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悪役令嬢は鳥人間コンテストで空を飛ぶ

作者: ゆすけ
掲載日:2026/05/31

悪役令嬢は鳥人間コンテストにて空を飛ぶ


 まず最初に断っておくが、ベルナデッタ・ド・フォンレーヴ伯爵令嬢――愛称ベル――は、空を飛べる人間ではない。

 空を飛べる人間など、そもそもこの世にひとりもいない。神は人間に翼を授けなかった。だがベルはそれ以前の問題で、地に足のついた生活すらまともにできない人間だった。

 彼女ができることといえば、扇子を優雅に開くこと、お茶会で他人の悪口を蝶のように軽やかに飛ばすこと、そして自分の婚約者が王子であることを、半径三十メートル以内の全人類に知らしめることである。

 つまり、空を飛ぶ素質という観点から見れば、彼女は石ころと大差なかった。むしろ石ころのほうが、投げれば多少は飛ぶぶん、優秀かもしれない。

 そんな彼女が、なぜか、王国で四年に一度開催される鳥人間コンテストに出場することになった。

 この物語は、その経緯と顛末を記録したものである。覚悟して読み進めてほしい。主に、読者の精神的な意味で。


     ◆


 事の発端は、ある晴れた朝のことだった。

 フォンレーヴ伯爵邸の食堂で、ベルは優雅に紅茶を飲んでいた。彼女の優雅さは本物である。そこだけは認めてやらねばならない。背筋はまっすぐ、カップの持ち方は教科書通り、小指の角度に至っては定規で測ったかのようだった。

 問題は、その紅茶がただのお湯に枯れ草を浮かべたものだったという点である。

「お父様、このお茶、香りがしませんわ」

「……うむ。茶葉を売ったのでな」

 ベルの父、フォンレーヴ伯爵は、げっそりとした顔で答えた。最近の彼は、まるで干物のように水分を失っていた。心労というやつである。

「売った? なぜ茶葉を売りますの。我が家には茶葉を買うお金が無限にありますでしょう」

「無限ではない。むしろ、ゼロだ」

「ゼロ……?」

 ベルは小首をかしげた。彼女の脳内には「ゼロ」という概念が存在しなかった。正確には、テストの点数として聞いたことはあったが、所持金として聞いたことはなかった。

 ちなみに、彼女のテストの点数は、しばしばゼロであった。家庭教師は「お嬢様は、白紙の答案に、優雅なサインだけを残す」と嘆いていた。サインだけは、見事だったらしい。

 ここで読者諸君に説明しておかねばならないことがある。フォンレーヴ伯爵家は、没落寸前であった。いや、寸前ですらない。すでに片足、いや両足を棺桶に突っ込んでいる状態であった。残っているのは見栄と、ベルのプライドと、枯れ草の浮いたお湯くらいのものである。

「ベルよ。よく聞きなさい」

 伯爵は、震える手で一枚の紙を取り出した。

「我が家の財政は、もう限界だ。昨日、最後の家臣たちに暇を出した。料理人も、庭師も、御者も、もういない」

「まあ。では、誰がわたくしの髪を結いますの」

「自分で結いなさい」

「……は?」

 ベルは、人生で初めて聞く言葉を聞いたかのような顔をした。実際、初めて聞いたのだろう。「自分で結う」という動詞の組み合わせは、彼女の十七年の人生において一度も使用されたことがなかった。

 ちなみに彼女は、自分で髪を結う方法を知らない。靴紐を結ぶ方法も知らない。なんなら、自分でドアを開けたこともあまりない。彼女の指は、扇子を開くためだけに進化した特殊な器官だった。

「お父様、それは困りますわ。来月には王子様とのお茶会がございますのよ。みすぼらしい姿で行けば、社交界の笑いものになってしまいますわ」

「ベル。お茶会どころではないのだ」

 伯爵は、ついに核心に触れた。

「このままでは、王子殿下との婚約は……破棄される」

 その瞬間、ベルの手からカップが滑り落ちた。枯れ草入りのお湯が、彼女の高価な――いや、もう高価ではない、三年前に高価だった――ドレスにぶちまけられた。

 だが彼女はそれに気づかなかった。それどころではなかったからだ。

「婚約破棄……ですって……?」

 声が震えていた。

 ここで、彼女の名誉のために、いや不名誉のために正確に記しておこう。彼女が震えたのは、愛する婚約者を失うからではない。そもそも彼女は王子ジェラルドを愛してなどいない。会ったのは生涯で三回、そのうち二回は遠くから見ただけである。

 彼女が震えた理由は、ただひとつ。


「婚約破棄されたら……社交界の皆様に、馬鹿にされてしまいますわ……!」


 である。

 彼女はこれまで、あらゆるお茶会で、あらゆる夜会で、あらゆる場所で、「わたくし、王子様の婚約者ですのよ」と自慢してきた。会う人会う人に言ってきた。下手をすれば、すれ違った通行人にまで言っていた。

 それが破棄されたとあっては、彼女のプライドは木っ端微塵である。あれだけ自慢したのだ。今さら「婚約、無くなりましたの」とは口が裂けても言えない。

 ……ところで、賢明な読者諸君はすでにお気づきだろう。

 彼女は重大な事実を見落としている。

 家が没落すれば、そもそも社交界に出られない。お茶会にも夜会にも呼ばれない。馬鹿にされる以前に、馬鹿にする相手と顔を合わせる機会が消滅するのだ。

 だが彼女はそこに気づいていない。気づく頭脳があれば、そもそもこんな状況にはなっていない。

「お父様! 何とかしてくださいまし! お金を、お金を作ってくださいまし!」

「作れるものなら、とっくに作っておる」

 伯爵は遠い目をした。

 そして、ぽつりと言った。

「……ひとつだけ、方法がなくもない」

「まあ! なんですの!」

「鳥人間コンテストだ」

 ベルは固まった。

 今、父は何と言った。鳥? 人間? コンテスト?

