔を盗み見ます。
「どうしました?」
「いえ、なんでも」
どうやら私は、光あふれる温かい鳥籠に閉じ込められちゃったようです。捕らわれのお姫様みたいでなんだかどきどきしますね。
いつもと同じ店内なのに、雨と“じゃーじ”と“しゃわー”の影響でどことなく特別な気分になります。“じゃーじ”がスカートであったのなら、私は本当のお姫様になれていたかもしれません。
……その場合、私をここに閉じ込めたマスターは悪い魔法使いになるのでしょうか?
「マスター、あたしお風呂入って着替えちゃいましたし、休憩でもいいですよね!」
「ま、しょうがないか。それにこの雨なら他の人はこないでしょ」
「ですね。それにこんな状態他の人に見られちゃったら……」
「シャリィちゃん!?」
いひひ、と笑うシャリィちゃんをみて私は真っ赤になりました。顔が熱いのは絶対“しゃわー”のせいだけではありません。なぜだかわかりませんが、とっても恥ずかしく思えたのです。
「……んっんー。ところでアミルさん、お飲み物などいかがですか? 冷えた体にぴったりの《ホットココア》です」
「わぁ」
慌てた私をよそに、咳払いをしてマスターが三つのマグカップを持ってきました。
ほわんと漂う溺れてしまいそうな甘い香り。温かな色合いのマグカップに注がれていたそれは、まるで呑みこまれてしまいそうなほど豊かな茶色の飲み物でした。
ところどころはクリーム色になっています。じっと見つめているとその茶とクリームの渦に吸い込まれてしまいそうです。
……ふと顔をあげると光の加減からか、ちょっとマスターの顔が赤らんで見えました。気のせいかな?
「今日は僕の奢りで。一緒に飲みましょう」
「夏にホットココアってのも乙なものですね」
珍しくマスターはバンダナをはずし、私の向かいに座りました。いつもと違うシチュエーションに、どきりと心臓が跳ね上がります。それがなんだか気恥ずかしくて、ごまかすようにマグカップに口を近づけました。
甘い香りがより強く、私の顔を撫でていきます。両手で持ったマグカップはいい感じに熱く、ふぅっと少し冷ましてから口をつけました。
「……!」
あまい。
あまい。
溺れてしまいそうなくらい。
とろけてしまいそうなくらい。
夢か、現か、そんなことはどうでもいいくらい。
「……おいしい!」
「それはよかった」
とろとろした、なんとも言えない心地よい感覚に、私は身をまかせました。
“ほっとここあ”は一口飲むだけで心がポカポカします。芳醇な、甘く香ばしい香りが全身を包み、体をとかしてしまいそうな誘惑的な甘味が口の中に広がるのです。男の人にはあまり向かないかもしれないくらい、その甘味は強烈です。
こくり、とさらに喉を動かしました。この香りは“ぐりよっと”にも使われていた“ちょこれーと”に似ています。蟲惑的で誘うようなこの香り、忘れるはずがありません。
魔女の吐息がこんな香りだったら、男の人はみんな虜になってしまうでしょう。
ほぅっと私も息をつきます。私の吐息も、あまぁい香りになっていました。
一口飲むたびに、お腹の底から温まっていくのが分かります。甘い香りは口へ、喉へ、鼻へ、そして体中に染みわたっていきました。
「ふう……」
一気に飲み干してしまいたい衝動に駆られますが、ここは我慢です。ちびり、ちびりとゆっくりと飲んでいきます。
“しゃわー”で温まるのもよかったですが、こうやって中からじっくりと温まるのもいいものです。
「冬に飲むのがいいんですけどね、これ。おねーさん、シャワー上がったばかりだからちょっと暑いでしょう?」
「いえ、そんなことありませんよ?」
マスターの隣に座ってマグカップを傾けるシャリィちゃん。それに私は笑って答えました。
にっこりと、意識するまでもなく自然と笑みが零れます。この甘さは、人を知らず知らずのうちに笑顔にするのです。言葉にできない幸福感が体全体を包み込んでいくのです。
私の対面に座っているマスターもにこにこと笑っておりました。いつも通りのような気もしますが、そんなマスターがたまらなく素敵です。じっと、私の事を見つめていて──
「あの、マスター、その、そんなに見つめられると恥ずかしいのですけど……」
はっとなにかに気付いたように、マスターは慌てて目をそらします。顔を赤くして、取り繕うように言いました。
「い、いえ、僕、好きなんですよ」
「え、ええっ!?」
その言葉にどくんと確かに心臓が跳ね、マグカップを持つ手が震えました。どんどんどんどん体に熱がこもってきます。
ぜったい、ぜったい、これは“ほっとここあ”のせいなんですから!
