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他人の家②

 母達の住んでいるマンション前の通りに出て明夫は最寄りの駅に向かって歩き出した。

 外はうだるような暑さだったが先程まで止まらなかった汗はいつしかひいていた。


 高校一年生の息子の修一が医者になりたい、と言ったのは半月前のことだった。

 妻は喜んだ。

 明夫は驚きに満ちた瞳で息子を見ていた。

 母の春枝は高校の教師だったが明夫の成績はパッとしなかった。

 でも明夫の息子の修一は違う。明確な目標を持ち努力を怠らないから当然、学校での成績も良い。

 塾には本人が希望したので中学の頃からずっと通わせている。勉強はとても教えられないので親として頑張っている息子の塾代くらいは払ってやりたかった。

 でも医者になりたいから高三になったら医大を受験したい、と言う我が子の言葉には感嘆する反面、戸惑いを隠せなかった。

「頑張って。修一なら絶対合格する」感情が高ぶり少し早口な妻の言葉を聞きながら明夫は思っていた。


 金は、金はどうするのだ


 努力家の息子を応援したいという親心と学費の支払いという現実がせめぎ合っていた。

 

「実家に援助を頼むわ」

 修一が風呂に入ったのを聞き耳を立てて確認しながら妻はリビングで言った。

「大丈夫なのか?」パソコンで医大の学費を検索しながら明夫は訊いた。

「ええ、きっと出してくれるわ。私の父は昔から修一の事を見所があるって、かってくれているから」

「受験まで二年あるから倹約して貯蓄すれば……」医大の学費を見て明夫の言葉は途切れた。

 最低でも二千万円。

 表情を曇らせる明夫と相反して妻は顔を上気させて言った。

「私もパートを増やすわ、大丈夫、大丈夫よ。きっと」


 妻の言葉の通り彼女の実家は五百万円、援助してくれる事になった。加えて彼女は来週からパートも増やすようだ。

 そんな妻の行動力に舌を巻きながら明夫は取り残された様に動けないでいた。


 実家の母の顔が頭に浮かぶ。

 向こうの実家が援助してくれるのにウチの実家が一銭も出さないのはマズイ。

 明夫の中に負い目という感情がむっくりと頭をもたげるようになったが彼は母に援助を頼めずにいた。

 義姉(ぎし)の加奈子がいたからだ。

 兄が亡くなった後も明夫の実家に残り母の介護を一人で(にな)っている。

 本当は明夫も手伝わなくてはならないのに……義姉に任せっきりだ。

 この上、更に金の無心など厚かましくて出来ないと明夫の心の奥底に前からあった後ろめたさという感情が目を覚ました。

 半月の間、悩み続けた彼は重い足取りで実家を訪れ母の介護ベッドの脇で止まらない汗をぬぐっていたのだった。

 そして加奈子が席を外した隙をみて金を出してもらえまいか、と蚊の鳴くような声で尋ねた。

 明夫は腹をくくって出向いて来た筈なのに母の顔を見る事が出来ず、その視線は足元の畳のヘリをずっとなぞっていた。

「少し考えさせて」母は言った。

 彼は頷くと早々に実家を後にした。

 義姉の顔も直視できそうになかったからだ。


 息子の明夫が自分と視線を一度も合わせようとせずに逃げるように帰ってから春枝はずっと考えていた。

 離れて暮らしていても母親だから息子の気持ちは分かっているつもりだ。

 だからこそ息子が頼りたくない実家まで頼らなければならない程、学費の捻出(ねんしゅつ)に苦労しているのは想像できた。

 孫の修一は可愛い、出来れば援助してやりたい気持ちはあるのだが肝心な先立つものが無い。

 ミャー

 ベッド脇にミーが寄って来て鳴いた。

 春枝は我にかえるとキッチンで夕食の準備をしている加奈子に声をかけた。

「加奈子さん、ミーがお腹をすかせているみたいなの」

「はーい」

 加奈子が和室に入って来てエサをやる為にミーを抱いてキッチンに戻ると、春枝はまた眉間にしわを寄せて考え始めた。

 春枝の体内に治癒(ちゆ)したはずだったリンパ腫がまた姿を現したのは三カ月前の事だった。

 ミーの肉付きが良くなり毛並みも艶やかになってゆくのとは対照的に春枝が床に()す日は増えている。

 覚悟は出来ている。

 残念だが医大生になった修一をこの目で見る事は叶わないだろう、春枝は思っていた。

 それでいいのだ。そうすればこのマンションを売却してそのお金を加奈子と明夫の二人で分ける事が出来る。明夫もいくばくかのお金を手にする事が出来る。

 だが逃げるように出て行った明夫の後ろ姿を思い出した。

 夏は日が傾くのが遅い。ようやく暗くなり始めた部屋の灯りをともす事も忘れて春枝は考えていた。



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