「鳥人間……コンテスト……?」

「四年に一度、王国が主催する大会だ。自作の飛行装置で、どれだけ遠くまで飛べるかを競う。優勝賞金は――金貨五千枚」

「ご……五千枚……!」

 その金額に、ベルの目の色が変わった。金貨五千枚あれば、家は建て直せる。茶葉も買える。家臣も雇い直せる。何より、婚約破棄を回避できるかもしれない。

「で、では、お父様が出場なさるのですね!」

「無理だ。わしは腰が悪い」

「では、誰が」

 伯爵は、ゆっくりと、娘の顔を見た。

 その視線の意味を理解するのに、ベルは三秒かかった。

「……まさか」

「お前しかおらん」

「いやですわ────ッ!!」


 こうして、ベルナデッタ・ド・フォンレーヴ伯爵令嬢の、空への戦いが始まった。

 始まってしまった。

 誰も止められなかった。神も止められなかった。なぜなら神は、人間に翼を授けなかったことをすでに後悔し、関わりたくなかったからである。


     ◆


 翌日、フォンレーヴ伯爵邸の裏庭に、ひとりの少女がやってきた。

 年の頃はベルと同じくらい。だが、まとっている空気はまるで違う。日に焼けた肌、たくましい腕、油と木屑の匂い。手には大きな道具箱を提げ、肩には木材を担いでいる。

 名を、ハンナといった。

 大工――いや、本人いわく「家具と建具と、ついでに何でも作る職人」――の見習いである。父が、最後のなけなしの金で雇った、飛行装置の製作者であった。

「あんたが、依頼人のお嬢様?」

 ハンナは、ベルを上から下まで眺めると、心底どうでもよさそうな顔で言った。

「いかにも。わたくしがベルナデッタ・ド・フォンレーヴですわ。以後、お見知りおきを」

 ベルは扇子を開き、優雅に名乗った。なお、扇子はもう売り払われていたので、彼女が開いたのは折りたたんだ給仕用のナプキンである。本人は気づいていない。

「ふうん」

 ハンナの反応は、それだけだった。

 ベルはぴくりと眉を動かした。彼女の名乗りに対して「ふうん」で済ませた人間は、生涯で初めてである。普通はここで「まあ、あの高名なフォンレーヴ家の!」とか「なんとお美しい!」とか言うものだ。少なくとも彼女の脳内辞書ではそうなっている。

「あの、わたくし、フォンレーヴ家の――」

「聞いた。お嬢様だろ。で、飛行機作るんだろ。話、進めていい?」

 ハンナは道具箱を地面に置き、さっそく木材を並べ始めた。無駄のない動作だった。

 ここで、ハンナという人物について説明しておこう。

 彼女は、腕が良かった。それも、ただ良いのではない。図抜けて良かった。十二歳のとき、彼女が作った椅子は、座った貴族が「雲の上に座っているようだ」と評したという。十四歳のとき、彼女が修理した水車は、それまでの二倍の効率で回ったという。

 だが、彼女には致命的な欠点があった。

 女だった。

 いや、欠点ではない。欠点ではないのだが、この時代この国において、職人の世界では「女である」というだけで、すべての腕が無かったことにされた。彼女がどれだけ優れた家具を作っても、客は「親方が作ったんだろう」と言った。彼女がどれだけ精密な設計図を引いても、同僚は「女に図面が引けるか」と笑った。

 その結果、彼女は達観していた。

 他人に期待しない。評価されることを期待しない。世界はそういうものだと、十六歳にして悟りきっていた。

 ただし――そんな彼女の心の奥底には、煮えたぎるマグマのような感情があった。

 負けず嫌いである。

 達観の仮面の下で、彼女は誰よりも悔しがり、誰よりも勝ちたがっていた。この鳥人間コンテストに参加を決めたのも、半分は金のため、もう半分は――「女に何ができる」と言ってきた世界の全員に、空のてっぺんから唾を吐きかけてやりたかったからである。

 つまり、ベルとハンナは、ある一点で奇妙に似ていた。

 二人とも、目的が「見返すこと」だったのだ。

 ただし、ベルの「見返したい相手」が架空の社交界の人々であり、ハンナの「見返したい相手」が現実の世界全体である、という点で、その動機の格は天と地ほど違ったのだが。

「お嬢様、ちょっとこれ持ってて」

「は? わたくしが、ですの?」

「他に誰がいる」

 ハンナは、長い木材の端をベルに押しつけた。

 ベルは、生まれて初めて木材を持った。

 重かった。

 そして、汚かった。

 彼女の白い手が、たちまち木屑だらけになった。

「きゃあああっ! 何ですのこれ! 手が! わたくしの手が!」

「木だよ。木材。飛行機の材料」

「こんな汚いもの、触れませんわ! お父様にやらせて――いえ、お父様は腰が――では家臣に――いえ、家臣はもう――」

「いないんだろ。だから、あんたがやるんだよ」

 ハンナは淡々と言った。

「これから三ヶ月、嫌でも木と泥にまみれてもらう。覚悟しといて、お嬢様」

 ベルは、その日初めて、自分が足を踏み入れた世界の深さを知った。

 ちなみに、まだ足の指一本ぶんも踏み入れていない。本番はこれからである。


     ◆


 飛行装置の製作は、想像を絶する地獄だった。

 ベルにとっては、である。ハンナにとっては、ただの日常だった。

 まず、ベルは何もできなかった。本当に、何もできなかった。

 木材を運ばせれば落とす。釘を打たせれば自分の指を打つ。設計図を見せても「これは何かの暗号ですの?」と真顔で尋ねる。ノコギリを渡せば、それを扇子のように優雅に扱おうとして、危うく自分の前髪を切り落としそうになった。