「人がおいしそうにものを食べているのが好きなんです。誰かが僕の作ったものを嬉しそうに食べているのが好きなんです。あまりにアミルさんが嬉しそうに飲んでいたので……」
「……あ、なるほどそういう……」
「喫茶店やっているのも、そういうのが見られるからなんですよ」
そう言われてみれば、マスターは私達がなにかを食べているとき、必ずそばでにこにこと笑って見ています。普通の食堂なんかではそんなことをする人はいません。
安心したような、残念なような気持ちが心の中でせめぎ合い、やがて溶けていきました。
ふと、視線をカップの中に戻します。“ほっとここあ”の茶色とクリーム色は、もう見受けられません。今は穏やかな優しいセピア色をしています。マスターの明るい茶髪よりも落ち着いた優しげな色でした。
対象的な、しかしどこか似通った二つの色は、ぐるぐると渦巻いて溶けあってしまったようです。
もう一度ふぅと息をつき、こくりとそれを飲みます。やっぱり、色は変わっても“ほっとここあ”はどこまでも甘いです。
ざあざあと雨の音は変わらずに続いています。先ほどからずっと雨の音は強いままです。もしかしたら、今日はずっとここに閉じ込められることになるかもしれません。
「……うん」
ほぅ、と息をつくと、私の心にちょっと意地悪な考えが思い浮かびました。
「マスター、実はちょっと相談したいことが……」
「どうしました? 僕でよければいくらでも」
乙女の心を弄んだのです、ちょっとくらいの罰はあってもいいでしょう。マスターが“ほっとここあ”を口に含んだ瞬間を見計らって言いました。
「……マスター、その、最近お洋服がきつくなってきたんです。責任とってください!」
「ぶふっ!?」
「マスター!?」
「うぇっ、 かっ、 ぇうぇっ!?」
「ちょ、マスター大丈夫です!?」
マスターは目を白黒させて、“ほっとここあ”を噴き出しそうになりました。どこか変なところに入ってしまったようです。
慌ててシャリィちゃんがマスターの背中をさすります。私も席を立ってとんとんと優しくさすりました。机に突っ伏すマスターの背中は、その見た目とは裏腹に意外と逞しくて大きいです。
「ふぅ……。あ、もうだいじょぶです」
ようやく落ち着き、マスターは軽く口の端を拭いました。そしてもう一度“ほっとここあ”を飲んでむせた息を整え、何かに脅えるようにおそるおそる切り出します。
「あの、アミルさん、それってどういう……?」
「……ここで甘いものをたくさん食べたせいで、ちょっと、その、お洋服のサイズが合わなくなってきているんです。マスターがおいしいのばかり作るのがいけないんですからねっ!」
密かにエリィにも相談したのですが、彼女は生粋の戦士。動くのが仕事であり、無駄なお肉などつくはずがありません。対して私は冒険者とはいえ魔法使い。後ろで杖を振るうのが仕事です。古都で土木作業をしている人のほうが運動量的には大きいでしょう。
「だから、今度お洋服選びに付き合ってください! それが大人の責任ってものですよ?」
「ああよかった……そういうことでしたら、喜んで」
「やったぁ♪ ……ん?」
……何がよかったのでしょう?
いえ、念願のデートの約束を取り付けられたのはいいのですが、そこが妙に引っ掛かります。
嬉しい気持ちは心の中で爆発し、今にも頭が茹であがってしまいそうなのですが、その反面、心の反対側でこの疑問を解消しろと冷静に叫んでいる自分もいます。
「マスター、なにがよかったんです?」
「ああ、いえ、大したことはないですよ? それより、いつにします?」
“ほっとここあ”を飲もうとカップを傾けるマスター。もう飲みきっていたのか、すかっとその手は持ち上がりました。目が泳いでいます。
「マスター?」
「ひゅ、ひゅ~♪」
「……へたくそ」
じっと睨むとあからさまに目をそらし、へたっぴな口笛でごまかそうとします。かすれる音が部屋に響き、変な沈黙が辺りを包みました。これは明らかにワケありですね。問いただせと、女の勘が告げています。
「マ・ス・タ・ー?」
「あの、勘弁していただけると……」
「ダメです。おじいさんにあることないこと言いふらしますよ?」
「ごめんなさい」
そこまで言うと、ようやくマスターは折れたようでした。最初に絶対に怒らないでくださいねと前置きをいれ、シャリィちゃんに“ほっとここあ”のお代わりを持ってくるように告げ、奥へいったのを見計らって話し出しました。
「本当に、怒らないでくださいよ?」
「もう、私とマスターの仲じゃないですか。信じてくださいよ」
私はなんとなく緑の“じゃーじ”の“ふぁすなー”を少し動かしました。机に身を乗り出すようにして肘をつき、お話を聞く態勢を整えます。ざあざあと音を立てる雨がこれから起こるお話会のバックミュージックになりました。
