ナナシ
どこか、遠くの世界で、
名前を持たない少女がいた。
彼女は、親の顔を知らない。
自分の生まれた場所も知らない。
気づいたときにはここにいた。
この店で働いていた。
誰も、彼女に名前をくれる人なんていなかった。
ただ、他の仲間たちにはちゃんと一人ずつ名前があるようで、
最初のうちは、彼女も『名前』にあこがれていた。
しかし、時がたつにつれて、どうでもよくなっていった。
彼女には名前がない。
つまり『名無し』。
長い間そう呼ばれているうちに、それに慣れてしまった。
今さら名前なんてもらったところで、
きっとその名前は誰にも受け入れてもらえない。
自分もきっと、受け入れられない。
なぜなら、彼女はすでに、『名無し』なのだから。
彼女は成長した。
少女は、一人の女性へとかわろうとしていた。
歳はわからないが、18くらいだろう。
彼女はいまだに、その店で働いていた。
「カラン カラン」
店のドアが開いて、一人の若い男が入ってきた。
最近、よく店にやって来る男だ。
彼女は、少し躊躇ってから、その男の注文を聞きに行く。
「ご注文をどうぞ。」
彼女は言った。
「・・・・・君、名前は?」
いつもどおり、その男は彼女の言葉を無視した。
またか、と思いながらも、彼女はいつもどおりにかえす。
「わたしに名前はありません。」
「でも、名前がないといろいろと不便じゃない?」
この質問も、何度目だろうか。
「いえ、特には。」
彼女は短くこたえる。
「君、親はいるの?」
「・・・・・この店の人間に、そのような質問は禁止されていること、ご存知ありませんでしたか?」
「じゃあ、家族は?」
「・・・・・。」
彼女はうんざりしていた。
この男は決まって、他の女が買出しで出払っているこの時間帯に来るのだ。
彼女が黙っていると、男はようやく注文をした。
注文を聞くと彼女はさっさと店の奥に入った。
コーヒーを一杯持って出てきたころには、すでに男は店から消えていた。
あの男は何故こんなにも自分に執着するのだろうか。
彼女は、その男にとても迷惑していた。
買出しを終え、彼女は、店の裏口へと続く細い路地を黙々と歩く。
普段なら数人で行かされる買出しが自分の番だけ一人な理由。
結局いつも同じところにたどり着くのだが、性懲りもなく今日もそんなことを考えながら、大きく重い荷物をかかえて歩いていた彼女の目に。嫌なものが映った。
何故こんなところにいるんだ。
「買出し、君一人なの?」
しかも話しかけてきた。
彼女は『嫌なもの』の存在を無視し、横を通り過ぎようとした。しかし
「待って。」
腕をつかまれた。
「――――――・・・っ、」
彼女はつかんだ手をふりはらい、
「しつこい!!」
そう、叫んだ。
男は少し驚いたように、目を見開いている。
「なんなんだおまえは。いつもいつも・・・、わたしに何の用なんだ!」
思わず口調が崩れる。
「君の名前が知りたくて。」
「だから、わたしに名前など、ないと言っているだろう!?っ、」
叫んで、一度息を吸いなおす。
「・・・・・それにわたしは、名前がないことで、不便などしていない。
わたしは『名無し』だ。それで自分だとわかる。」
「じゃあ、それが君の名前なの?」
「ちがう!!」
彼女は怒鳴り、睨んだ。
「そこは否定するんだ。」
男は笑った。
「わたしは『名無し』だが、わたしの名前は『名無し』じゃない・・・!」
彼女はじっと男を睨み付けた。
男は、何故か嬉しそうだった。
「店にいるときと、随分雰囲気が違うんだね。」
「あそこは店主の目があるからな。」
「君の名前、僕があげようか。」
「・・・・・・は?」
彼女は、両手にかかえ持っていた大きな袋を地面に落とした。
パリーンとかグチャとか嫌な音がして、袋から白い液体(牛乳?)や、透明に黄色の混じったゼリー状のもの(これはたぶん卵)が流れ出てきた。
「・・・・・なにしてるの?」
「おまえのせいだろ!!・・・うわ・・・どうするんだこれ・・・。」
全部、店の金で買ったものだ。
「ほおっておけばいい。」
「手ぶらで店に帰れというのか!?」
「じゃあ帰らなければ?」
「なっ・・・・・」
今度は彼女が彼の腕をつかんでいた。
「店に帰らずどこに行けというんだ。わたしにはあそこしか、帰る場所がないんだ。」
「それなら名前、受け取ってよ。」
男は笑ってそう言った。
「は!?なんでそうなる。わたしには名前など必要ない!」
「どうして?」
「必要性がないから必要がないんだ。今さら名前などもらったところで何になる。
わたしはすでに『名無し』なんだ。」
「なら、それを名前にすればいい。」
「言っただろう!?わたしは『名無し』だがわたしの名前は」
「じゃあ、これでどう?」
名前なんて、どうでもよかったはずだった。
それなのに。
「・・・・・・!」
男の取り出した紙切れに書かれた二文字の漢字。
それをとらえた彼女の目は、確かに輝いていた。
「どう?受け取ってくれる?」
「・・・・・なんでそんなものを持ち歩いているんだ。」
「君に初めて会ったときに思いついたんだ。君に、ぴったりだと思って。これ、あげたかったから。」
「こんなもの・・・・・わたしは・・・」
彼女はこの先もずっと『ナナシ』だ。それはきっと、変えられない。でも、
「これ・・・・・もらってもいいのか?」
「どうぞ。」
「本当に?」
男はうなずいた。
彼女は、名前を手に入れた。
彼女は、『名無し』ではなくなった。
「というわけで、君は僕が引き取ることにするね。」
「は・・・・・?」