「お嬢様。お願いだから、座っててくれない?」

「な、何ですの。わたくしだって役に立ちますわ」

「立ってない。マイナスだ。今のところマイナス十くらい役に立ってない」

 ハンナの言葉は容赦がなかった。だが正確だった。

 ある日、ベルは「お掃除くらいなら」と言って、工具箱の整理を買って出た。ハンナが少し席を外した隙のことである。

 戻ってきたハンナは、絶句した。

 工具箱の中身が、大きさ順に、美しく並べ替えられていた。

「お嬢様……これ、あんたが?」

「ええ! 美しく整えましたわ! ごちゃごちゃしていて、見苦しかったので」

「……あのな。あたしは、よく使う順に並べてたんだ。一番上にあったやつが、一番使うやつだったんだよ。これじゃ、毎回、全部ひっくり返さなきゃならない」

「まあ。でも、美しいですわよね?」

「美しさで木は切れないんだよ!」

 ハンナは頭を抱えた。

 またある日、ベルは「お役に立ちたい」と言って、ハンナが下書きした設計図を、清書しようとした。

 結果、彼女は、設計図の余白に、優雅な花の模様と、フォンレーヴ家の家紋を、びっしりと描き込んだ。

 肝心の寸法の数字は、花の蔓に隠れて、半分読めなくなっていた。

「お嬢様……これ……」

「いかがかしら! 殺風景でしたので、彩りを添えましたの! 飛行機にも、美意識は必要ですわ!」

「美意識の前に、数字が読めることが必要なんだよ!」

 ハンナは、その設計図を、最初から引き直す羽目になった。

 こうして、ベルの「お役立ち」は、ことごとく、ハンナの仕事を増やしていった。

 彼女は、まさに、歩く厄災であった。それも、善意の厄災である。悪意なら防ぎようもあるが、善意の厄災ほど、防ぎようのないものはない。

 それでもベルは、文句を言いながらも、現場に居続けた。

 なぜか。

 答えは単純である。彼女には、他に行く場所がなかったからだ。

 屋敷には何もない。お茶会の招待状も来ない(没落の噂はすでに社交界を駆け巡っていた)。友人だと思っていた令嬢たちは、潮が引くように離れていった。父は腰を抱えてうずくまっている。

