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夜のパン屋さん

作者: 菊池まりな
掲載日:2026/07/04

ひっこしてきて、まだ二週間もたっていない。

段ボールが、まだ三つも部屋のすみに残っている。

ひなたは、その一つに寄りかかって、天井のしみを数えていた。





時計は、もう夜中の一時をまわっていた。

カーテンの隙間から、なにかがちらちら光っている。

オレンジ色の、火みたいな光だった。





サンダルをつっかけて、外に出た。

昼間は工事のトラックが通るだけの、なんでもない路地。

そこに、見たことのない店が、あたりまえの顔をして建っていた。



ドアを押すと、ベルも鳴らずに開いた。

奥から、低い声がした。

「……いらっしゃい」

くまは、ひなたのほうを見もしなかった。





棚には、パンの札が、字もばらばらに手書きされていた。

「言えなかった、ごめん」

「言えなかった、ありがとう」



奥の棚には、値札のないパンもあった。

くまが、ぼそっと言った。

「それは、まだ焼けてない」




「これ、ください」

一番小さいパンを指さすと、くまは無言で紙に包んだ。

レシートも、値段も、何もなかった。




かじると、少しぱさぱさしていた。

おいしくは、なかった。

でも、なんでか、前の学校で最後に話した女の子の、困ったような顔が浮かんだ。




くまは、そのままカウンターを拭いていた。

何も言わなかった。

ひなたも、何も言わなかった。




気がつくと、自分の部屋だった。

カーテンの隙間から、朝の光が入っていた。

手のひらを見ると、パンくずが、ひとつだけ。




教室に入ると、いつもの席に、いつもの子がいた。

一度も、名前を呼んだことのない子。




ひなたは、机のあいだを歩いていった。

心臓が、変な音を立てていた。

「あの」




その子が、顔を上げた。

「……なに?」

ひなたは、少し笑って、隣の椅子を指さした。

「ここ、座っていい?」


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