他人の家③
六か月後、春枝の入っているホスピスの部屋に動物病院の和美がいた。隣には背の高い若い男がいる。
「春枝さん、この人がこの前に話した占い師の世良さんよ」
「初めまして」男は頭を下げた。
「占い、よく当たるそうね」春枝はベッドで痛々しいほどに痩せた体を起こし世良を一瞥した。
「はい」
「謙遜したりしないのね。気に入ったわ」
「ありがとうございます」
「どうするの?」
「手相と人相が見れますが……手相にしましょう」
「何故、人相は見ないの?」
「今回は手相の方がいいでしょう」
「……世良さん。私はこの計画をなんとしても成功させたいの。だから成功するか貴方に見てもらうのよ。中途半端な遠慮や同情はいらないわ」
春枝はそう言うと挑む様に涼介を見た。
まばたきもせずに春枝の落ちくぼんだ目を見ていた涼介だったが頷くと言った。
「……人相では死相が出ているので正確に判断出来ません」
「ちょっと、世良さん」和美がうろたえて口を挟んだ。
険しかった春枝の表情がふっと和んだ。
「分かったわ。じゃあ、お願いするわ」
彼女は骨ばった手を世良に見せた。
翌日。
加奈子はホスピスのエレベーターの中でうなだれていた。
義母が良くないのはおっとりしている加奈子にも分かっている。
昨日来たときは来週からは痛み止めのモルヒネの量を増やすと医者に言われ、加奈子は涙ぐみながら頷いた。
でも春枝の前ではいつも空元気に笑っている。作り笑いをしている。
三階にエレベーターが到着した。
「お義母さん、今日は少し暖かいわ」加奈子は病室のドアを開けてベッドに横たわる春枝に明るく声をかけた。
「毎日、来なくてもいいのに」
「でも家に一人でいても退屈ですから」
「ミーは元気にしてる? ねだられてもおやつのやりすぎは禁物ですよ」
「はい」
「それとミーの鈴をこれに変えたらどうかしら」
春枝の手には黄色のリボンに付けられたシルバーの色の鈴があった。
「これに?」
「七宝焼きの物は猫にはちょっと重いかもしれないから」
「分かりました」
「あとセントポーリアの鉢植えは窓辺で日にあててね。でないと花が咲かないから」
「はい」頷きながら洗濯物をカバンに詰める加奈子の横顔を春枝は見つめた。
口うるさい自分に嫌な顔一つしない加奈子。
会ってもらいたい女性がいると、今は亡き長男の紀夫が彼女を我が家に連れて来た時、何故こんななんの取り柄もない女性を選んだのかと春枝は呆れた。
でも今は違う。よくぞこんな素敵な女性と結婚してくれたと息子を褒めてやりたい。
周りからはしっかり者の姑のお陰で田畑家は回っていると思われているだろう。でも本当は違うのだ。しっかり者ゆえに気がまわり過ぎて口うるさくなってしまう。もし嫁が加奈子でなかったらとっくの昔に家を出ていってしまっていただろう。
大らかで優しい加奈子が春枝を受け止めるから二人はずっと家族でいられたのだ。
そして春枝はそんな加奈子を尊敬し感謝していた。
加奈子を見つめていた春枝は言った。
「今まで尽くしてくれてありがとう。今度は私の番よ」
「え?」
春枝が息を引き取ったのはひと月後の事だった。
「義姉さん、リビングの照明ははずして段ボールに詰めたから今度は和室の照明だね」
「まあ、明夫さん、助かるわ」加奈子は段ボール箱にガムテープで封をするとマジックで照明と書き込んだ。
部屋にあるのは段ボール箱とカーテンが取り外された窓辺で日向ぼっこをしている三毛猫だけだった。
「猫は連れて行くの?」
「ええ」
「ごめん、僕が引き取れればいいのだけどウチのマンション、規則で飼えないんだ」
「いいの。私もその方が寂しくないから……」春枝が亡くなって二か月、もう四十九日も過ぎたというのに加奈子はまだ一人の生活に慣れないでいた。
「……これからどうするの?」
「実家に戻ろうと思って。私の両親が亡くなってからずっと空き家になっているから」
「そう……」
春枝の死後、出てきた遺言書には短く『全ての財産を息子の明夫に遺す』とだけ記されていた。
てっきり母は甲斐甲斐しく身の周りの事をしてくれた加奈子にこのマンションを遺し、自分は少しばかりの預貯金を相続する事になるだろうと独り合点していた明夫は驚いた。
遺産は動産、不動産あわせて九百万になった。
嬉しい誤算だったが、明夫はまたしても金で悩まなくてはならなくなった。
いくら遺言だからといって全て自分が手にしていいのか、加奈子に分け与えるべきだという良心と、ならば残りの授業料一千五百万はどうするのだという現実、その板挟みに苦しんだ。
結局、明夫は加奈子に救いの手を差し伸べる事が出来なかった。
だからせめて引っ越しの手伝いにと有休を取り来たのだが、荷造りを終えマンションを引き払おうとしている義姉を見ていると胸が痛みだす。
いたたまれなくなった彼は言った。
「喉が乾いたから自販機で何か買ってくるよ」
マンション前にある自販機でゆっくり時間をかけて缶コーヒーを二本買う。
エントランスを抜けエレベーターに乗り込むと正面に付けられた鏡に、善人にも悪人にもなれない見慣れた自分が写った。