 残されたのは、油と木屑の匂いがする裏庭と、口の悪い職人の少女だけだった。

「ハンナ、わたくし、もう疲れましたわ」

「まだ何もしてないだろ」

「文句を言うのに疲れましたの」

「それは疲れるだろうな。一日中言ってるもんな」

 ベルは、製作途中の機体の骨組みに寄りかかった。

 夕暮れだった。空がオレンジ色に染まっていた。

「ねえ、ハンナ」

「何」

「これ、本当に飛びますの?」

 ハンナは、手を止めなかった。木材に鉋をかけながら、ぽつりと答えた。

「飛ばす」

「飛ぶ、ではなくて?」

「飛ぶ、じゃない。飛ばす。あたしが」

 その横顔には、ベルが今まで見たことのない種類の真剣さがあった。

 お茶会で見る、作り笑いの令嬢たちとは違う。

 夜会で見る、退屈そうな貴族たちとも違う。

 何かを、本気で、心の底から作ろうとしている人間の顔だった。

 ベルは、なぜか、その横顔から目を離せなかった。

「……ハンナは、どうして、そんなに本気になれますの?」

「あ?」

「だって、これ、お金のためでしょう。お金が手に入れば、それでいいのでは?」

 ハンナは、鉋を止めた。

 しばらく黙ってから、彼女は言った。

「あたしはさ。女だから、って理由で、ずっと馬鹿にされてきた」

「……」

「どんなに良い物を作っても、誰も認めない。『どうせ親方が作った』『女に技術がわかるか』。何百回言われたか、もう覚えてない」

 ハンナは、製作中の機体を見上げた。

「でも、空ってのはさ。男も女も関係ない。飛んだ距離だけが、結果になる。誤魔化しがきかない。あたしの作った物が本物かどうか、空が証明してくれる」

 そして、彼女は笑った。

 初めて見る、本物の笑顔だった。

「だから、あたしは本気なんだ。あんたにはわかんないだろうけどね、お嬢様」

 ベルは、何も言い返せなかった。

 いつもなら、ここで気の利いた嫌味のひとつも言うところだ。だが、言葉が出てこなかった。

 代わりに、胸の奥が、なぜか、ちりちりと焦げるような感覚があった。

 それが何なのか、このときの彼女には、まだわからなかった。


     ◆


 翌日から、ベルは少しだけ変わった。

 ほんの少しだけ、である。期待してはいけない。

 彼女は、木材を運ぶとき、落とす回数が一日十回から八回に減った。

 釘を打つとき、自分の指を打つ確率が三回に一回から四回に一回に下がった。

 これは、彼女にとっては大進歩であった。ハンナにとっては「まだマイナス八くらい」であった。

「お嬢様、それ、逆さま」

「えっ」

「持ってる板。逆さま。ずっと逆さま。さっきから逆さま」

「……」

 ベルは、無言で板をひっくり返した。

 だが、彼女は確かに、現場に居続けた。文句を言いながら。指を打ちながら。板を逆さに持ちながら。

 ある日、ベルは、ハンナが昼食を食べていないことに気づいた。

「ハンナ、お昼は?」

「あとでいい。今、ここの接合部が大事なところだから」

 ベルは、しばらく考えた。

 そして、屋敷に戻り、台所に立った。

 なお、彼女は料理をしたことがない。火の起こし方すら知らない。

 結果、台所からは黒煙が上がり、ベルは煤だらけになって裏庭に戻ってきた。手には、炭化した何かを乗せた皿を持っていた。

「これ……パンを焼こうと……思いましたの」

 それは、もはやパンではなかった。考古学的価値のある何かだった。

 ハンナは、しばらくそれを見つめてから、ぷっと吹き出した。

「あんた、本当に何もできないんだな」

「し、失礼な! やる気はありましたのよ!」

「やる気だけはな」

 ハンナは、その炭を一口かじった。

 そして、思い切り顔をしかめた。

「……まずい」

「でしょうね!」

「でも」

 ハンナは、もう一口かじった。

「あんたが作ったって思うと、ちょっとおもしろい味がする」

 ベルは、なぜか、顔が熱くなった。

 それは、炭の煙のせいではなかった。


     ◆


 製作は、遅々として進みつつも、着実に進んだ。

 骨組みができ、翼の形が見え始めた。ハンナの設計は見事だった。彼女は、鳥の翼を何百時間も観察し、空気の流れを計算し、軽さと強度を両立させる構造を編み出していた。

 ベルには、その凄さがだんだんわかってきた。

 最初は「ただの木の塊」にしか見えなかったものが、今では「空を夢見る何か」に見える。

「ハンナ。これ、すごいですわね」

「今頃気づいたのか」

「だって、最初はただの木の塊に――」

「言うな。言うな、それ以上」

 ハンナは耳を塞いだ。

 二人の間には、いつの間にか、奇妙な信頼が芽生えていた。

 主従ではない。雇い主と雇われ人でもない。

 強いて言うなら――共犯者だった。

 無謀な夢に挑む、二人の共犯者である。

 ある日、ハンナが言った。

「お嬢様。ひとつ、言っておかなきゃいけないことがある」

「何ですの?」

「この飛行機、人力なんだ」

「じんりき?」

「人の力で飛ばす。プロペラを回すために、ペダルを漕ぐ」

「ペダルを……漕ぐ……?」

「そう」

 ハンナは、機体の中央を指差した。

 そこには、自転車のような座席と、ペダルがあった。

「で、漕ぐのは――あんただ」

「……は?」

 ベルの時間が止まった。

「ま、待ってくださいまし。漕ぐ? わたくしが? このペダルを?」

「他に誰が漕ぐんだよ。あたしは地上で見てなきゃいけないし、そもそも飛ぶのは出場選手だろ。出場選手は、あんただ」

「いやですわ! 漕ぐなんて、はしたない! 令嬢が脚を動かすなんて!」

「じゃあ飛ばないけど」

「……」

「飛ばなきゃ、優勝賞金も無い。家も建て直せない。婚約破棄まっしぐら」

 ベルは、ぐっと言葉に詰まった。

 そして、覚悟を決めた、わけではなかった。

 ただ、他に選択肢が無かっただけである。だが、それでも前に進むのが、人生というものだ。

「……わ、わかりましたわ。漕ぎますわ。漕げばいいのでしょう」

「いい返事だ。じゃあ、今日から脚を鍛えるぞ」

「……は?」

「人力飛行機ってのは、脚力が全てなんだ。あんたの細い脚じゃ、十秒も持たない。だから、鍛える」

 こうして、令嬢ベルナデッタの、過酷な肉体改造が始まった。


     ◆


 翌朝、ベルは裏庭で、ハンナの号令のもと、走らされていた。

「あと十周!」

「む、無理ですわ! もう、脚が!」

「貴族のくせに、それくらいで音を上げるな!」

「貴族だからですわ! 貴族は走りませんの!」

 ベルは、ドレスの裾をたくし上げ、無様に走った。

 彼女がこんなに走ったのは、生涯で初めてである。これまでの最長記録は、お茶会で出された限定スイーツに向かって早歩きした五メートルであった。

 走った。

 転んだ。

 泥にまみれた。

 起き上がった。

 また走った。

 また転んだ。

 その繰り返しだった。

 特訓には、走り込みのほかにも、さまざまなメニューがあった。