またしてもの男の突拍子のない発言に、彼女は拾い上げた袋を再び落とした。
また何かがわれる音がしたが、もうどうでもいい。
「あの店の決まりを知っているだろう?わたしを引き取ることができるのはわたしの親だけだ。」
「でも僕、君の名付け親だし。」
「・・・・・は、親!?親っておまえ、何歳だ。わたしとそんなに歳かわらないだろう。それに、たぶん実の親じゃないと取り合ってくれないと思うぞ。」
「大丈夫。ちょっとここで待ってて。」
そう言って、男は歩いていってしまった。
少しの時間(たぶん数分間くらい)がたって、戻ってきた男は一言「良いって。」と言った。
彼女は、あの店主がこの短い時間でこんなにも簡単に承諾したことに驚いた。
そして彼女は、彼と家族になった。
「へぇ、変わった名前。漢字はどう書くの?」
「菜の花の『菜』に、果物の『梨』。」
もうこの質問にこたえるのにも慣れた。
「じゃあ、ナナちゃんね。」
「・・・・・ナナちゃん・・・?」
そんなふうに呼ばれるのははじめてだ。
「あ、嫌だった?」
「いや・・・じゃあわたしは――・・・咲奈ちゃんのこと、サクちゃんって呼んでもいいか?」
「サクちゃん?なんかそれ微妙に男の子っぽい。」
「え・・・・・!あっ、じゃあ後ろの文字からとって・・・ナナちゃん・・・」
「それじゃあ同じになっちゃうって。」
「あ、そうか。」
「サクちゃんでいいよ。」
「ああ。ありがとう。」
それから適当におしゃべりをして、2人は店から出た。
最近、近くに引っ越してきたらしい咲奈は、彼女と同じくらいの歳の女性だ。
なんどか顔をあわせているうちに親しくなり、今日は偶然店で会ったので二人で喋りながら食事をした。
店に『行く』というのは、いまだに不思議な感じがする。
思えば、あれからもう、一年がたとうとしている。
この一年の間に、僅かだが親しい人もできた。
彼女は、咲奈と共に、帰り道を歩いた。
家に帰ると、彼はソファでくつろいでいた。
彼女は今、彼と、自分と、一人の女性の使用人と三人で暮らしている。
使用人は、使用人といっても給料ももらわず、彼女たちとも普通に会話をし、一緒に食事をし・・・と、もはや使用人ではなく家族の一員だった。
彼女も彼も、人を使うことが嫌いだったからである。
使用人はどうやらどこかに出かけたようで、家には彼一人だった。
「里央はどうした?」
「買出しに行くって言って出て行ったよ。」
「そうか。・・・おまえ、昼はちゃんと食べたのか?」
「うん。君は?」
「わたしは、咲奈――・・・最近、近くに引っ越してきた一人暮らしの女性がいただろう?その子と食べてきた。」
「そう。」
「明日の昼は家で食べるから、おまえと里央の分も作るつもりだ。」
「うん、楽しみにしてる。あれ、じゃあ今日の夜は?」
「今日は里央が作るとはりきっていたぞ?」
「・・・・・・・そう。」
「・・・・・まああれでも一応最近は上達してきたじゃないか。」
「そうだね。」
彼女は彼の横に座った。
「あれ・・・そういえばわたし・・・」
彼女は彼の顔をじっと見つめた。
「どうしたの?」
「いや・・・なんか違和感が・・・なんだろう・・・。」
彼女は考え込んだ。
なにか・・・忘れてる?いや違う。なにかに、気づいていない。
もう、ずっと――――・・・
「菜梨?」
「あ・・・・・れ・・・?わたし・・・」
じっと、彼を見つめる。
「おまえの名前・・・・・知らない・・・?」
彼は、驚いたように目を見開いた。
「わたし・・・知らないよな・・・?おまえの、名前。・・・なんで・・・?もう一年近くもこうして一緒にいるのに。何故わたしはおまえの名前を知らないんだ・・・?何故わたしは、おまえの名前を知らないということにすら、今の今まで気づかないで――・・・」
「菜梨。」
名前を呼んだ彼の目は、真剣だった。
「僕の名前、知りたい?」
そしてどこか、悲しそうだった。
「え――――・・・」
菜梨はなんて答えたらいいのかわからなかった。
彼の――・・・名前・・・。
でも、聞きたい。
教えて欲しい。
彼の、名前。
今の菜梨にとって、名前には特別な意味を持っていた。
もうあのころとは違う。
だから、教えて欲しい。
「・・・・・おし・・・えて・・・?」
搾り出すように小さな問う形の声に、彼はこたえてくれた。
「僕の、名前は――――――・・・」
今でも悔やむ。
どうしてあの時、わたしは名前をきいてしまったのだろう。
一年の間、彼は一度も自分の名前を言わなかった。
その理由を、もっとよく考えるべきだったのに。
わたしには、名前がなかった。
でも彼は、それ以上に――――・・・。
いっそ『名無し』のほうが、どれだけマシだろうか。
彼が異様なほどわたしに執着した理由が、ようやくわかった気がした。
わたしに名前をくれたときの彼の気持ちを考えただけでも心が強く痛む。
それでも、わたしはきいてしまったのだ。
彼の名前を。
その事実は、もう変えようがない。
だから――・・・。
あの日、彼はどこかに消えてしまった。
数年がたったが、あの日からわたしは、彼とは一度も会っていない。
中学生のとき、美術の授業中にいきなり、
『名無し』っていうのが名前だったら『名無し』じゃないよね、
とかいう意味のわからないことを突然思いついたので、
それを小説にしてみました。
名前は日本人っぽいですが、世界観は昔のヨーロッパのほうをイメージして書きました。
なので、実際にはありえない世界ってことで、
『どこか、遠くの世界で、』
という冒頭になってます。