「……ちょっと前に、近所の子供たちに読み聞かせするために童話を調べていたんです。それの一つを思い出してしまいまして」
「へぇ、ステキじゃないですか。どんなお話なんですか?」
「……昔々、子供のいない夫婦がいました。子供が欲しいと毎日願っていた結果、ようやく奥さんは子供を授かります。夫が喜んだのもつかの間、奥さんは隣の畑のチシャを食べたいといいだしました。食べないと死んでしまうとまで言いだすのです。なんとか願いを叶えてやりたいと思った夫ですが、その畑の持ち主は悪い魔女。分けてもらえるはずもありません」
「犯罪者ですか? ギルドに届ければ無償で討伐できますよ?」
「いや、そういうんじゃないんですけど……。ともかく、困った夫は愛する妻のためにチシャを盗みだすことにしました。それは見事に成功し、妻も喜んでくれました。……しかし、一度そのおいしいチシャを食べた妻はその味が忘れられなくなり、また盗むように要求したのです」
「なんだか、その夫婦のほうが悪い人のような気が……」
「はは、そうかもしれません。あるいは、それほどおいしいチシャだったのでしょう。……で、夫はもう一度盗みに入るんですが、魔女に見つかってしまうんです。カンカンに怒った魔女ですが、夫から事の顛末を聞くとチシャを持っていくことを許しました」
「魔女さん、いい人だったんですね!」
「ところが、その代償として生まれた子をよこすように言ってきたのですよ。夫は断れるはずもなくその要求を受け入れます。やがて生まれたのは、見事な金髪の、それはもう可愛い女の子でした」
「あ、金髪って私とおそろいですね。もしかして、それで?」
「ええ。……生まれた赤ん坊はラプンツェルと名付けられ、魔女に預けられてそれはもう可愛がられて育ちました。器量もよく、優しく、その金の髪は長く美しく伸び、世界一の美貌を誇ったそうです」
「えへへ、他人の事なのになんだかうれしいですね。それで、どうなったんですか?」
「それがですね……。なんとラプンツェルが大きくなったある日、魔女は大切なラプンツェルを高い塔の最上階に閉じ込め、そこに至る全ての方法を排除したのです。窓が一つあるだけで、外にはどうやっても繋がっていません。もちろん、魔法対策もできているので侵入することは絶対に不可能です」
「え、なんでそんなことを……魔女もラプンツェルに会えないじゃないですか!」
「大切だからこそ、何にも触れさせたくなかったのでしょうね。それに、魔女は一つだけ会う方法を残して置いたのです。魔女は、塔の窓の下でラプンツェルに呼びかけます。
『ラプンツェル、ラプンツェル、おまえの髪を垂らしておくれ』
そうして垂れてきた長い金髪をよじ登って魔女はラプンツェルと会うのです」
「……素敵ですけど、なんだか痛そうです」
「はは、確かにそうですね。……そうして暮らしていると、やがてその塔の前を王子様が通りかかりました。窓から外の世界を見る美女に心を奪われた王子でしたが、彼女に会う方法が分かりません。それでも諦めきれずにその塔を見ていると、魔女が美女の髪を登っていくではありませんか!
……そして、塔の登り方を覚えた王子は、ある夜、語りかけます。
『ラプンツェル、ラプンツェル、おまえの髪を垂らしておくれ』
こうして、王子とラプンツェルは運命の出会いを果たします」
「わぁ、とってもロマンチック!」
「……それで、王子とラプンツェルは毎晩魔女には内緒でこっそり会うようになりまして、ええと、その、【仲良く楽しく】夜をすごし、朝日が昇る前に別れるという生活が続いたんです。それで、その、初めての出会いからしばらくたったある日、魔女が何か足りないものはないか、新しくほしいものはないかとラプンツェルにたずねると、ラプンツェルは『おばあさん、私、最近お洋服がきつくなってきたの』と……」
「…………え? それってまさか」
「……ええ、そのまさか、です。たぶん想像通りですよ」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……あの、なにか言っていただけると……」
マスターが顔を赤くしてうつむいています。たぶん、私も同じくらい顔が赤くなっているでしょう。
え、これ子供向けの童話ですよね?
「……これでも、マイルドにしています。原作はもっと、その、アレでして。おまけに魔女の怒りを買った王子にはエグくてバイオレンスな制裁が……!」
「ストップ! もういいです! 私が悪かったです!」
金髪の女が全く同じセリフを言う。私の髪は肩から胸にかけたくらいの長さ。
彼女ほどでないにせよ、十分に長い範疇に入ります。たぶん、知っていたマスターから見ればまさに彼女のように見えたでしょう。
『お洋服がきつい、責任とって下さい』
ついさっき言った言葉が私の頭に木霊します。
……え? ちょっとまってくださいなんで?