 ハンナは、どこからか古い樽を二つ調達してきて、それを両手に持たせ、スクワットをさせた。

「あと五十回!」

「ご、五十! 今、何回目ですの!?」

「三回目」

「先は長いですわね────ッ!!」

 ベルの脚は、初日にして、立てなくなった。

 翌日、彼女は、廊下を四つん這いで移動した。

 それを見た父・フォンレーヴ伯爵は、娘がついに発狂したのかと思い、医者を呼ぼうとした(なお、医者を呼ぶ金もなかったので、呼べなかった)。

「お父様、ご心配なく。筋肉痛ですの」

「き、筋肉痛だと? お前が? 扇子より重いものを持ったことのないお前が?」

「ええ。樽を持ちましたの。二つも」

 伯爵は、目を白黒させた。

 彼の知る娘は、こんな人間ではなかった。指一本動かすのも億劫がり、髪を結わせるのに侍女を三人使うような娘だった。

 それが、四つん這いで、筋肉痛を、誇らしげに語っている。

 伯爵は、なぜか、目頭が熱くなった。

「ベルよ……お前は……変わったな……」

「あら。まだ変わっておりませんわ。これから変わりますの。見ていてくださいまし」

 ベルは、四つん這いのまま、にっこりと笑った。

 その姿は、どこからどう見ても、すでに変わった後だったのだが、本人だけは気づいていなかった。

 さらに、ハンナは、ベルに「鶏を追いかける」という謎の特訓を課した。

「鶏? なぜ鶏を追いかけますの?」

「敏捷性を鍛えるためだ。それに、捕まえたら、夕飯になる」

「実利的ですわね!」

 ベルは、裏庭で、鶏を追いかけ回した。

 鶏は、想像以上に、すばしっこかった。

 ベルは、何度も転び、何度も泥にダイブし、一度は鶏に逆に追いかけられた。令嬢が鶏に追いかけられて裏庭を全力疾走する光景は、控えめに言って、地獄であった。

 結局、彼女が鶏を捕まえることは、特訓期間中、一度もなかった。

 だが、その代わり、彼女の脚は、確実に速くなっていった。

 それと、鶏との間に、奇妙な友情のようなものが芽生えた。彼女はその鶏に「ピエール」という名前をつけ、捕まえるのをやめ、毎朝、餌をやるようになった。

「ハンナ、ピエールが、今日も逃げましたわ」

「もう捕まえる気ないだろ、あんた」

「ええ。あの子、賢いんですもの。捕まえるのは忍びないですわ」

「特訓の意味……」

 ハンナは、もう、ツッコむのを諦めた。

 彼女のドレスは、もはやドレスの原形をとどめていなかった。泥と汗と木屑にまみれ、ところどころ破れ、貴族令嬢の衣装というより、戦場帰りの何かのようだった。

 だが、不思議なことに。

 彼女は、笑っていた。

 いつからか、笑うようになっていた。

 走って、転んで、泥まみれになって、それでも起き上がる。その繰り返しの中に、彼女は、今まで知らなかった何かを見出していた。

 それは――達成感、というものだった。

 お茶会で誰かを言い負かしたときの優越感とは違う。

 ドレスを褒められたときの満足感とも違う。

 自分の脚で、自分の力で、何かを成し遂げる。その手応え。

 彼女は、生まれて初めて、本気で何かに取り組んでいた。

「ハンナ! 見て! 十周、走りましたわ!」

「おう。明日は十五周な」

「鬼ですの!?」

 だが、その声は、どこか弾んでいた。


     ◆


 日々は過ぎていった。

 ベルの脚は、少しずつ筋肉がつき始めた。最初は十秒も漕げなかったペダルを、一分、三分、五分と漕げるようになっていった。

 彼女の手は、もう白くなかった。豆ができ、たこができ、傷だらけになった。

 ある日、彼女は、自分の手をじっと見つめた。

「ハンナ。わたくしの手、ひどい有様ですわね」

「ああ。職人の手だな」

「職人の……」

「いい手だよ。それ」

 ハンナは、さらりと言った。

 ベルは、その言葉を、なぜか、宝物のように胸にしまった。

 お茶会で百回褒められた「美しい手」よりも、ハンナの「いい手だ」のほうが、ずっと嬉しかった。

 彼女は、変わりつつあった。

 いや、もう変わっていた。

 あれだけ気にしていた社交界のことを、最近はあまり考えなくなっていた。

 あれだけ恐れていた婚約破棄のことも、いつの間にか、頭の片隅に追いやられていた。

 代わりに、彼女の頭を占めているのは――

「ハンナ! 今日は何をしますの!?」

「翼の調整だ。微妙な角度が、飛距離を左右する」

「教えてくださいまし! わたくし、覚えたいですわ!」

 飛ぶこと。

 ただ、それだけだった。


     ◆


 ある晩のことだった。

 ベルとハンナは、完成に近づいた機体を眺めながら、星空の下で休んでいた。

 機体には、名前がつけられていた。

 ベルが名付けた。

「《フォンレーヴ号》ですわ!」

 ハンナは「ダサい」と言ったが、ベルが「フォンレーヴ家の誇りですのよ!」と譲らなかったので、そのまま採用された。なお、フォンレーヴ家はもう誇るものが何も残っていないのだが、その事実は機体の前では伏せられた。

「ねえ、ハンナ」

「ん?」

「わたくし、最初、この話を聞いたとき、心の底から嫌でしたの」

「知ってる。一日中『いやですわ』って言ってたもんな」

「ええ。でも、今は」

 ベルは、星空を見上げた。

「今は、飛ぶのが、楽しみですの」

 ハンナは、ちらりとベルを見た。

 そして、ふっと笑った。

「変わったな、あんた」

「そうかしら?」

「ああ。最初に会ったときは、ただのうるさい令嬢だった。今は――」

「今は?」

「ただのうるさい職人見習いだ」

「まあ! 失礼な! ……でも」

 ベルは、くすりと笑った。

「悪くない響きですわね」

 二人は、しばらく、星空を眺めていた。

 明日は、いよいよ、最後の調整。

 そして、その三日後が――本番だった。


     ◆


 鳥人間コンテスト当日。

 会場は、王都の外れにある巨大な湖だった。湖に向かって、高さ十メートルほどの木製の滑空台が突き出している。出場者は、その台の先端から、湖に向かって飛び立つのだ。

 会場には、王国中から集まった見物人で溢れかえっていた。屋台が並び、楽団が演奏し、お祭りのような熱気に包まれている。

 そして、出場者たちもまた、王国中から集まっていた。

 出場者の中には、本気の者もいれば、明らかにふざけている者もいた。

 ある男爵は、巨大な鳥の着ぐるみを着て、翼をパタパタさせるだけの「装置」で出場しようとしていた。係員に「それは装置ではなく、仮装です」と止められていた。

 ある商人は、無数の風船を体に括りつけて飛ぼうとしていた。「これは浮力を利用した革新的飛行法だ」と主張していたが、風船が一個割れるたびに悲鳴を上げていた。

 ある詩人は、機体に乗りもせず、滑空台の先端で「我、風になりて空を舞わん」と朗々と詩を詠み上げ、そのまま湖にダイブして、ただ泳いで帰ってきた。記録は、ゼロメートルであった。本人は満足げだった。

「ハンナ……この大会、本当に大丈夫ですの?」

「四年に一度だからな。変なやつも全部集まってくる。けど――」

 ハンナは、会場の一角を指差した。

「本物も、集まってくる」

 その顔ぶれを見て、ベルは青ざめた。

「ハンナ……あれ、見て」

 ベルが指差した先には、立派な飛行装置が並んでいた。

 どれも、《フォンレーヴ号》より、はるかに豪華で、はるかに精密だった。

「あれは、ヴェルダン侯爵家の機体だ」

 ハンナが、苦々しげに言った。

「侯爵家お抱えの技術者が、三年かけて作ったって噂だ。資金も、人手も、桁違い。あっちは、五十人がかりで作ってる」

「五十人……」

 ベルは、自分たちの機体を見た。

 二人で作った、手作りの機体。

 翼には、ベルが指を打ちながら打った釘の跡が、あちこちに残っている。

 あまりにも、貧弱に見えた。

 あまりにも、勝ち目がなさそうに見えた。

 ベルの心に、久しぶりに、あの感覚が蘇った。

 恐怖である。

 馬鹿にされることへの、恐怖。

 惨めな姿を、大勢の前で晒すことへの、恐怖。

「ハンナ……わたくし、やっぱり――」

 そのときだった。

 近くにいた、ヴェルダン侯爵家の技術者たちの声が、聞こえてきた。

「おい、見ろよ。あれ、フォンレーヴ家のおんぼろだろ」

「ああ、あの没落寸前の。賞金目当てで出てきたらしいぜ」

「しかも、漕ぐのは令嬢だってよ。あの、自慢ばっかりの。あれだろ、王子に婚約破棄されかけてる」

「ぷっ。令嬢が脚を動かして飛ぶのか? 似合わねえ」

「だいたい、女が作った機体なんざ、飛ぶわけねえだろ。隣の職人見習いも女らしいぜ」

「女ふたりで空を飛ぶ? おとぎ話の見過ぎだろ」

 どっと、笑い声が起きた。

 ベルは、ぎゅっと拳を握った。

 怒りで、ではなかった。

 いや、怒りも、あった。

 だが、それ以上に。

 彼女は、ハンナの横顔を見た。

 ハンナは、無表情だった。

 達観した、いつもの仮面をかぶっていた。

 だが、ベルにはわかった。

 その拳が、震えていることに。

 その仮面の下で、ハンナが、何百回も言われてきた言葉を、また聞いていることに。

 その瞬間、ベルの中で、何かが切り替わった。

 恐怖が、消えた。

 代わりに湧き上がってきたのは――

「失礼な人たちですわね」

 ベルは、つかつかと、技術者たちの前に歩み出た。

 泥まみれのドレスで。傷だらけの手で。豆だらけの脚で。

 だが、その背筋は、令嬢として培われた、完璧なまっすぐさだった。

「お、おう、なんだ、お嬢ちゃん」

「わたくし、ベルナデッタ・ド・フォンレーヴと申しますわ」

 彼女は、給仕用ナプキン――もとい、扇子のつもりのナプキンを、優雅に開いた。

「ひとつ、教えて差し上げますわ。あなた方は、五十人で、三年かけて、あの機体を作ったそうですわね」

「ああ、そうだが」

「わたくしたちは、二人で、三ヶ月で、この機体を作りましたの」

 ベルは、ナプキンの先で、ヴェルダン家の豪華な機体を指した。

「五十人で三年かけても、たった二人の三ヶ月に勝てるかどうか、ひやひやしていらっしゃるのね。だから、わざわざ大声で、わたくしたちを笑うのね。可哀想に」

 技術者たちの顔が、引きつった。

「な――」

「あら、図星でしたかしら? わたくし、社交界で鍛えた嫌味だけは、一級品ですのよ。家は没落しましたけれど、舌は健在ですわ。おーほっほっほ!」

 高笑いが、湖畔に響き渡った。

 技術者の一人が、顔を真っ赤にして言い返した。

「な、生意気な! お前たちのおんぼろなど、滑空台から落ちて、即墜落するに決まっている!」

「あら。落ちるかどうかは、空が決めますわ。あなたが決めることでは、ありませんことよ」

「ぐっ……!」

「それに」

 ベルは、ナプキンの先を、ぴたりと、相手の鼻先に突きつけた。

「もし、わたくしたちが、あなた方より一機でも上の順位だったら――どうなさいますの? あれだけ笑っておいて、女ふたりのおんぼろに負けたら。さぞ、お顔が立ちませんわよねえ?」