なんでわたしこんなこといったの?
ほんとうにわたしこんなこといったの?
じつはゆめだったりしないの?
え、ぜんぜんそんなことおもってなかったよ?
でもマスターからみればそれはつまり……?
うぇ? ええ!? ええええええええええ!?
「はふぅ………………!」
たぶん、私、耳まで真っ赤。慌てて机に突っ伏しましたが、とてもマスターの顔を見れたものじゃありません。
あ、腕からマスターのにおいする。うふふふふふふふふ。なんかもうどうでもよくなってきました。あははははは。
「おねーさん、どうして今の話で赤くなっているんです?」
「「!?」」
がたっと、私とマスターは同時に椅子から飛び上がりました。いつの間にか、シャリィちゃんがマスターの隣に座っていました。マスターが、口をぱくぱくと動かしています。
「い、一体いつから!?」
「えーと、ラプちゃん閉じ込めたときにはもういましたよ? ココア一つにそんなに時間かかるわけないじゃないですか」
「…………意味、わかった?」
「え、ラプちゃんと王子が毎夜毎夜仲良く楽しくお茶会開いていたんでしょう? 動きもせずにお菓子を毎晩食べてたらそりゃ太りますよ。おねーさんもお菓子の食べ過ぎみたいですし、そういうことでしょう?」
なにを当たり前の事を言っているのだとばかりにシャリィちゃんは首をかしげました。
うん、そうだよね。純真な子どもならそう解釈するよね。
私、いつから純真じゃなくなっちゃったんだろう?
「そ、そうそう、そう言うことなんだよ。そうだ、アミルさん、合気道着がようやく出来ました。あれはゆったりめの服ですし帯で調整するので問題ないですよ!」
「は、はいありがとうございます! け、稽古が楽しみですね!」
「いやぁ、全くその通り! あっはっはっは!」
「うふふふふ!」
「あっはっはっは!」
「うふふふふ!」
「……ヘンな人たち」
なんとか、ごまかしきれたようです。ちらりとマスターとアイコンタクトを取ります。なんだか二人だけの秘密ができたようで、心が軽くなりました。
まだまだ外ではざあざあと雨が降っています。ローブの乾燥も終わっていないようです。いつのまにか私のマグカップも空になっていたので、二杯目の“ほっとここあ”を頼みます。
雨が上がるまで、ここで緑の“じゃーじ”に身を包んでいたい。
ラプンツェルではありませんが、今の私は喫茶店に閉じ込められているのです。いつかは解放されてしまう塔だけれど、それまで私はラプンツェルでいたい。
私の、私だけの王子様とお話していたい。
「……大好きですよ、王子様」
「そうだ、クッキーも出しましょう! こないだ新しいのを作ったんですよ!」
「デザインしたのはあたしですけどね!」
ぽつっと聞こえないように、でも、聞いてほしかった言葉。その小さな言葉は誰の耳にも入らずにかき消えてしまいました。茶髪の王子様は振り返り、金髪の誰かに笑いかけます。
いつか、絶対に聞いてもらうんだ。
ラプンツェルはどうなったのでしょう。塔から出ることはできたのでしょうか。王子と結ばれることはできたのでしょうか。その答えは、聞かない方がいいような気がします。
ざあざあと降りしきる雨の中。私はほぅ、と息をつき、“ほっとここあ”を飲みました。とても、とっても甘いなにかが、私の心に満ちていました。
森の雨が上がるまで。喫茶店に閉じ込められているその間だけ。
今この瞬間だけは、彼女はラプンツェルでいられます。
王子様と仲良くお茶会を開いていられるのです。
だから、お願い。もう少しだけ。
もう少しだけ彼女をラプンツェルでいさせてください。
甘い吐息をつきながら、誰かさんはそっと願います。
ラプンツェルは王子様の香りが仄かにする緑の衣装に身を包み、幸せそうな顔をしてホットココアを飲んでいました。
20160401 文法、形式を含めた改稿。修正するべきところが多くて恥ずかしいよぉ……っ!
高校時代、土砂降りで濡れ鼠になったあとにお家で飲んだあったかいココアがおいしかったなぁ。雨が降っているだけで、いつものやつが最高のごちそうに変わるんだよね。
マスターがお話ししたのはグリム童話のラプンツェル。
マスターがグリム童話を読んでいるっていう伏線、覚えていた人はいるのだろうか。
ラプンツェルの原典は本当に子供には見せられない。
『子供と家庭のための童話』なのにね。これ読み聞かせする大人、どんな気分だったんだろう。
ちなみに版を重ねるごとに少しずつ変わっていってるみたいだから
内容もちょっと違うかも。
あと全く関係ないけど、マスターも男の子。
制服よりもジャージ好き。
……着やすくて動きやすいって意味だよ?