 技術者たちは、ぐっと、黙り込んだ。

「ま、そんなこと、あるわけないと思っていらっしゃるなら、お気になさらず。ご健闘を、お祈りしておりますわ。おーほっほっほ!」

 それは、これまでの彼女の、誰かを見下すための高笑いとは、違った。

 大切な相棒のために、放たれた高笑いだった。

 ベルは、くるりと背を向け、ハンナのもとへ戻った。

 ハンナは、ぽかんとしていた。

「……あんた」

「ハンナ。飛びましょう」

 ベルは、にっこりと笑った。

「あの人たちの、鼻を明かしてやりますわよ。あなたの作った機体が、本物だってこと。空に、証明してもらいましょう」

 ハンナの目が、見開かれた。

 そして、彼女は、笑った。

 くしゃっと、泣きそうな顔で、笑った。

「……ああ。飛ばそう。空のてっぺんまで」


     ◆


 出場順が、回ってきた。

 《フォンレーヴ号》が、滑空台の先端に運ばれる。

 ベルは、座席に座り、ペダルに足をかけた。

 眼下には、青く広がる湖。

 十メートル下の水面が、きらきらと光っている。

「……高いですわね」

「今さら怖気づくなよ」

「怖気づいてなどいませんわ。ただ、事実を述べただけですの。高い、と」

 ハンナは、機体の最終チェックをしながら、言った。

「いいか、お嬢様。飛び出したら、とにかく漕げ。死ぬ気で漕げ。ペダルを止めたら、即落ちる」

「わかってますわ」

「翼の角度は、あたしが調整した通りだ。あんたは、ただ漕ぐことだけ考えろ」

「ええ」

「それと――」

 ハンナは、一瞬、言葉を止めた。

「無事に、帰ってこい」

 ベルは、にっこりと笑った。

「もちろんですわ。わたくし、まだ、あなたの作ったパンを食べていませんもの」

「……あれは、あんたが作った炭だろ」

「あら、そうでしたかしら」

 二人は、笑った。

 そして、ハンナは、機体から離れた。

 係員が、合図の旗を上げた。

「フォンレーヴ家、《フォンレーヴ号》! 用意!」

 ベルは、ペダルを握る足に、力を込めた。

 心臓が、早鐘のように打っていた。

 恐怖、ではなかった。

 武者震いだった。

 彼女は、この瞬間のために、三ヶ月間、走り、転び、泥にまみれ、指を打ち、炭のパンを焼いてきたのだ。

 会場の喧騒が、遠のいた。

 聞こえるのは、自分の鼓動と、風の音だけ。

「スタート!」

 旗が、振り下ろされた。

 ベルは、ペダルを、力いっぱい踏み込んだ。

 《フォンレーヴ号》が、滑空台を駆け下りる。

 そして――

 台の先端から、飛び出した。


     ◆


 空が、あった。

 眼下には湖。頭上には青空。

 《フォンレーヴ号》は、翼に風をはらみ、ふわりと浮き上がった。

 落ちなかった。

 落ちなかったのだ。

「と……飛んでますわ……!」

 ベルは、叫んだ。

 ハンナの設計は、本物だった。手作りの、貧弱に見えた機体は、確かに、空を飛んでいた。

「漕いで! お嬢様! 漕ぎ続けろ!」

 地上から、ハンナの声が聞こえた。

 ベルは、我に返り、ペダルを必死に漕いだ。

 死ぬ気で、漕いだ。

 脚が、燃えるように熱い。

 肺が、悲鳴を上げている。

 汗が、額から滝のように流れる。

 貴族令嬢の優雅さなど、どこにもなかった。

 あったのは、ただ、ひたむきに前へ進もうとする、ひとりの人間の姿だけだった。

「漕げ! 漕げ! 漕げぇ!」

「漕いでますわ────ッ!!」

 ベルの形相は、もはや令嬢のそれではなかった。

 歯を食いしばり、目を血走らせ、髪を振り乱し、鬼のような顔で、ペダルを踏み込んでいた。

 その姿は、お世辞にも美しいとは言えなかった。

 いや、はっきり言おう。ひどい顔だった。

 社交界の令嬢たちが見たら、卒倒するような顔だった。

 だが。

 その姿は、誰よりも――生きていた。

 《フォンレーヴ号》は、湖の上を、ぐんぐんと進んだ。

 会場が、どよめいた。

 「飛んでる」「あのおんぼろが」「令嬢が漕いでるぞ」「すげえ顔だ」――様々な声が、地上から上がった。

 地上では、あの技術者たちが、青ざめた顔で、空を見上げていた。

「お、おい……あれ、まだ落ちないぞ……」

「ば、馬鹿な……女ふたりのおんぼろが……」

 彼らの自慢の機体は、確かに、立派だった。だが、立派なだけでは、人の心は動かない。

 観客たちの目は、もはや、豪華なヴェルダン家の機体にではなく、泥まみれの令嬢が必死に漕ぐ、おんぼろの《フォンレーヴ号》に、釘付けになっていた。

 ベルは、漕いだ。

 ただ、漕いだ。

 風が、頬を撫でる。

 太陽が、背中を温める。

 彼女は、空を、飛んでいた。

 生まれて初めて、自分の力で、空を飛んでいた。

 眼下に広がる湖が、鏡のように、空を映している。

 その境界が、どこにあるのか、わからなくなるほど、世界は、青く、澄んでいた。

 彼女は、その青の中を、一羽の鳥のように、進んでいく。

 いや――鳥よりも、無様だったかもしれない。

 歯を食いしばり、髪を振り乱し、汗だくで、鬼の形相で漕ぐ姿は、どんな鳥にも似ていなかった。

 だが、その不格好な飛翔は、どんな優雅な鳥の滑空よりも、美しかった。

 なぜなら、そこには、本気があったからだ。

 そのとき、彼女は、悟った。

 ああ、これだったのか、と。

 ハンナが言っていた「本気」とは。

 自分の力で、何かを成し遂げる喜びとは。

 社交界の称賛も、王子との婚約も、ドレスも、扇子も、何もいらない。

 今、この瞬間。

 空を飛んでいる、この瞬間こそが――

 彼女が、本当に欲しかったものだった。

「ハンナ────ッ! 飛んでますわよ────ッ! あなたの機体が! 空を飛んでますわ────ッ!!」

 ベルは、涙を流しながら、叫んだ。

 地上で、ハンナも、叫んでいた。

「ああ! 飛んでる! あたしの機体が! 飛んでるぞ────ッ!!」

 二人の声は、空と地で、確かに、響き合った。


     ◆


 《フォンレーヴ号》は、飛んだ。

 飛んで、飛んで、飛び続けて――

 そして、力尽きた。

 ベルの脚が、限界を迎えたのだ。三ヶ月の特訓も、貴族令嬢の脚を、プロの選手の脚には変えられなかった。

 ペダルが、止まった。

 《フォンレーヴ号》は、ゆっくりと、高度を下げ始めた。

「あ……」

 ベルの目に、迫り来る水面が映った。

 次の瞬間。

 ばっしゃあああんっ!!

 《フォンレーヴ号》は、盛大な水しぶきを上げて、湖に着水した。

 いや、着水というより、墜落であった。

 ベルは、湖に投げ出され、頭から水に突っ込んだ。

「ごぼっ、ぶはっ! ……つ、冷たいですわ────!!」

 全身、ずぶ濡れである。

 ドレスは水を吸って重く、髪は海藻のように顔に張り付き、口からは湖の水を吐き出している。

 もはや、令嬢の面影は、欠片もなかった。

 会場が、静まり返った。

 そして、次の瞬間。

 わあああああっ!!

 大歓声が、湧き起こった。

 救助の小舟が、ベルのもとへ駆けつける。

 舟の上から、係員が、距離を計測した。

 その結果が、会場全体に告げられた。

「フォンレーヴ家、《フォンレーヴ号》! 飛行距離――百二十メートル!」

 会場が、どよめいた。

 百二十メートル。

 それは、決して、優勝できる距離ではなかった。

 優勝したヴェルダン侯爵家の機体は、二百メートルを超えていた。五十人と三年の重みは、伊達ではなかった。

 《フォンレーヴ号》の記録は、全出場者中――八位。

 入賞すら、できなかった。

 優勝賞金、金貨五千枚は、手に入らなかった。

 家は、建て直せない。

 婚約破棄も、避けられない。

 すべての目論見は、外れた。

 ベルは、ずぶ濡れのまま、小舟で岸へ運ばれた。

 そして、岸で待っていたハンナに、抱きとめられた。

「お嬢様!」

「ハンナ……」

「無事か! 怪我はないか!」

「……ええ。でも」

 ベルは、ハンナの顔を見上げた。

 そして、ぽろぽろと、涙をこぼした。

「ごめんなさい。わたくし、優勝、できませんでしたわ。あなたの機体を、優勝させて、あげられなかった……」

 ハンナは、首を横に振った。

 そして、ベルを、ぎゅっと抱きしめた。

「馬鹿。何言ってんだ」

「だって……」

「八位だぞ。八位。二人で、三ヶ月で作った機体が。五十人と三年の連中が、ずらりと並んでる中で。八位だ」

 ハンナの声も、震えていた。

「あんた、見たか。あの技術者たちの顔。あいつら、青くなってたぞ。『女ふたりのおんぼろ』が、自分たちより下の順位の貴族家を、何家も抜いていったんだ」

「……」

「あたしの機体は、本物だった。空が、証明してくれた。あんたが、証明してくれたんだ」

 ハンナは、泣きながら、笑っていた。

「ありがとう、ベル。あんたが、漕いでくれたから」

 それは、初めて、ハンナがベルを、名前で呼んだ瞬間だった。

 ベルも、泣きながら、笑った。

 二人は、ずぶ濡れのまま、泥まみれのまま、湖畔で、抱き合って笑った。

 優勝は、できなかった。

 賞金も、手に入らなかった。

 だが、二人は、確かに、何かを手に入れていた。

 お金では買えない、何かを。


     ◆


 その日の夕方のことだった。

 湖畔の片付けをしていたベルのもとに、ひとりの青年が、歩み寄ってきた。

 立派な身なりの、見るからに高貴な青年だった。

 ベルは、その顔を見て、固まった。

 王子、ジェラルドであった。

「あなたが、ベルナデッタ嬢か」

 ジェラルドは、ベルを見つめて、言った。

 その目には、これまで彼女に向けられたことのない、熱がこもっていた。

 ここで、種明かしをしておこう。

 ジェラルド王子は、これまで、ベルのことを心底どうでもいいと思っていた。

 なにしろ、悪評しか聞かなかったのだ。「自慢ばかりの令嬢」「他人を見下す令嬢」「中身のない令嬢」。婚約は親が勝手に決めたもので、彼自身は、一刻も早く破棄したいと思っていた。

 ところが。

 彼は、今日、見てしまったのだ。

 あの、鬼のような形相で、ペダルを漕ぐ姿を。

 ずぶ濡れになって、湖から這い上がる姿を。

 相棒のために、技術者たちに啖呵を切る姿を。

 そのすべてが――彼の知っている「ベルナデッタ嬢」とは、まるで違った。

 彼は、惚れた。

 今さら、惚れてしまったのだ。

「ベルナデッタ嬢。私は、君を、誤解していた」

 ジェラルドは、真剣な顔で言った。

「君は、噂とは、まるで違う人だった。あんなに必死に、あんなに真っ直ぐに、何かに打ち込む人だとは、知らなかった。私は――」

 彼は、ベルの手を取ろうとした。

 泥と豆だらけの、傷だらけの手を。

「改めて、君と、婚約を続けたい。いや、続けさせてほしい。家の没落のことは、私が何とかする。だから、君は、私の――」

 かつてのベルなら、ここで、飛び上がって喜んだだろう。

 婚約破棄は回避され、家は救われ、社交界での面目も保たれる。彼女が、三ヶ月前まで、喉から手が出るほど欲しかったものが、すべて、手に入る瞬間だった。

 だが。

 ベルは、すっと、手を引いた。

 そして、静かに、言った。

「……ごめんなさい、ジェラルド様」

「な……?」

「お断りいたしますわ」

 ジェラルドは、自分の耳を疑った。

 会場に居合わせた人々も、ざわめいた。

 王子からの求婚を、断る令嬢。

 そんなもの、聞いたことがなかった。

「ど、どうして……? 君は、家を救いたかったのではないのか? 婚約破棄を、恐れていたのでは……」

 ベルは、くすりと笑った。

 その笑顔は、もう、社交界の作り笑いではなかった。

「ええ。少し前まで、わたくし、それだけを考えていましたわ。家のこと、社交界のこと、面目のこと」

 彼女は、ハンナのほうを、ちらりと見た。

 ハンナは、少し離れたところで、機体を片付けながら、こちらを見ていた。

「でも、わたくし、知ってしまいましたの」

「知った……?」

「ええ。自分の力で、何かを成し遂げる喜びを。誰かと一緒に、本気で、夢に挑むことの、楽しさを」

 ベルは、空を見上げた。

 《フォンレーヴ号》が飛んだ、あの空を。

「わたくし、空を飛びましたの。自分の脚で。自分の力で。あの瞬間、わたくしは、生まれて初めて、本当の自分に、出会いましたわ」

 彼女は、ジェラルドに、向き直った。

「あなたの隣で、何不自由なく、優雅に微笑む人生も、あったかもしれません。でも、それは、もう、わたくしの欲しいものでは、ありませんの」

 そして、彼女は、深々と、頭を下げた。

「これまで、ご迷惑をおかけしましたわ。どうか、あなたにふさわしい、素敵な方を、お探しくださいまし」

 ジェラルドは、しばらく、呆然と立ち尽くしていた。

 やがて、彼は、ふっと、笑った。

 悔しそうな、けれど、どこか清々しい笑顔だった。

「……敵わないな。今の君には」

 彼は、踵を返した。

 去り際に、ぽつりと、つぶやいた。

「……いい顔をするように、なったものだ」

 その背中を、ベルは、見送った。

 そして、すっきりとした顔で、ハンナのもとへ、駆け戻った。


     ◆


 後日談を、語ろう。

 フォンレーヴ伯爵家は、結局、没落した。

 優勝賞金は手に入らず、家を建て直すことはできなかった。屋敷は人手に渡り、伯爵は、田舎の小さな家へと引っ越した。腰の悪い父は、今は、のんびりと畑を耕している。意外にも、その生活が性に合っていたらしく、最近は顔色が良い。干物のようだった彼は、今では、よく日に焼けた、健康そうな老人になっていた。

 そして、ベルは。

 彼女は、貴族の身分を捨てた。

 いや、正確には、家がなくなったので、自動的に捨てることになった。

 彼女は今、ハンナの工房で、職人見習いとして、働いている。

 毎日、木と泥にまみれて。

 指を打ち、汗を流し、文句を言いながら。

 だが、その顔は、いつも、笑っていた。

「ベル! そこの板、持ってきて!」

「はいですわ! ……あら、これ、逆さまかしら?」

「逆さまだ。相変わらず逆さまだ」

「あら、いやですわ。三年経っても、まだ間違えますのね、わたくし」

「成長してないんだよ、あんたは」

 二人は、笑った。

 ベルの腕は、まだ、ハンナには遠く及ばない。

 板はいまだに逆さまに持つし、釘を打てば指を打つ。彼女が一人前の職人になる日は、果たして来るのかどうか、神のみぞ知る、である。

 だが。

 彼女は、毎日、本気で生きていた。

 お茶会も、夜会も、ドレスも、扇子も、王子も、社交界も、何もない。

 あるのは、油と木屑の匂いがする工房と、口の悪い相棒と、傷だらけの、いい手だけ。

 それで、十分だった。

 それが、何より、幸せだった。

 ある日、工房に、客がやってきた。

 立派な身なりの貴族だった。

 なんと、あのヴェルダン侯爵家の使いであった。

「フォンレーヴ……いや、職人ハンナ殿。そして、ベルナデッタ殿。折り入って、お願いがある」

 使いの者は、深々と頭を下げた。

「次の鳥人間コンテストの、我が家の機体製作を……どうか、お二人に、依頼したいのだ」

 ベルとハンナは、顔を見合わせた。

 そして、にやりと笑った。

「あら。五十人と三年でも作れなかったものを、わたくしたち二人に頼みますの?」

「お代は、弾みますわよね?」

「ええ、もちろん。金貨で五千枚」

 その金額にベルの目の色が変わった。

 ああ。あのとき、喉から手が出るほど欲しかった金貨五千枚。

 それが今、こんなにあっさりと目の前に転がり込んできた。

 だが、彼女はもうお金のことを第一には考えなかった。

 彼女が考えたのは、ただひとつ。

「ハンナ。やりましょう」

「ああ」

「今度は――わたくしたちの機体でヴェルダン家を優勝させてやりますわ」

「ああ。空のてっぺんまで、飛ばしてやろう」

 二人は固く握手を交わした。

 傷だらけの手と傷だらけの手がしっかりと、結ばれた。

 窓の外には青い空がどこまでも広がっていた。

 いつかあの空をまた飛ぶ日のことを二人は、思い描いていた。


 最後にもう一度だけ断っておく。

 ベルナデッタ・ド・フォンレーヴは、空を飛べる人間ではない。

 神は彼女に翼を授けなかった。

 だが彼女は知ってしまった。

 翼などなくてもいい。

 自分の脚で自分の力で本気で漕げば。

 人は空を飛べるのだ。

 たとえ、百二十メートルで、湖に墜落するとしても。

 その百二十メートルは、彼女にとって、世界のどんな高みよりも、自由な空だった。


 ――おしまい。

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